想いはかなう | The Sence of Wonder

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呼吸器医として、喘息・結核の診療の傍ら、卒煙支援もしています。
二児の母として、妻として、医師として・・・
日常のほんのちょっとした Sense of wonder を発信しています。

ふう、残暑が続きますね。

我が家はようやく今週末から夏休み。北国で涼んできます。


最近感動的な出来事があったので、記憶が薄れないうちに・・と

思って書いています。

長文なので、お時間のある方はどうぞ。

彼がI氏の名前を知ったのは、

まだ山に登り始める前の、高校生のとき。

偶然書店で手にとった一冊の本。



「北の山の栄光と悲劇」滝本幸夫



昭和初期、北の山の未踏のピークを極めた北大山岳部。

本は、その9名が昭和1515日に日高のペテガリ岳へ挑戦し、

雪崩によって8名を失うという悲劇から、始められています。

悲しみを乗り越えて、昭和1815日、くしくも雪崩のあったその日に

部員のI氏とS氏が、とうとう厳冬期のペテガリ岳初登頂を果たします。

http://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=338


その後、登山に夢中になり、とりわけ北の山、日高に魅せられた彼にとって

ペテガリ厳冬期初登頂者の名前は深く刻まれました。

その頃、私は大学を卒業後、熱帯医学の専門施設に入り、

国際医療協力を夢見て、主に呼吸器感染症と結核を勉強していました。

結核患者は少なくなりましたが、感染者の多くが

社会的サポートを必要とする弱者であり、

さまざまな分野のスタッフと協力して、彼らを社会復帰させる仕事に

私はとてもやりがいを感じて、海外の医療過疎地での支援に

通じるところがあるように思っていました。



その後、人生の転機が訪れて故郷の北海道に戻り、

北の山を愛する彼と出会いました。

私たちは家族となり、私はふたたび東京で、

結核を専門とする施設で働く事になりました。

数年前のこと、彼は北大構内にある北大山岳館を訪れていました。

ちょうどその日は、山岳館の大掃除の日だったようで

数名の山岳部OBが集まっていて、彼らと話していたところ、

ペテガリ初登頂者のI氏が90歳近くながらご存命で、いまなお現役で

東京で医師として働いているという驚くべき事実がわかったのです。


I氏は卒業後、結核に携わる仕事を生涯続けており、

90歳を過ぎてなお、社会的弱者の結核診療を行なう

現役医師として活躍中でした。

I先生の所属する機関が、私の勤める施設と直接関連があることは

すぐにわかりました。


高齢になり後継を育成したいI先生と、

以前より社会的弱者の結核診療に興味を抱いていた私は、

こうして、この夏、初めて会うことになりました。

それからの事は、本当にこの一ヶ月の間に起こったことです。

I先生とお会いした際、別れ際に、彼の北の山への想いと

ペテガリ厳冬期初登頂者として、以前から先生のお名前を

存じ上げていた事を告げたところ、

その数週間後にI先生の山荘で開かれる予定の

北大山岳部OB山の会の集まりに、お誘いいただいたのです。

彼は本当に喜んで、コレクションの北大山岳部部報や

山の古書を持ち出しては、当日までそわそわと落ち着かない様子でした。


そして、先週末、晴れ渡る空の下、八ヶ岳の麓にある、

素敵な山荘に家族でお邪魔しました。


30年前は膝丈ぐらいだったカラマツの木々の間から、

山並みが美しく見えていたそうです。

そのカラマツもいまや首を曲げて天を仰ぐほどの高さとなり、

森の中の静かな佇まいは、とても涼しく快適でした。



彼がI先生を知ってから20年以上たった今、

二人はとうとう出会うことができ、

山荘の片隅で静かに山への想いを語り合ったようです。

その二人をみていて、私は心のそこから幸せを感じました。


その後、続々と山の仲間たちが集まり、フランクな雰囲気の中、

他大学の山岳部出身である彼を暖かく迎え入れて、

私たちを「仲間」としてくださいました。

20年来の想いが届いたのでしょうか。


彼とI先生を結びつけたのは、私。

このような感動は人生において、そう何度も味わう事はできないでしょう。

私にとっても、彼にとっても、「想えば遂げられる」という言葉が

脳裏に浮かんだ出来事でした。


写真は北大山岳館に展示されているI氏のピッケル。

画像は北大山岳部HPより。



女医・ゆきみんと先生の診察室から