熊野神社(御坊市熊野) | ゆきまるのブログ

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風の吹くままに身を漂わせてふわふわふわふわ…「紀伊続風土記」を片手に和歌山県内の神社仏閣を巡る歴史好きの他愛の無いブログです(´・ω・`)

こんばんは(´・ω・`)

昨日の続きです(*'∀`*)v

猿田彦神社から国道42号を南へ走り、日高川を越えてすぐの湊交差点を左(北)に曲がり(県道25号)、道なりに行き、北熊野交差点の次の四つ角を右(南)に曲がると右側に熊野(いや)神社があります初詣2


熊野神社『和歌山県神社庁公式サイト』『紀伊続風土記』より

祭神
(主祭神)伊弉諾神、伊弉冊神、大日霊女神
(配祀神)国常立神、天忍穂耳神、木花咲耶姫神、磐長姫神、須佐男神、火乃須曽利神、宇賀魂神、猿田彦神、天佃女神、神大和伊波礼彦神、大巳貴神、天児屋根神、焼芝王子、厩戸皇子、武甕槌神、万幡姫神、経津主神、金山彦神

合祀社    八王子神、秋葉神

旧日高郡岩内荘熊野村の南谷に鎮座し、熊野村の産土神。江戸時代後期の社号は「熊野権現社」と記され、境内に宮山が2つあり、1つ(本山社・一御前社・大和御前社)は東西191間(約343メートル)・南北145間(約261メートル)。もう1つ(大宮)は周170間(約306メートル)。『紀伊続風土記』よれば、神宮寺の記載は無し。

古くは壮麗で神領も多く、社殿も12社あったが、後世に4社へ合祀。4社は境内に連なって造営されていたが、後に火災に遭って焼失したため、大宮のみ区域を引き離して再建されたと云う。

社伝によれば、始まりは出雲民族が紀伊に植民する際にその祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の新熊野に勧請する途中、「当地に熊野神が一時留まりませる」と伝わり、
平成2年(1990年)10月発行の出雲熊野大社の冊子『熊野大社』に「熊野大社(出雲)に残る言い伝えによると、近くの村の炭焼職人が紀伊国へ移り住んだときに熊野大社の神主がクマノノオオカミ(熊野大神)のご分霊を持って一緒に行き、それをまつったのが現在の紀伊本宮大社である、としている」との文が見える。

例祭での渡御は田辺牛ノ鼻(現・田辺市芳養松原)までと伝えられ、道中鉾につけた鼻高の面が海の方に向くと漁事に障いがあると漁民が大変恐れ、また馬が嘶くときは凶事のある兆しとして、沿道の人々が恐れて炊煙を上げず、道を掃き、潮を打って清め、ひたすら無事に通過するのを祈ったと云う。国道42号沿いのバス停「牛ノ鼻」近くに渡御旧跡の石碑がある(『紀伊続風土記』によれば、江戸時代後期での渡御は「十一月初ノ申日大宮祭、翌酉日本山祭にて神主禰宜五人馬上にて鉾五本を立て川上荘入野村大山権現に渡御あり。其日大和御前にて神楽あり、中ノ申日、一ノ御前にて祭あり、是当時の祭礼の式なり。祭祀の時の神楽歌を伝えたり」とある)。

江戸時代に至り、紀州藩主徳川頼宣の三男頼純(後に伊予西条藩主)が疱瘡を患い、熊野神社と大山権現神社に祈願、初穂を奉納し、すぐに平癒した。さらに、5代藩主徳川吉宗(後に江戸幕府8代将軍)も江戸藩邸に滞在中、疱瘡を病んで祈願したところ全癒したと云う。平成2年8月12日付の『紀州新聞』にて、「徳川吉宗のことを調べようと思って『田辺町大帳』を繰っていたら、宝永三年(1706年)の条に次のような記事が載っていた、云々…去年(宝永2年(1705年))申年の十二月、殿様(吉宗)が江戸において御疱瘡遊ばされ候、その前いまだ、和歌山にても御沙汰これなきうちに、日高郡遊屋(熊野)権現の御託宣に、国主が疱瘡煩い申すべきと神子(巫子)が口走り申し候由云々…」の記事が掲載(この説明は境内にも掲げられている)。これらの諸事により紀州家代々の藩主は当神社の氏子となり、廃藩に至るまで御供料の寄進があったと伝えている。さらに、紀州藩6代藩主徳川宗直は、敬神の念厚く、本殿の改築・長床の修復を家臣に命じたと云われる。

平成15年(2003年)、本殿の修復奉祝祭を斎行し、平成20年(2008年)、境内社八王子神社・秋葉神社の修復遷座祭を斎行した。




鳥居(一ノ鳥居)初詣2


鳥居(二ノ鳥居)初詣2


百度石初詣2


手水舎初詣2


石灯籠初詣2


参集殿初詣2


社務所初詣2


境内初詣2


説明板初詣2


拝殿初詣2


本殿初詣2




合祀社初詣2

境内は山全体なので結構広いですが、参道の一部が生活道路と兼ねているので注意が必要です。指定の駐車場もありませんが、鳥居脇まで入ることが出来ます好

この後、さらに東のほうへ向かいました(*'∀`*)v