こんにちは(´・ω・`)
一昨日の続きです
熊野神社から県道25号をひたすら東へ走り、日高川町丹生地区に入り、道なりに行くと広めの四つ角の左脇に丹生神社の石碑があり、左(北)に曲がります。次のT字路を左(西)に曲がり、橋を渡ってすぐ右側に丹生(にう)神社があります
丹生神社『和歌山県神社庁公式サイト』『紀伊続風土記』より
祭神
(主祭神)誉田別命
(配祀神)天照大日命、丹生津姫命、天児屋根命、里大神
合祀社 事代主神、大鷦鷯神、保食神、琴平神、氏神
旧日高郡川上荘上和佐村に鎮座し、江戸時代後期の社号は「丹生明神社」と記され、境内は東西20間(約36メートル)・南北25間(約45メートル)。『紀伊続風土記』によれば、神宮寺の記載は無し。
『紀伊続風土記』によれば、初冬の祭祀に「笑祭」と云うものがあり、村中の木菓を桝に入れ、遊覧所に行って唯笑って去る祭りを祭礼とした。
※『紀伊続風土記』の内容が松原眞妻神社と間違っていましたので修正しました(3月9日修正)。
社伝によれば、『天野告門』の中に、「日高の江川の丹生に忌杖刺し給ひ」と言う一文がみえており、江川と言う地名が始めてみえるのはこの古文書が初めてであり、水銀文化の盛んな頃、丹生津姫命を祖神と仰ぐ丹生氏が当地に来たり、水銀発掘、土地開拓、農耕機織を教え、土地発展の礎を築いた事が窺われる。
当初は江川八幡宮と呼び、室町時代中期に手取城主玉置氏が和佐城山に築城後、守護神として川中長子八幡宮より八幡大神を勧請。最初城内に祀っていたのを江川の此の地に遷し、放生会祭として祭礼は執り行なわれて来た(『紀伊続風土記』には記載が無い)。「應永・天文年間(1394年~1554年)当社の放生会祭の席順の人名を記せる文書、村民江川氏に藏む」と『紀伊続風土記』や『江川村天正検地帳』(国立図書館所蔵)に記載がある。
参道
由緒書
鳥居(一ノ鳥居)
手水舎
社務所
お面が奉納されています
鳥居(二ノ鳥居)
拝殿
本殿の説明板
神輿庫
合祀社
境内
境内は山全体なので、結構広いです。指定の駐車場はありませんが、境内まで入ることが出来ます
この後、さらに東のほうへ向かいました