吉田八幡神社・雲生寺跡(御坊市藤田町吉田) | ゆきまるのブログ

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風の吹くままに身を漂わせてふわふわふわふわ…「紀伊続風土記」を片手に和歌山県内の神社仏閣を巡る歴史好きの他愛の無いブログです(´・ω・`)

おはようございます(´・ω・`)

前回の続きです(*'∀`*)v

鳳生寺から中学校に面した交差点まで戻り、左(東)に曲がって次の四つ角を左(北)に曲がり、JRきのくに線(紀勢本線)の踏切を渡ると正面に熊野古道の海士王子があり、道なりに少し行くと左側に吉田八幡神社があります初詣2


吉田八幡神社『和歌山県神社庁公式サイト』『紀伊続風土記』より

祭神
(主祭神)八幡大神、神功皇后、高良神
(配祀神)三筒男大神、天児屋根命、金山彦命、大鷦鷯命、天満天神

合祀社    春日神、若宮神、天満天神、住吉神、琴平神

旧日高郡矢田荘吉田村の八幡山に鎮座し、吉田村の産土神。江戸時代後期の社号は「八幡宮」と記され、境内は方8町(山林を含む、約872メートル)。『紀伊続風土記』によれば、境内に神宮寺の雲生寺(天台宗)があったが現存せず。

『旧神職阪本外記天保四年書上』『日高郡誌』によれば、昔より「やはた山」と呼ばれ、八幡大神とは特に縁が深く、また、その周辺に「九海士の里九艘谷」と言う地名が残ってあり、古くに九艘谷は入江となっていたと云われ、神功皇后が遠征の帰途、この地に行宮所を設け、一時留まられた。出立する際、留まる9人の供者に船1艘ずつを与えて帰宮された。9人はその船で漁業に努め、農耕に精出し、行宮の聖地に八幡大神を祀った。

時が経て、天智天皇(第38代)の治世、九海士の里の長「早鷹」と言う者が、嗣子が無いことを憂い、八幡大神に祈願の末、宮子姫(後の藤原宮子)を授かり、姫は文武天皇(第42代)の正室となった。後、神社近くに文武天皇の勅願で道成寺が建立されたが、神社は荒廃。時を経て、石清水八幡宮より神霊を勧請し、東吉田政所の西に一時奉斎し、その後に八幡山へ遷したと云われており、勧請の折、京都阪田村より阪本五郎左衛門、阪本又佐衛門随従し来り社司として代々仕えたと云われ、政所屋敷跡の東を神主屋敷と呼び、近くの禰宜坂と言う地名も今尚残っている。同地に阪本、坂本姓の多くはその分家と言われている。

明治6年(1873年)、村社となり、明治41年(1907年)、村内の小社が合祀された。


鳥居(一ノ鳥居)初詣2


石灯籠初詣2

左右一対あります(*'∀`*)v


参道初詣2


宮子姫(長髪姫)生誕地之碑初詣2


手水舎初詣2


社務所初詣2


鳥居(二ノ鳥居)初詣2


拝殿初詣2




合祀社初詣2


境内初詣2

また、境内には雲生寺を象った休憩所とトイレがあります(*'∀`*)v


雲生寺『和歌山県神社庁公式サイト(吉田八幡神社の項)』『紀伊続風土記』より

天台宗の寺院。山号は龍宮山。

吉田八幡神社の神宮寺。旧日高郡矢田荘吉田村にあり、創建時期は不詳だが、神社が造営された時に建立されたものと思われる。『亨保書上』『天保書上』によれば、当初は真言宗で、寺号も浄国寺(無本寺)と云ったが、延宝年間(1673年~1681年)に天台宗に改宗し、「雲生寺」と称する。しかし、明治3年(1870年)頃に火災により焼失し、神仏分離の影響で再建されることなく、現在に至る。


本堂を模した休憩所初詣2


御堂を模したトイレ初詣2

境内は比較的広く、駐車場はトイレ横に詰めれば5~6台程置けるかと思います好

どうも、休憩所には"ヌシ"がいるようですガーン

写真にもチラッと写っていますが、バスタオルとゴミが散乱していました354354

"ヌシ"さん、少しは片付けましょうね泣き1

この後、さらに東へと向かいました(*'∀`*)v