おはようございます(´・ω・`)
最近、疲労が溜まってブログの更新より睡眠を優先してしまう
今日も早出なので、予約記事で
昨日の続きです
吉田八幡神社から県道190号を少し南に走り、すぐのT字路を左(東)へ曲がる(県道27号)と道成寺(天台宗)の門前町に出ます。JRきのくに線(紀勢本線)の踏切手前のT字路を左(東)に曲がって道なりに行き、日高川町役場に面した交差点を左(北)に向かうと左側に土生八幡神社があります
土生八幡神社『和歌山県神社庁公式サイト』『紀伊続風土記』より
祭神
(主祭神)応神天皇
(配祀神)事代主神、神功皇后、天照皇大神、伊弉岐尊、倭比売神、迦具土神、別雷神、天津児屋根命、金山彦神、稲倉魂神、豊受神、大穴牟遅神、大山祇神、木花咲耶姫命、丹津姫神、須佐男神、武内宿禰、早蘇神、菅原道真、高良神
合祀社 飛鳥神
旧日高郡矢田荘土生村の端に鎮座し、矢田荘4箇村(土生・小熊・藤井・鐘巻)の氏神。江戸時代後期の社号は「八幡宮」と記されている。『紀伊続風土記』によれば、神宮寺の尊勝寺があり、江戸時代後期の頃には薬師堂のみが残っていたが現存せず。
創建時期は不詳だが、古くは飛鳥神社と称していたが、後に旧日高郡矢田荘小熊村(現・日高川町小熊)の岡ノ段と云うところから八幡宮を勧請したが次第に衰退。正平13年(1358年)、矢田荘地頭逸見萬寿丸清重(満清の子で、祖は甲斐国主武田義清の嫡子逸見清光。萬寿丸は9代孫)の母である覚性禅尼が再興させた。神田も1町5段あったが、天正年間(社伝では関ヶ原の戦い後の慶長年間(1600年~1615年))の検地で没収となる。江戸時代に至り、文化3年(1806年)、火災に遭って社殿を全焼し、覚性禅尼が再建した時の棟札や古文書を失う。同年11月、仮殿を建て、天保9年(1838年)2月に現在の本殿・拝殿を再建した。
その後、明治6年(1873年)村社に列し、明治時代末期~大正時代初期にかけて、矢田村・御坊市藤井・早蘇村玄子・早藤・蛇尾の多くの神社を合祀した。祭神が21柱もあるのはこのためである。昭和7年(1932年)、式殿・拝殿を再建し、社務所を改築して境内を整備した。
鳥居(一ノ鳥居)
由緒書
手水舎(鳥居右側)
石灯籠
左右一対あります
参道
鳥居(二ノ鳥居)
手水舎(拝殿前)
拝殿
本殿
社務所
神輿庫
合祀社
鳥居(裏参道)
境内は比較的広く、建築物は山側に集中しています。駐車場の表示はありませんが、境内に置けます
この後、北のほうへ向かいました
次の更新で今回の散策話は終了です