伊勢の津七福神 辯財天霊場「萬松山円光寺」 6月29日 | のん気な雪狐の連絡帳

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雪狐の日記(行動・見聞記録)です。

ランチを済ませたら6か所目のお寺に行くよ照れ

R23を北上して車で約20分車

到着したのは墓地の中の駐車場アセアセ

 

何度もお参りに来ている雪狐は知っているから良いけど、

初めて来たママ友たちはこんな場所にとびっくりしてたびっくり

 

萬松山円光寺は、

三代将軍家光の母お江が幼少期に、

母お市の方、姉の茶々、初と共に過ごした

伊勢上野城跡内にあるお寺だニコニコ

 

ご住職に色紙を渡し、

御朱印帳にも書いてもらう間、

冷たいお茶をいただきながら

案内役の方から

お寺の説明をしていただく照れ

 

延文三年(1358年)に栗真庄に北朝の後光厳天皇の勅願寺として開創

のち、足利将軍家の祈願寺として栄え、

「一休さん」でおなじみの蜷川新右衛門親当の息子、親元が書いた

「蜷川親元日記」にも度々の記載がある

弘治年中(1555年頃)、分部氏が河芸町上野へ居城と共に移す

戦国時代をたくましく生きた分部家初代光嘉は、

関ヶ原の役の翌年、2万石の大名まで上り詰め、

この円光寺を菩提寺と定めた。

永禄11年(1568年)、織田信長は「天下布武」を旗印に

伊勢・近江路に侵攻、翌12年(1569年)領土とする。

 

ところが、

信長の妹のお市を妻とした浅井長政は朝倉義景と同盟関係を結んでいたこともあり、

敵対することになる。

天正元年(1573年)、浅井長政の立て籠もる小谷城は信長軍によって落城。

お市、初、江は落城寸前に脱出。

翌年(1574年)、兄の信包の居城伊勢上野城に入る

それから津城が完成する天正8年までの6年間、

お市と三姉妹はこの伊勢上野城で生活する

この4人の世話をした人物が分部光嘉で、

お市と三姉妹は浅井長政の菩提を弔うために円光寺へ参詣することになる

 

天正8年(1580年)に津城が完成すると、信包、お市と三姉妹は移り住み、

信包は、まず日本三観音の一つ津観音を復興し、天下静謐(せいひつ)を祈った。

。。。。。

大河ドラマ「江~姫たちの戦国」の放映されていた頃は

たくさんの方が参拝に来られたんやに~

 

ちなみに、

天正8年(1580年)に信長の弟、信包が津城主となり

母の土田御前は晩年を津で過ごし、

亡くなった後(津)四天王寺に埋葬された。

なので、四天王寺にお墓があるんやにニコニコ

 

と、津観音、高山神社、四天王寺とのつながりもわかりやすく説明してもらうニヤリ

 

で、肝心の弁財天。。。の前にご本尊を参ろう

近くまでいくことが出来ます照れ

 

ご本尊の宝冠釈迦如来

宝冠を被った珍しいお釈迦様

 

辯財天はご本尊の下におられる

真言は

おん そらそばていえい そわか

 

辯財天は貧困を救い財物を与える天女で、

音楽・弁才・財福・知恵の徳がある

 

3人揃って真言を唱えると、

今度は沙羅双樹について教えてあげると

境内へ爆  笑

 

その前に、

 

朱印帳をいただく。

 

円光寺は沙羅双樹でも有名なお寺だニコニコ

ピークは過ぎているようだが、

 

何本かの木に咲いていた照れ

 

平家物語の冒頭に「沙羅双樹」として登場する「夏ツバキ」

朝に咲いて、夕方には散る花で「一日花」と言われているそう。。。

境内には今11本あるそうだ

 

境内から見た山門

ここを潜ってお市の方と三姉妹はお寺にやってきたのだろうか

 

山門から見た境内

紅葉の時期にはとても綺麗だそうだ

 

紅葉の時期に撮影されたパネルを見せてもらいながら

説明を受ける爆  笑

 

青もみじも綺麗やけど、

秋の紅葉はもっと綺麗やに

 

見せてもらったパネルと同じ構図で撮ってみたり。。。チュー

 

このしだれ紅葉は5色になるんや

拝観料無料でこんなええもんみせてもろうたと

京都から来た人も感動しとった!

 

今度は秋に来なあかん!!

と、暑い中たくさん説明していただいた爆  笑

 

木瓜の花ややぶつばき、ロウバイ、

皇帝ダリア、くちなし、桜と

いろんなお花が楽しめる円光寺

次は秋に来よう照れ

 

萬松山円光寺

三重県津市河芸町上野2861