「聖なるイチジクの種」
を観てきました。
ストーリーは、
テヘランで妻や2人の娘と暮らすイマンは念願だった予審判事に昇進する。しかし仕事の内容は、反政府デモ逮捕者に不当な刑罰を下すための国家の下働きだった。報復の危険があるため家族を守る護身用の銃が国から支給されるが、ある日、家庭内でその銃が消えてしまう。
というお話です。
市民による政府への反抗議デモで揺れるイラン。テヘランで家族と暮らすイマンは以前から願っていた予審判事に昇進する。しかし仕事の内容は、反政府デモ逮捕者の書類に目を通さずサインをするだけというものだった。内容も読まずにサインは出来ないと断ると、以前の予備判事は断ってクビになったというのだ。仕事を無くせないイマンは仕方なくサインをする。
国家公務に従事する判事ともなると身の危険に晒される恐れがあり、国から一丁の銃が支給される。護身用として持たされたのだ。いつも銃を持ち歩き、家にも持ちかえっていたが、ある日、家の中から銃が消えた。机の引き出しに入れていたのだが消えていたのだ。
最初はイマンの不始末による紛失だと思われたが、次第に疑いの目は、妻、姉、妹の3人に向けられる。誰が?何のために?捜索が進むにつれ互いの疑心暗鬼が家庭を支配する。すると何故かSNSにイマンの顔写真と家が晒され、反政府の人々からの攻撃を恐れたイマンはしばらくの間、田舎へと隠れるために家族で移動する。
外界と孤立した家族はそれぞれに不満と疑惑を持ち、それがぶつかり始める。物語は予想不能に壮絶に狂いだす。そして…。
後は、映画を観てくださいね。
この映画、最初はどこにでもいるような普通の家族のお話なのに、拳銃が無くなるという事件が起こってからは、まるで坂道を転げ落ちるように恐ろしい展開になって行き、追及者と容疑者というように分かれていくんです。家族を守ってくれる真面目で優しいお父さんだったイマンが、処刑人のごとく家族を一人一人締め上げていく姿に驚きました。
家長のイマンが昇進するところから始まります。裁判所に20年も勤めていて、やっと予審判事に昇進出来るんです。このまま上手く行けば判事になれて、良い官舎に入れて給料も上がり、それこそネットで言う”上級国民”になるということなのかなと思います。妻ナジメは大喜びでかいがいしく夫の世話をやきます。
しかし今イランの情勢が悪く、反政府を掲げてデモなどをしている市民を拘束し彼らを裁判で裁くことになるので、国側の人間と見なされる判事などは市民から狙われる標的になりえます。その為に国はイマンに護身用として拳銃を持たせるんです。イマンは最初は銃を持つことに不安があるようでしたが、段々と扱いが雑になります。
ここで思い出したのが、中村文則先生原作の「銃」という邦画です。ある日突然に”銃”を手にしてしまうことで、青年の人生がくるくると変わっていくというお話なのですが、このイマンは”銃”の主人公と同じような精神状態になったのかなと思いました。
銃を持つことが通常になっていたイマンは、ある朝、銃が無くなっていることに気が付きます。仕事から真っすぐに家に帰ってきたし、車の中に置き忘れも無い。という事は家の中から無くなったということで、家族を疑い始めるんです。妻のナジメ、長女のレズワン、次女のサナ、3人とも自分ではないと訴えます。でもイマンは疑うんです。
確かにイマンの立場からすれば、家族を疑うのは解るんです。家族以外が盗めるわけがないんですから。でもね、聞きかたがあるでしょーが。自分の妻と娘だよ。尋問してどーすんの。最初はイマンが軽く聞くだけで、その後は判事仲間に頼んで尋問するんです。他人に尋問させるのもおかしいですよね。家の中で無くなったのなら、最初は家族の問題として調べていくべきでしょ。
国から貸し出された銃を失くしたということでイマンが罪に問われることになってしまうので、イマンは必死なんです。せっかく就いた仕事を辞めさせられ、犯罪者になってしまう。家族のために働いてきたのに、全てが無くなってしまうからと家族に助けて欲しいと頼んでいれば、もしかしたら解決したかもしれないのに、盗んだだろと疑って尋問するからややこしくなるんです。
イマンは銃が無くなったことで、家族が一番ではなく仕事と自分の地位が一番だということが解ってきてしまうんです。今のイランでは女性の地位は低く男性のモノとして扱われており、イマンも家族と言いながら自分の支配下の人間という意識でいたのだと思いました。だから自分の支配下にある人間が自分の物を盗んだということが許せなかったんじゃないかな。
ナジメ、レズワン、サナは、そんな父親の顔を知って、銃を返したとしてもその怒りは収まらないだろうと感じたのかもしれない。だから決して盗んだとは言わないんです。何かが狂ってきていることに感づいているんです。なのでどこまでも解決しないんですよね。そして父親vs女性たちという構造になっていくんです。
1つの家族のお話だけど、国も同じですよね。政府が自国民なのに疑って追い回してしまう。彼らのための国なのに、一部の人間のための国になってしまっているんです。反政府運動が起こりSNSでその情報を娘たちは知っているのに、父親は政府側の人間として男として、家族にいう事を聞かせようとするんです。そんな状態の中で銃の紛失があり、イマンは家族を疑い、家族もまたイマンを敵とみなしてしまうんです。
イマンの妻や子どもたちは銃紛失が起きるまで自分たちが父親の支配下にあって、自分の意思で考えて行動することが出来ていないということに気が付かなかったのだと思います。この事件で疑われることとなり、父親が自分たちを支配下に置いていたことに怒りと怖さを感じたんじゃないかと思いました。
”銃”というイチジクの種が植えられ、その木によって家庭が侵食されていき、最後には家族という木が「イチジクの木=銃」に取って代わられて腐ってしまう、というたとえ話なのか、または、イラン政府の考え方を種とすれば、イマンはその種に寄生されて家族よりも政府の考えが優先されるようになり、最後には自分も無くなってしまうということなのかもしれません。
この映画を観ると、いかにイスラム教の法典がおかしな解釈をされて、男性に都合の良いように変換されてしまっているのかが解ります。イスラムの法典にだって、家族は大切にすべきだし、暴力は良くないと書かれています。きっとムハマンドさんだって、法典がこんな使われ方をするとは思っていなかったでしょうね。権力を持ってしまうと、その権力を失いたくなくて自分に都合よく頭の中で書き換えてしまうんです。宗教は怖いですね。
私はこの映画、超!お薦めしたいと思います。悲劇的な結末を迎える映画ですが、何故こんなことになってしまうのかを考えて欲しい映画です。よく出来た作品でした。カンヌ国際映画祭で賞を貰い、アカデミー賞にもノミネートされているそうです。ぜひ、観に行ってみてください。
ぜひ、楽しんできてくださいね。
「聖なるイチジクの種」