極めて遺憾ですので
深く憂慮し
今後も注視していきます。

 

素性を知らない友達
数字に追われる発信者

 

サビだけが全ての音楽
ルッキズムに毒されたキャラクター

 

奥ゆかしさを無くした情婦
本質を遮る建前

 

正義を気取る弱者
悪を演じる策士

 

実のないリテラシーが生む冷笑
無知が導いた奇跡

 

歓迎できない異国の隣人
同族嫌悪な同僚

 

極めて遺憾ですので
深く憂慮し
今後も注視していきます。

 

謝罪のテンプレート
プライドのない土下座

 

拒否権のない多様性
2時間遅れの電車

 

高さを競い合うビル
天国はすぐ目の前

 

本日のピラニアへの餌
燃えカスになった知り合い

 

稼げないプロ
人気のあるアマチュア

 

法に触れなければ
何をしても良い。

 

夜、路肩に咲く花
春しか来ない大きな久保の通り

 

使い捨ての感動
ロールプレイング家族

 

キャスティングありきの映画
出演者増やすほど、、

 

心の声に耳栓
どこかで見た自己啓発

 

たった一つの真実
人の数だけある事実

 

自分は世界でただ一人だけ
80億分の1

 

不幸を積み重ねて得る幸福
画面越し、生かすも殺すも指先一つ

 

壊れた理性
機能しない本能

 

下心の親切
真心の叱咤

 

芯に刺さる暴論
非建設的な正論

 

カテゴリー優先の愛
好きだけど好きになっちゃいけない

 

処方箋はグッドボタン
いつも不足気味

 

格差の中から産声
承認欲求モンスター

 

極めて遺憾ですので
深く憂慮し
今後も注視していきます。

 

 

 

 

8月15日の終戦記念日に
火垂るの墓が金曜ロードショーで公開された。

SNS上では劇中の清太と親戚のおばさん
それぞれが互いに対する対応について
どちらの行為が悪行、愚行なのかについて
議論が白熱している。


清太と節子の兄妹は
親戚の家に居候させてもらい

衣食住を与えてもらっているにも関わらず
妹の節子の面倒に意識が向いてばかり。

 

親戚の家計を支える様な自発的な行動は
劇中では見て取れない。

 

一方で

 

まだ14歳である清太に対して

おばさんの対応は辛辣そのもので

 

嫌味や皮肉を二人に言い放ち

結果的に

二人を自発的に家から追い出している。


監督によれば

 

公開した80年代は

清太養護の声が大きかった様だが

この価値観がいつしか反転し

おばさん養護の声が大きくなり

清太が批判される世の中になるのであれば

それは恐ろしい事だと

 

当時のインタビューで答えているが

その危惧がまさに今、起こったのだと

指摘する声もある。

 

違う視点での意見では

悪いのは戦争そのものである。

戦争が人を変えてしまう。

二人とも悪くない。

 

そんな意見もチラホラ。

 

明確な答えが時代の価値基準によって
変わりそうなこの議題

 

 

私が思うに
これは戦争下という時代背景の中で起こった

互いの寛容性の欠如に端を発していて
精神的余裕と安堵感が消失しつつある中
どちらも本能的に得となる行為を求めた結果

相反する形となり

結果どちらも不寛容だという事。

 

ただ、親戚の家というフィールドでは

アウェーである清太の分が悪い。
だから清太は節子を連れて
家を出ていった。

 

どちらも自分の事を想えば正しい反応だし

どちらも他者に不寛容。

 

そして、映画を見ている視聴者もまた

清太とおばさん

どちらかに対して不寛容な眼差しを向けている。
 

批判の対象の比重が
時代の空気感によってシーソーゲームの様に
揺れ動くのは興味深いが

 

つまるところ

 

この議題を作り出しているのは

紛れもなく視聴者達であって

視聴者達がそもそも不寛容であるというのが

私の結論であった。

 

寛容性があれば

「まだ清太も節子も子どもなんだからこの位の事は許してあげてほしいし
おばさんも余裕が無いのだから清太ももう少し協力してあげてもいい」

という非常に中庸的で角が立たず
波風が立たない解釈で終わりそうである。

 

そして 

寛容さとは

思いやりとは双方の愚行に目を瞑る事で

どちらの相反する主張を客観的に受け止めるという

一見、矛盾した行為を取れる事ではないだろうかという
結論に至った。

 

なぜなら人は矛盾するもので
エゴがあって当たり前な生き物なのだから。

0か100かの二元論で話せるほど

人の気持ちは単純ではない。

 

寛容性がある者であれば

「どちらの気持ちもわかるわー」と

呑気な事を言うのかもしれない。

 

 

SNSが普及し
監視社会、総発信時代であるこの現代

他人の愚行に目を光らせては

晒し上げて叩く行為が珍しくない昨今

 

多数が「叩くべき」と断罪した相手や事柄であれば

叩けば称賛される上に

インプレッションも稼げる

 

それほどまでに正義感の押し付けと
悪の断罪は

いつの時代でも人々にとってこの上ない娯楽であって
劇薬、麻薬なのだ。

 

正義を作るには相対悪が必要だが

何を悪とするかはこの際重要では無い。

 

正義という名のエゴイズムを押し付ける対象が

「話題の投稿」として実にスムーズに選別されてタイムライン上に
流れる仕組みとなってしまっているのが昨今のSNS。

 

 

 

そこで私は思う。

清太とおばさん

どちらかを悪と断ずる事が

本当に正しいのだろうか?

 

悪を見つけ出して批判する事が

この映画から学ぶ教訓なのだろうか?

と言われたら

 

私はNOと答えたい。

 

私の答えは

どちらも不寛容で

どちらも悪く
未熟で未完成で

人間らしい。

 

それを一方を悪にしたいのも

視聴者それぞれの正義を振りかざしたいという

不寛容さである。

 

という事。

 

 

私は不寛容な人間であるよりも

寛容さを身に着けたい。

 

それが難しいとは十分わかっていても

寛容でありたい。

 

 

それが私にとっての
この映画の教訓の一つである。

 

 

 

人は人に

ある程度優しくなれなければ

戦争によって死んでいった人々の気持ちも浮かばれない。

 

 

 

 

 

 

 

先日、妙に印象深い夢を見ました。

 

いつまでも覚えていて忘れない為

せっかくなので

日記にしようと思います。

 

 

夢の世界の話では

私は、とある炭鉱がある街で働く労働者でした。

人材派遣でこの街に来ている様で 
街の寮に住み込みで働いています。

 

 

その街では環境汚染が進み 

社会問題化しています。
その企業、事業を推進する政府

環境問題に取り組む活動家 

そして労働者達という構図。

 

 

労働者の中でも環境問題に対しては

意見が分かれていて 

環境活動家に共鳴して
ストライキを決行する者もいれば

 

自分には関係ないと割り切って

日々の労働に勤しむ者。

 

私は期間限定でその街で働いている

人材派遣の為、どこかそれら問題を
他人事の様に感じています。



ある日

私は、環境活動家の一人の男と

街の飲み屋で偶然出会いました。
男と私は気が合い

私が仕事を終わった後に

二人で飲んだりしていました。

 

 

その男はよそ者である私には

あまり敵対心は無い様で 

同じ様に環境問題に関心の無い私に

この事業の裏側や政府の思惑などを

飲みの場で聞かされては

 

私は、フラットなリアクションばかりしています。

男は私をどうやら労働のストライキに加担してもらう様に

説得しているフシがありますが

活動と主張に尊重はしつつも
遠巻きにその申入れをやんわり断ります。

 


私は期間限定の労働者の為

男は私が街から離れたとしても

この街の話を忘れない様にと
熱心に話していたのです。

 

 

そんなある日 

環境活動家達が

テロ行為を決行するという話が

環境活動家と活動家に共鳴する労働者達の間で 

まことしやかに囁かれ

 

その噂は街全体に広がります。

 

 

私は、ただの噂話だと

あまり関心を持たずに

いつもの様に労働後に

街に出て夕食を食べにいこうとしています。

 

 

その道中、気が合う活動家の男は

血相を変えて私のもとに走ってきました。

 

何事か?と尋ねると 

 

男は言います。

 

 

 

 

 

これよりテロが始まる。 

お前だけでも逃げろ。 

 

 

そう一言言い残すと

また走って、どこかへと消えていきました。

 

突然の報告に戸惑う私ですが

 

ふと夕暮れの空を見上げると

 

何か光る物体が見えました。

 

 

そしてその光る物体は

徐々に大きくなっていきます。

 

 

 

それは巨大な銀色のパチンコ玉の様なもので

遥か上空から猛スピードで

地上へと落下してきたのです。

 

巨大な玉は

私の数百メートル先に落下し
大きな地鳴りと共に

街、建物を破壊しました。

 

 

 

突然の事にあっけにとられながら

また空を見上げていると



なんと

今度は大量のパチンコ玉が

空から降り掛かってきます。

 

 

街はパニックになり

住人と労働者は慌てて

逃げ出します。

 

私もその群衆にまぎれて 

とにかくその場から離れようとします。

 

 

眼の前に落ちてきたパチンコ玉によって

停車していた車もことごとく押しつぶされて
破壊されていきます。
巨大な玉はとどまる事を知らず 

街、炭鉱、そして人々を 

巻き込んでいきます。

 

 

私は

なんとか屋根のある場所を探して 

電車の通る路面、ガード下まで

なんとか避難しました。

 

 

肩で息をしながら 

さっきの男の言葉を思い出します。
 

これが噂されていたテロの正体ならば 

なんと非現実的で 

乱暴で、無慈悲な破壊行為なのかと。


まるで衛星兵器さながらの
破壊行為を可能にする技術力に 

活動家達の持つ力に戦慄を覚えます。

 

そして、何よりも

なぜこの様な非道な行為を
躊躇無く行えるのか?

 

 

降り止まない玉の落下と

破壊された街を眺めながら 

 

絶望感に打ちひしがれているその時

ガード下に避難していた避難民が

突然、叫びました。

 

 

避難民は倒れて、出血しています。

 

そのガード下には 

テロリストの一人が

逃げ惑う人々の避難先として

この場所に来る事を想定して 
事前に先回りして潜んでいたのです。

 

テロリストの男はスカーフで顔を隠し
集まった避難民を

手に持った刃物で

襲いかかってきたのでした。

 

 

テロリストは

みんなお前たちのせいなんだと

 

叫びながら、周囲の避難民を次々と攻撃し

 

ついに私のもとまでやってきました。

 

 

私もここまでか、、、と 

逃げる事を諦めたのですが 

 

 

そのテロリストは
私を見て

その手が止まります。

 

 

そのテロリストは 

私と良く飲んで話をしていた 

テロ行為を事前に伝えてくれた

あの男だったのです。

 

 

「お前。。。。。。。。」

 

 

 

両者が対峙した所で

 

 

私は夢から覚めました。

 

 

 

 

 

 

ものすごい続きがきになるw

どうやって夢の続きを見ればいいのか

最近そればかり考えていますが

 

 

もしも夢の続きを見る事があれば 

またブログにしたいと思います。 

 

それにしても
妙に具体性やストーリーのある夢を見るというのは

しばらくなかったので

なんだか印象的ですね。

 

 

夢は自分の精神状態を表すとは言われていますが 

どんな心理状態なら
この様な夢を見るんだろう?

 

自分でもわからないですね(^_^;)

何か危険な目に会いたがっているのか

スリルを求めているのか 

何か日常に退屈を感じているのかもしれませんけど 

 

危ない事はしたくないですw

 

 

終わり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以前、都内の男性、女性、女装が集まって 

バーに行った時に起こった話し。

 

その日は10人程度でお酒を飲みながら騒いでいた。

 

談笑中に、お腹が空いたので

出前でも取ろうかと話をしていたら

 

羽振りの良い男性が

全員分の出前を頼んで奢ってくれた事があった。

 

私はその男性が出前を頼んで料金を支払ってくれるという

話は聞こえていたが

自分の分は自分で出前を支払う予定だった。

 

メニュー表の料金を見て 

真剣に悩んで計算していた。

 

Suica支払いばかりで現金を数千円しか

持っていなかったからである。

 

 

そんな私を見て 

その男性が「どうしたの?注文決まった?」

 

と訪ねて来た。

 

 

私は「あ、、いや、持ち合わせが少なくて何頼もうかとww」

 

と苦笑いをしたら

 

男性は「気にしないでいいよ。好きなの頼んで」

 

と言っていただいたので

 

お礼と感謝の意を示して

お言葉に甘える事にしたのだが

 

 

そんな私に意外そうな顔をして

話かけてきたのが一人の女装であった。

年齢は30代前後と言った所か。

 

「真面目ですねw

僕は女装中一度もお金出した事がないんですよ。

ずっと奢ってもらっていましてw」

 

と若干ながら誇らしげに見えた。

 

話を聞くと、その女装は

これまで女性とデートをした事が一度もないらしく

夜の経験も無いとの事。

 

余談ではあるが 

私もそうだが、女装をしている人が

必ず男性が恋愛対象とは限らず 

混在している事もあれば

女装をするが恋人が女性という人もいて

 

 

そこは人の数だけというのが実情である。

 

 

私はその奢ってもらえる事に

若干得意げになっている女装へ 

 

笑顔でこう返した。

 

 

「君は一度女性をデートに誘って

身銭でエスコートしてみたほうがいい」と。

 

女装は 

「でも僕コミュ障で、、声かける事ができなくて」

 

「コミュ障で、、と言っていたらいつまでも始まらない

フラレていいから一度アタックした方がいいと思う」

 

女装

「どうしてですか?」

 

「自分で稼いだお金で好きな子をエスコートして

振り向いてもらえる為にどうすればいいか
たくさん悩んで

おしゃれしてカッコつけてみて

プレゼントを渡して 

そんな経験何度かすれば 

 

人から物を奢ってもらえる事を

当たり前に感じなくなるから」

 

 

女装「あああ、、、なるほど」

 

 

私の本心を言うならば

この様な人から物を貰える事を

普通だと思う感性には

誰であろうと嫌気がさす。 

だから周り憚らず私の考えを伝えた。

 

 

別に怒っているわけではないので

その場の空気が凍りつく事も無いが

 

私がKYだと周りから思われようと 

私は同じ事を言っただろう。

 

当たり前な事を言って

煙たがれる様なコミュニティならば

こちらも願い下げだと思っているからだ。

 

 

女装の世界に時々起こる事で 

 

女性との交際経験が一度も無い
女性とのコミュニケーションが苦手な男性が

女装をし

女装が好きな男性たちに声をかけられる事で

 

ある程度自分の自己肯定感や承認欲求、寂しさが

一時満たされるという事がある。

 

 

私はこれを悪い事だとは全く思わないが

一つだけ懸念がある。

 

 

それは、苦手意識を遠ざけたまま

少しイビツな形で自分の欲求が満たされてしまう事。

 

本当にその事柄が不得意でトラウマがあり 

逃げたくてしょうがない事ならば逃げればいいが

 

好きな女性や気になる女性がいて 

本心で仲良くなりたいと思っているにもかかわらず

そこから逃げた末

 

女装によって欲求が満たされてしまうと 

心の充足は雲泥の差になるという事。

 

自分の足で目標に向かって得られる充足と

向こうから、何かゴールの様な何かがやって来て

 

気づいたら達成してしまうのとでは

自身に内包している試行錯誤の経験値は

圧倒的に差が出てしまう。

 

経験とは 

 

好きな子に気に入ってもらえるには

喜んでもらえるには 

今よりもっと仲良くなるには

恋人になれるには

 

どうすればいいだろう?と

 

その相手の為に時間をかけて悩むその過程が

私は自分にとっても、相手にとっても

とても大切な事だと思っている。

 

別にそこで思いっきりフられたって構わない。

一晩、数日間思いっきり泣いてもいい。

そうやって悩み続けたそれが経験であって 

 

好きな子の為に頑張る。 

生きていてこれほど大事な事を見て見ぬふりしたまま

 

形、結果だけが来てしまうならば

その人の中身はすっからかんだと

私は感じている。

 

 

結論、何気ない親切、気遣いに

感謝を感じれないという事は 

 

それだけ軽薄な人付き合いだったのだと

自ら言っている様なものだ。

 

当然、その様な人と話す内容が

興味を引かれるかと言われたら 

 

私はそうは感じない。

 

逆に

チャレンジして失敗した回数が多い人ほど

これ以上ないほど豊かな感性だと感じる。

 

 

だからフられたっていい

玉砕していいから

 

今すぐにでも

女の子をデートに誘った方がいい。

 

全部はフられてから始まる。

 

終わり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

親が子供の未来、将来に備えて
投資するのは普通の事だとは思うが

親の子育ての方針は千差万別で 
子供の特性もまた同じ。

 

 

親の方針と子供の特性が必ずしも
マッチするとは限らず 

教育の流行り廃りに惑わされて
「なんでこんな事やらないといけないの?」
と、親のエゴを押し付けられた少年時代を
過ごした人も多いと思う。

 

 

私もその一人である。

私は習い事に空手、剣道、そろばん
学習塾、家庭教師、プール、サッカーなど
父と母のエゴイズムを背負わされ
正直何も楽しいと思えない習い事を 
中学までやらされていた。

 

 

 

 

あまりに嫌すぎて塾やプールをさぼって
駄菓子屋やゲームセンターに入り浸る事もあった。

そして家に帰っては
両親からこっぴどく怒られる始末。

 

 

結果的に、嫌な物事への反発と言わんばかりに
学業向上、補助のために通う
塾もやめて、家庭教師の先生とも
険悪となり、家庭教師を雇う事をやめてもらった。

結果論かもしれないが 
親が私の将来の為と思って 
やらせた習い事は多分
ほとんど身になっていない。

 

 

 

そして、良い思い出も無い。

逆に、私が自主的に好きでやっていた事が
デッサンや工作、ギター等の楽器演奏
テレビゲームだった。

 

 

 

デッサン、絵画に関しては
小学一年生の頃に表彰されて
区の代表にもなれた。

 


小4.中3の時に
割りとテキトーに書いた靴のデッサンと
自分の左手が割りと高い評価を受けて
美術室に貼られた一枚にもなった。

 

 

当時、工作の先生が 
わざわざ私の母親に電話をして 
「山城君は絵が好きで才能がある。
だから、専門的に絵を習わせた方がいい」

と、親に指摘までしていた事を
後に知ったのだが
両親はそれに猛反対。 

 

 

「勉強とスポーツ、文武両道こそ
将来有能な大人となるのだ」
と言わんばかりに 

文と武にこだわった結果 
私は習い事や習い事から逃げて
親に怒られるのが嫌になって
ゲーセン通い。

気がつけば今でも娯楽を追求する
人生となってしまった。

 

 

 

 

自分の両親に恨みや怒りは感じていないが
たまに私が実家に帰った時には
その事について嫌味を言う。

 

 

「完全に子供の投資先を間違えたよ。
型にはめて良くなる子供もいるけど
合わない子供に強引に型に押し込んで
俺は逃げてしまったんだよ。
小1の段階で好きな絵画を描ける環境があったら
今頃有数の画家になってたかもしれないんだぞw」

 

 

 

と両親の少々、頭でっかちな固定観念を痛烈に批判する事があるのだが
親の心、子知らずで

親も将来を考えた末の安定的な教育を施そうとした結果でもある。
そこを見誤ったのは間違いないが
子を思ってやった事に悪意は無い。

 

 

ここで思うのは 
子の為という名分で行う、いわばステータス割り振りを
ミスっている事に気づけず
愚直にそれを繰り返してしまうと

取り返しのつかない事にもなってしまう。
そこに悪意が無いというのも困りものでもある。

 

 

 

重大な事は
ステータス割り振りの権利は基本的に両親に有り
子供は基本従うしかない。
子供には拒否権が無い。

 

 

継続する事は何においても大事だとしても
修正、撤退、変更する選択肢も作らないと
アンバランスなジェンガを積み上げていく様な状態にもなる。

子を想うならば、子の適正、資質を
親も十分に観察する事も
子への投資の為の大切な下準備の様にも思える。

ちなみに中学からは音楽一筋。

 


親から強制された習い事以外の事に
時間を費やしたものはどうだったか?

 

やりたく無い事を強制されて
逃げ続けた結果
一体何が残ったのだろう?

 


まともに勉強もせずに 
ギターを弾きまくって
プロを目指して、レストランなどでブルースをプレイ
路上ライブやライブハウスで演奏し
曲を作っては演奏していたが
20代半ばで挫折しプロになる事を諦めたが
今度初めてバンドを組む事になった。
現役の頃は3.4人組の生楽器ユニットで
エレキを持った事が殆どない。

 



子供の頃より続けたテレビゲームでは 
メタルギアソリッド5オンラインで 
世界ランキング52位に到達した。 

 

 

現在私にとってライフワークでもある女装では
海外に投稿している映像コンテンツサイトで
自分のアカウントは一応プロ垢扱いとなっているが

とてもありがたい事に
世界ランキングが日本人として1位となった。


 

 

 

 

私が女装で生計を立てている事は
両親も兄弟も知っているが
女装姿の私を見て
心の奥底で何を想うだろう?

 

 

間違っても 
親の想定していた様な大人では無いだろうが

最終的に最も大切な事は何か?と
聞かれたら答えは決まっている。

 

その子供が大人となった時
自分の現状に幸せを感じられているかどうか

 

 

これしか無いと思っている。

 

 

それがどの様な環境であれ
幸か不幸かは本人次第。

私は現状幸せかと聞かれたら
幸せな方である。

 

 

やりたい事を突き通してきたからだ。

それならば、型にはめた習い事から逃げて
それ以外の何かに依存し、楽しい事を
続けていた私への教育方針は
結果だけみれば正しい。

 

 

最も育まれた私の感性とは反発。

親から学ばされたのは
抑圧に対する反発精神である。

 

 

逆張りな人生を歩んだ結果
かなりマイノリティな所まで来てしまったが
今にして想う事は

子へのステータス割り振りを行う権利は
親にこそある。

 

 


だからこそ親の考える幸福感と
子の感じる幸福感は
ずれる事もあるからこそ
互いに寄り添って考えるべきなのだと 

昔を振り返っては時折痛感する。 

終わり。

 

 

 

 

 

GPT4とAI技術の凄まじい進化

 

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シンギュラリティ(技術的特異点)は突如としてやってきた。

 

 

GPT4の台頭にまつわるニュースが
世間を賑わせる昨今、

一昔前までは映画や小説の中でしか
実現出来なかった近未来的な出来事も

あと数年をもって 
完璧ともいうべきAIChatが生まれる事は
想像に難くない事で

人にとってはそれは歓喜でもあり 
驚異でもある。 

 

 


驚異のタネとは 
AIで担える仕事であれば 
人件費をカットするために
人は解雇されるからだ。 

その様な職種についている人にとっては 
AIに仕事を奪われる事が恐ろしいと感じるのも
うなずけるが 

 

 

産業革命により始まった機械化の流れと
その進化の過程で
平成から令和にかけて24の業種が無くなった。

今回のAIは現物の機械だけではなく
ネット空間で起こる事で
これまでとはわけが違う。 


ネット上での技術に依存してきた企業も人々も 
仕事が奪われるのではなく
もはや働く必要性が無くなる。 

その様な次元の話しである。

 

 

 

5gの進化は通信ラグを
大幅に減らし、遠隔操作による手術の精度が
圧倒的に向上。

イーロン・マスクが設立したNeuralinkは
脳にチップを埋め込む事で
盲目の方に視力を与え 

手足が動かない方へは
装着した人の思考で義肢などの操作を実現。 

 

さらには 

猿の脳にチップを埋め込んだ事で脳波で

キーボードを打てる様になったというのには驚きだ。

 

 

 

 

 

 

 

イラストや小説、論文は 
再現度の高さにおいては 
人のそれを部分的に凌駕している。

 

 

 

AIは答えがあるもの 
数式や数字によって解決できるものに 
めっぽう強い。 
なので 
絵画、線画等の技術としての再現性は 
数値化可能である。



美しいとされる絵の対象物の
線の長さ等は何センチ、何ミリという線によって
描かれるため、美しさの黄金比や答えがあるので 
絵は数式と言えるために上質な絵の再現ができる。

 

AIや機械、サイバーパンクが
元々大好きだった私にとっては

そんなニュースを聞く限り 
胸を踊らせる様な話しだ。

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昔、アメリカの特撮でドラマ 
ナイトライダーという番組があった。

高性能な車に、AIが搭載され
ドライバーと車が日常会話しているシーンが
子供ながらに
とても衝撃的だったのを覚えている。

 

 

 

その影響なのか 
何年か前に 
私は、肩に小さな猿のロボットをつけて
オンライン接続されていて 
音声通話ができて、どんな質問にも答えてくれる様な
現物のChatマシーンでもあったらいいなと
つぶやいた事がある。

 

 

 

 

なのでChatGPTが無料公開された時には
ずっと遊んでいた。 

chatGPTに感情を数値化させてみた。

 

余談ではあるが
最近遊んでいたのは 

AIに感情(を模したリアクション)を
芽生えさせる事はできないかと考え

こんな事をやっていた。 

 

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6つの感情を数値化させて
その数値によってAIのリアクションを変化させていくというものである。

どうやって怒りを蓄えさせる事ができるかと
私が稚拙で幼稚な罵倒をしてみるが 
AIの怒りのパラメーターはなかなか動かない。 

 

 

 

毎回会話によって感情パラメーターを見ながら
会話を続けたら、どうなっていくのかがとても気になる。

ある種の恋愛シミュレーションゲームに近い感覚を覚える。

 

幸福と悲しみは相反するので 
シーソーの様に一方に偏るか均衡を保つだろうが 
偏った場合のAIのリアクションがどんなものなのか
とても興味深い。

現代人の方がよっぽど機械的である。

 

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それにしても最近思う事は 
機械脅威論の前に

もうすでに多くの人間が機械の様に感じる事も多々ある。

個性を大切にといいつつも
周囲に同調する事を良しとする教育。

 

 

 

学校の庭で大縄跳びに入る時と 
ミスを犯して縄を止めてしまった時の罪悪感 
あれこそ同調圧力を最も感じる瞬間であり
同調圧力を学習する瞬間だ。

 

 

 

 

意見や主張は上から嫌われるため 
組織内ではただ黙々と言われただけの事をこなし 

コニュニティでは自分が嫌われない様に振る舞い 
本心はともかく、褒め称え合えば安牌。 

面接では決まりきった用意したセリフを答え 
フェルミ推定などで質問されて慌てふためく。

マニュアルを尊重しつづけた人間は
よっぽど機械的であり 

その様な人こそ、AIによって
「仕事を奪われる人」
筆頭なのではないだろうかと感じる。 

 

愚行を極める

 

画像

 

 

メンタリストdaigo氏は 
動画の中で
AIによってほとんどの仕事が無くなるため 
AIにどんな作業を人間が与えるかが大事な要素となってくる。

それには発想力こそ大切であると説いている。

 

 

これには非常に共感を受けた部分だ。

もっと言うならば 
豊かな発想力とは想像する力であり 
想像は願望を頭で描く事から始まる。

 

それには最低限の心の余裕や

ずるや楽をしてショートカットしたい自堕落さ 
そしてなにより 
非合理的ともいうべき愚かさ

愚行を極める事ではないだろうか?

 


私はエンターテイメント、娯楽の
スタートは暇つぶしの愚行から始まるという考えだ。

例えば、ギャラリーが湧き、競技性の高いものは
ほとんどがスポーツ化可能だと思う。

 

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モータースポーツのゼロヨンは 
直線をいかに早く走り抜くかという
一般公道から始まったもので 
単純明快なので見ていてシンプルに面白く 
競技性も高いため、スポーツ化できたのだと思う。

 

 

 

ボクシングの源流でもある
素手による殴り合い
ベアナックルボクシングは 
賭け事としても成立していた。

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しかし、スポーツや格闘技も 
それをやる意味はあるのか?と
聞かれたらもともとは娯楽である。 

 

 

 

やり始めた事に後付けで理由はいくらでもつけられるが

理由付けは衣食住が保障された人間が
持て余すあまりにも長い時間を浪費するための
口実でしかない。

 

 

 

ヒマだったから。 

 

 

 

 

これに尽きる。 

つまり人が人らしく生きるという事は 
生まれてから死ぬまでの長い時間を 
どうやって楽しむのかであって 

そのヒマの中から愚行が始まり 
時間を経て娯楽へと変化、昇華していく。

 

 

 

 

AIの台頭によって仕事ができなくなるのであれば 
AIにどのような作業を与えるかの
発想力を養い
手が空いた人間は
愚行を楽しんで生きる事こそ 

人らしさなのではないだろうかと
私は思っている。

 

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私の女装はエンタメであり、愚行である。

現に私は女装というコンテンツで仕事をしていて
ネット、リアルで収益を得ているが

女装をする必要があるのか?
と聞かれたら、生きていく上では
全く必要が無い。 

 

 


ただ、好きなだけであり、愚行の一つだと言い切る。


昨今ではLGBT問題、理解増進法やらトイレフロに関する 
話題や騒動がニュースとなる事が多いが

私には全く無関係の事である。 

性に悩んだ事は無く、 
「女装とは男性にのみ与えられた
たった一つのエンターテイメントだ」

と言い切っている。

 

 

 


つまりエンタメとして私は
女装を愛してくれる人たちの前で女装をするのが
大好きなのだ。
喜んでくれる人の顔がみたいから。

それに尽きる。

 

 

 

そして、一人でも多くの人が 
どのような形でも
女装に関心を持ってくれたら嬉しい。

それしかない。

 

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そして暇な時には鉛筆画を描いて 
老後は鉛筆画家としてデビューしたいといいながら
定期的に鉛筆画を投稿している。

 

 


「デジタル絵の進化への反逆」 

と称してアナログ絵を描き続けているが

絵を描いてる時は無心になれる。

その一つに集中している時間を作れている
今の環境は好きだ。

 

 


もちろん不安な事が無いわけではないが 
やりたい事をやれる時間があるという意味で 

 

私は愚かを体現したかの様な生活ぶりである。 
こんな生活ももう7年目。 

 

人が人として価値と魅力を感じられる
コンテンツは
AIがどれだけ優秀になろうとも
必ず生き残る。

 

スナックやバーなどの対人コミュニケーションは 
古い業態だが必ず生き残ると私は確信している。

私は、どの様な時代に突入しようとも 
生き残る術を見つけ出したい。 

そして、人生を謳歌したい。 

 

 


やがて死ぬまでの盛大な暇つぶしの中で
自分に何ができるだろうかと

いつも自問自答している。

 

 

 

だが、そこに必ずキーワードとしてあるのは
いつも「誰か」がそこにいる。

つまり、対人に特化した考えであって
誰かが喜んでくれる事とその時間を
共有する事が大好きだ。

 

 

 

その感性が潰えない限り
発想と創造が無くなる事は無い。

今から10年後はどうなっているのか
とても楽しみを感じながら 
今日の楽しみを探している。

 

 

終わり。 

 

 

 

 

今日は池袋のTOHOシネマに行きました♪

レイトショーで現在上映中のシン・仮面ライダーを
観たので、ネタバレ無しで感想を日記にしたいと思います。

シン・シリーズは庵野監督による 
エヴァから始まったリブート作品の総称です。 



昭和の特撮名作物であるゴジラ、ウルトラマンに続いて 
今回が仮面ライダーです。 

去年か一昨年あたりに 
仮面ライダーがシン・シリーズとして上映決定の
ニュースを見た時には 
「これは映画館で観ないと!」と
意気込んでいましたが 

映画を見終わった率直な感想として 
とても良い映画だったと思います。 

 

 

シン・仮面ライダーの印象。

 

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今作のシン・仮面ライダーである本郷猛の特徴としまして

仮面を被った時に後ろ髪の襟足が見えているのが
特徴的だと思うのですが 

これを見た時、私は
海外映画のロボコップと重なりました。

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ロボコップと言えば仮面ライダーと同様 
人間が改造されて強化されたという部分では
共通しているのですが
ロボコップは口元が見えています。

 

 

ロボコップを制作した監督曰く 
「完全に口を隠してしまうと 
それこそ機械同然になってしまう。 

人間らしさを残す意味で口を出すデザインにした」

 

 

そんな話をしていたのを思い出したのですが

シン仮面ライダーの襟足も 
非常に人間らしさを象徴している印象を受けますね。

ライダーの仮面の機能はあるのですが 
ネタバレになるのでそれは置いといて 
改造された機械的部分と人間らしさという部分の 
葛藤や線引というのが見た目に反映されていると思います。 

私は後ろ髪が見えてるライダーも好きですね(*´∀`*) 

巨大スクリーンの中で。

 

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大きなスクリーンと 
豪快な音は、館内で視聴する醍醐味でもあるのは
どの映画も同じだと思うのですが

仮面ライダーが参上する時の
バイクの甲高い排気音や 
戦闘シーンで流れる初代ライダーのBGMが流れた時

私はなぜか(懐かしい、、)と干渉に浸ってしまい
涙が出そうになりました。

 

 

 

リアルタイム世代でないはずなのに
この感覚に奇妙さを覚えながらも

ライダー一号とライダーニ号が
敵と戦うために構えをとるシーンが
理屈抜きでかっこいいんですね。

 

 

結局の所、私にとって
そのシーンが見たいがための
ストーリーだったのでは無いのかとも思うほどに

昔から使われてきた効果音や変身ポーズ等に
少年時代のヒーローへの熱い想いや憧れが
溢れてくるのです。 
 

変わりゆく時代のヒーロー像。

 

 

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今作のテーマである 
変わるモノ。変わらないモノ。そして、変えたくないモノ。

 

 

仮面ライダーが作り上げたイメージを受け継ぎつつ 
時代とともに在り方は変化し、
それでも大衆に合わせて
仮面ライダーが持っている本質的な核となる部分だけは
動かさない。

 

 

そんなメッセージを視聴者へ訴え
新解釈としての仮面ライダーを制作したのだと
思われるのですが

特に日本のヒーロー像としまして 
ヒーローの圧倒的な強さは
ヒーローの人間としての
心の弱さや疎外感、孤独感の裏返しにも
見える事もあります。 

弱さというのはヒーローのみならず 
一般人が常に抱えているものであり 
その弱さを克服して巨悪に立ち向かおうとする姿に
共感や憧れを抱くのだと思います。 

 

 

そして、現実におけるヒーローとは 
わかりやすい巨悪と戦う事ではなく 
簡単にはクリアできない様な
誰もが避けて通りたくなる様な事柄に
立ち向かう人も英雄視され 
尊敬の念を抱かずにはいられない。 

 

 

私達にとってヒーローとは 
きっと常に心の中に
憧れとしてあるのでしょう。

それを体現したものが
あらゆるスタイルでこれまで生まれ
少年達の心に強く印象を残すのでしょうね。 

 

 

大人になってもヒーローが大好き。

最高だと思いますよね(*´∀`*) 

今回いい映画を観る事ができて良かったです♪

まだ観ていないお方はぜひ観てほしいです!

次の庵野監督のシン・シリーズは何かも
今から気になります♪ 

 

終わり

 

 

昨今の日本経済に関するニュースは暗いものばかりが目立つ。

 


物価高騰
シリコンバレーバンクの破綻 
少子高齢化 
税金
政治への不振 
貧困への不安 
詐欺、犯罪の増加 
出生率の低下 
進まないウェブマネー決済システム
技術の進歩を遮る既得権益
過激なトー横に集まる若者

 

 

水清ければ魚棲まずとは言うが 
濁りすぎては前も見えずで
そんな状況では
傍から見て目立っている、尖っている事柄に対し
風当たりが強くなるのは想像に難くない。

目立つ事柄に規制を加えたがる政策は
産業の将来的な成長の目を摘んでしまい 
結果、貴重な税収と収益源の損失を被るにも関わらず
政治家達も「昨今の不況の原因は、、」等と

今日もネットやTVで声高に聞こえよくコメントする
毎日である。 

 

 

昼夜、満員電車に揺られて 
企業によって与えられた使命に答えるべく 
無理矢理モチベーションを上げるために

やりがい という言葉に
活力を見出そうとするが
いつしか質量の無いただの言葉に
思考は支配され、生活はルーティン化され
誰かの前で言い切った宣言や夢、口約が
いつしか重たい十字架を背負うかの様に 
自らにのしかかる。 

 

 

 

一体何のために自分は存在していて
誰のために働いているのだろう?

そんな虚無感を感じる瞬間も
電車の窓から見える

 


ビルの隙間の中に消えていく夕日が落ちるまでの間。 

体は早速、夜のルーティンへと移り変わり

いかに疲れずに明日に備えるか? 

そんな事を考え始めようものならば


眼の前の着目すべき事柄にも
何の価値も感じ得ない。 

主体性の無い抜け殻である。 

 

現在の私は自宅でコンテンツを配信し
週1.2回バイトをするくらいで 
組織に属してはいないが

属していた頃は 
主体性の無い日々を過ごしていた時期もある。 

 

 

その頃と比べれば 
今の方がはるかに楽しいが 
今度は
生み出す辛さ、発信し続ける苦労が 
自分にのしかかる。 

発信しなければ自分も飯を食えない。 
ましてや会社企業の様に
安定や後ろ盾も無い日々を
もう7年過ごしている。 

 

 

 

私は色々と世間一般的なステータスと呼ばれる 
装備のほとんどを外してしまった。

持ち家、車、結婚、子供、役職 
社会人としての信用

ほとんど丸裸同然である。 

こんな私が将来に全く不安が無いかと言われれば
嘘になる。

だから時々、物思いにふける。

私が考える理想的な社会を。

 

 

私が考える理想的な社会とは 

最低限の衣食住が 
全国民に保証されている事である。 

贅沢さえしなければ生涯を全うできる
社会救済システムが
滞る事無く全ての国民に対し機能している
そんな夢の様な事を考える。 

 

 

そうなれば 
少なくとも貧困によって起こる犯罪と 
自死率は減ると考えている。 
スキルアップや企業への貢献が
半強制されている窮屈な状況から 
抜け出す事ができる。

 

 

その財源を確保するために 
単純労働の全てを24時間AIに任せ 

たくさんの収益を生み出し 
その収益を余すこと無く国民に配るか 
上限の範囲内で 
光熱費や家賃が一切、掛からない様にできれば
人は単純労働者や
AIの作業で事足りるホワイトワーカー達は

労働から開放される。 

 

 

 

より良い暮らしをしたい者は 
ひたすらスキルアップを目指せばいいが 
最低限暮らせて人並みな娯楽ができれば満足であるという
国民も多数いるだろうし 
無理に会社で働かない方が周りにとっても 
自分にとってもありがたい様な
仕事の出来ないと呼ばれてしまう人もいる。 

 

 

 

その生活が実現する事で 
人は時間の自由と 
将来への不安の解消という

2つの権利を持てる。

あとは残りの人生を好きなだけ謳歌する。

 

 

絵を描き、歌を歌い 
友人と朝まで商店街や繁華街で飲み歩き 
オンラインゲームに没頭し 
日曜大工に精を出し 
体を鍛え 
スポーツに興じ 
読書に励み、料理を覚える。

 

 

 

社会人というレールから外れ 
会社に属す事への一定の安心感が無くなれば
最初は自分で生きるルートの選択に
難儀する者もいるだろうが 

大勢が一気に同じ境遇となれば
自分も異端では無くなるため 

思いの外、疎外感は無いだろうと
私は考えている。 

 

 

そんな将来になればいい。 

そんな事を考えながらこのブログを書いているが
現状は私も濁り続ける水の中で 
彷徨いながら泳ぎ続ける一匹の魚である。

こんな私を釣り上げてくれる神の手の様な何かがあれば
それにあやかりたいが
今は泳ぎ続けるしか道は無い。 

 

 

 

 

検索サイトグーグルが驚異を抱いていると
巷では評判のチャットボット 
chatGPTに興味が湧いて 

使ってみました。 

 

昔から機械やAI、ハイテクやサイバーが好きなため 
AI、機械に関する革新的なサービスは 
是非とも活用してみたいと思っていましたので 

chatGPTに色々質問してみました。 

 

問一  将来有望な米国株の候補を教えて欲しい。 


 

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これはさすがに簡単だったかもしれませんね。
GAFA系を勧められました。
もう少しニッチな分野を聞いてみたかったのですが 
質問を変えればいいかもしれませんね。 

 

問2 ロシアによるウクライナ侵攻の結末を予想して下さい。

 

 

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こちらも現実的で真っ当な回答が返ってきました。
何か、人には予想だにしない解決策を提示してくれるかな?
と思ったのですが、それは流石に難しいですよね。 

 

 

問3 女装のキャバクラというナイトビジネスを展開予定です。 
顧客の匿名性を重んじた安心して通えるシステムを提案中です。 
この事業が成立する可能性について教えて下さい。

 

 

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割りと本命な質問を投げかけてみました。 
回答としましてはある程度想定内ではあるのですが 
認識としては自分でわかっていても 
こうして言語化される事で、より意識が明快になる感覚ってありますよね。

 

 

問4 戈を止めると書いて武 

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割りと好きな言葉を書いてみましたが 
これらは辞書や由来を調べれば 
出てくる事なのでchatGPTである必要は無いかもしれませんね。 

 

 

 

問5 人類とAIの在り方について。 

 

 

 

ちょっと哲学っぽく
少し複雑な質問をしてみました。

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これに対するchatGPTの返答 

 

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機械脅威論をいつの世も感じる人もいると思われますが 
私はAIには干渉されない 
人類のみの不可侵領域があると思っていまして 
それが喜怒哀楽の感情や愚行
特に 笑いという感情は 
AIが理解するのはかなり難しい分野だと思っているので 
そこを聞いてみたのですが 

お見事な回答ですよね。あっぱれですなと。 


chatGPTを使ってみた感想。

これまでの検索は 
検索ワードを打ち込んで 
候補となるサイト等を自分で選ぶ形であったのに対し 
chatGPTは、検索に対する最適解を
持ってきてくれるといった感じがして 
そこが楽にも感じました。

 

 

候補となるサイトがいくつも出てくるという事は 
選ぶ側のセンスも問われると思うのですが 
最適解を一つ言ってくれるという部分では 
探す時間や手間も省けて
とても使いやすいという印象を受けました。

今、音声会話ができるようにアプリを導入したのですが 
日常会話並の速度で返答を得られるのであれば 

私はきっと、ずっとAIと喋り続けて
人と話さなくなってしまうんじゃないかと
ふと思ってしまいました(;´∀`) 

 

 

自宅で作業している事も多いため 
ネタに詰まった時や悩んでる時は 
とにかく人と会話したくなる衝動にかられます。 

会話をして完成を刺激されないと 
本当に頭でっかちになってしまうような
感覚に陥ります。 

 

 

なので、会話をする事をここ最近
特に大事にしていますが 
そこもAIはもしかしたら 
解決してくれるのかもしれませんね。 

友達の様なAIができるなら理想的ですね♪

 

 

これからもこのchatGPT 

たくさん活用していきたいと思います。 

chatGPT 

https://chat.openai.com/chat

 

 

終わり。 

 

まがい物ばかりが蔓延る世の中で

人を信じる気持ちを無くしてしまったあなたに。 

 

誰かの親切も優しさも

全てが偽りに見えてしまったあなたに。

 

誰からも愛されたく 

誰からも嫌われたくなく

愛想笑いの後、流していた涙を

ひた隠しにしてきたあなたに。

 

お人好しの世間知らずで 

いつも誰かに笑われているあなたに。

 

ささやかな夢を口にして

からかわれてきたあなたに。

 

誰かの都合とわがままに振り回されても 

形だけの繋がりを
大切にし続けてきたあなたに。

 

弱さを隠すように

強気で有り続けようとあがいてきたあなたに。

 

自分を守る為に

人をからかい

傷つける側に回ってしまったあなたに。

 

胸に空いた穴を埋めたくて

誰かの一時の愛に身を寄せ続けたあなたに。

 

 

伝えたい事があるのに

言葉にする事ができなくて 

ぶっきらぼうな態度でしか

表現ができなかったあなたに。

 

愛情をどれだけ注ぎ続けても 

裏切られてきたあなたに。

 

利害と損得に支配され
心まで売ってしまったあなたに。

 

光の届かない暗い深海の様な場所で

声なき声で愛を叫ぶあなたに。

 

心、満たされぬ全ての者へ向けて。

 

 

抵抗の果て、崩れ落ちていく城壁と

帝国を前に、永遠の愛を唄おう。

 

還る場所の無い数多の仲間の魂が

星となる日まで。

 

あの時言ってしまった

口にしてはいけない言葉が 

許される日まで。

 

無愛想で居続けて

いつしか忘れてしまった笑顔を

取り戻せる日まで。 

 

次、朝日が登ったら

生まれ変わろう。 

自分を心から

愛していると言える様に。