8月15日の終戦記念日に
火垂るの墓が金曜ロードショーで公開された。
SNS上では劇中の清太と親戚のおばさん
それぞれが互いに対する対応について
どちらの行為が悪行、愚行なのかについて
議論が白熱している。
清太と節子の兄妹は
親戚の家に居候させてもらい
衣食住を与えてもらっているにも関わらず
妹の節子の面倒に意識が向いてばかり。
親戚の家計を支える様な自発的な行動は
劇中では見て取れない。
一方で
まだ14歳である清太に対して
おばさんの対応は辛辣そのもので
嫌味や皮肉を二人に言い放ち
結果的に
二人を自発的に家から追い出している。
監督によれば
公開した80年代は
清太養護の声が大きかった様だが
この価値観がいつしか反転し
おばさん養護の声が大きくなり
清太が批判される世の中になるのであれば
それは恐ろしい事だと
当時のインタビューで答えているが
その危惧がまさに今、起こったのだと
指摘する声もある。
違う視点での意見では
悪いのは戦争そのものである。
戦争が人を変えてしまう。
二人とも悪くない。
そんな意見もチラホラ。
明確な答えが時代の価値基準によって
変わりそうなこの議題
私が思うに
これは戦争下という時代背景の中で起こった
互いの寛容性の欠如に端を発していて
精神的余裕と安堵感が消失しつつある中
どちらも本能的に得となる行為を求めた結果
相反する形となり
結果どちらも不寛容だという事。
ただ、親戚の家というフィールドでは
アウェーである清太の分が悪い。
だから清太は節子を連れて
家を出ていった。
どちらも自分の事を想えば正しい反応だし
どちらも他者に不寛容。
そして、映画を見ている視聴者もまた
清太とおばさん
どちらかに対して不寛容な眼差しを向けている。
批判の対象の比重が
時代の空気感によってシーソーゲームの様に
揺れ動くのは興味深いが
つまるところ
この議題を作り出しているのは
紛れもなく視聴者達であって
視聴者達がそもそも不寛容であるというのが
私の結論であった。
寛容性があれば
「まだ清太も節子も子どもなんだからこの位の事は許してあげてほしいし
おばさんも余裕が無いのだから清太ももう少し協力してあげてもいい」
という非常に中庸的で角が立たず
波風が立たない解釈で終わりそうである。
そして
寛容さとは
思いやりとは双方の愚行に目を瞑る事で
どちらの相反する主張を客観的に受け止めるという
一見、矛盾した行為を取れる事ではないだろうかという
結論に至った。
なぜなら人は矛盾するもので
エゴがあって当たり前な生き物なのだから。
0か100かの二元論で話せるほど
人の気持ちは単純ではない。
寛容性がある者であれば
「どちらの気持ちもわかるわー」と
呑気な事を言うのかもしれない。
SNSが普及し
監視社会、総発信時代であるこの現代
他人の愚行に目を光らせては
晒し上げて叩く行為が珍しくない昨今
多数が「叩くべき」と断罪した相手や事柄であれば
叩けば称賛される上に
インプレッションも稼げる
それほどまでに正義感の押し付けと
悪の断罪は
いつの時代でも人々にとってこの上ない娯楽であって
劇薬、麻薬なのだ。
正義を作るには相対悪が必要だが
何を悪とするかはこの際重要では無い。
正義という名のエゴイズムを押し付ける対象が
「話題の投稿」として実にスムーズに選別されてタイムライン上に
流れる仕組みとなってしまっているのが昨今のSNS。
そこで私は思う。
清太とおばさん
どちらかを悪と断ずる事が
本当に正しいのだろうか?
悪を見つけ出して批判する事が
この映画から学ぶ教訓なのだろうか?
と言われたら
私はNOと答えたい。
私の答えは
どちらも不寛容で
どちらも悪く
未熟で未完成で
人間らしい。
それを一方を悪にしたいのも
視聴者それぞれの正義を振りかざしたいという
不寛容さである。
という事。
私は不寛容な人間であるよりも
寛容さを身に着けたい。
それが難しいとは十分わかっていても
寛容でありたい。
それが私にとっての
この映画の教訓の一つである。
人は人に
ある程度優しくなれなければ
戦争によって死んでいった人々の気持ちも浮かばれない。