出会いを叶える渡し舟、西浦賀から東浦賀へ。後編、東叶神社、奥之院/神奈木流 体バランス法 | 神奈木流 体バランス法

神奈木流 体バランス法

神奈木有紀(かんなぎゆき)大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。



叶神社は浦賀湾を跨いで
東西に鎮座し
まず西叶神社をお参りし、
渡し舟で対岸にある
東叶神社にお参りします。
前編の西叶神社に続き
後編は東叶神社を
ご紹介します。

浦賀湾は運河のように東西を分断し
江戸時代の東西浦賀村分村後の
陸上交通はとても不便でした。
享保年間に浦賀奉行所が
設置されたことを契機に、
東西の住民が船賃代わりに
船頭さんに米を渡して
『渡し船』が操業されました。
その後横須賀市が『渡し船』を
委託経営することになり、
この航路は“浦賀海道”と
名付けられ正式には横須賀市道
2073号なのだそうです。
“ポンポン船”と親しまれ
お詣りの方の東西叶神社を結ぶ
『渡し船』としての活躍してます。
僅か3分ほどの乗船ですが
旅情感たっぷりでした。



東西の叶神社
西が本宮・東が若宮となり
歴史的には「西叶神社」創建後、
「東叶神社」が勧請。
これは当時、西浦賀にあった
浦賀村が、1692年に分村して
東西の二ヵ村になり、
村人たちから東浦賀にも叶明神を
という希望から創建された
そのため西を「本宮」、
東を「若宮」と称したと伝わる。
古くは同一の神社
という扱いだったようで、
江戸時代には例祭も東西「叶神社」
が隔年で交互に行っていたという。






鳥居から直ぐ見えるのが拝殿となり
本殿は明神山の麓にある
社殿から奥ノ院のある
山頂に登るために
二つの坂があります。
社殿脇から中段までが
「恵仁志坂(えにしざか)」で、
中段から頂上までが
「産霊坂(むすびざか)」
と呼ばれ、頂上まで登れば
“縁(えにし)”があって
“結ばれる”と云われる
縁結びの石段とされている
200段以上の石段はきついですが、
本殿はお詣りしたいですね。
そして奥の院のある頂上には、
幕府として初めて太平洋横断した
咸臨丸の勝海舟が航海にあたって
水垢離・断食をした場所もある。



本殿になります。


ここ明神山は
戦国時代に浦賀城が築城され後に
北条氏の水軍の拠点の一つでした。
安房里見氏からの攻撃に備えて、
北条氏康が三崎城の
支城として築いた。
里見義弘との房相一和後に
廃城となったという説と
豊臣秀吉の小田原征伐後に
三崎城同様廃城となった説もある
そして山頂から見下ろした
この場所にペリーの黒船が
停泊した場合にあたる。
歴史的にも面白い場所です。

船で渡ると穏やかなまるで島時間
そんな気持ちになります。
とても長閑なお詣りでした
本殿への階段で汗をかき
境内のいい氣を感じ
身体がリセットされました。
この神社をご紹介いただいた方に
とても感謝です。




叶神社
かのうじんじゃ
神奈川県横須賀市浦賀地区
浦賀港を挟んで2社ある。 勧請した石清水八幡宮と同様、共に、誉田別尊(応神天皇)など八幡神を祭神とする。
叶神社(西浦賀)
通称「西叶神社」
叶神社(東浦賀)
通称「東叶神社」
21世紀に入り、西叶神社で勾玉を授かり、東叶神社のお守り袋に入れて身に着けて良縁などのご利益を願う習慣が両社の宮司の話し合いによりできた。


東叶神社
ひがしかのうじんじゃ
神奈川県横須賀市東浦賀

御祭神 誉田別尊(応神天皇)

東浦賀町二丁目(新井)にあります。裏山を明神山といいますが、それは叶明神社が祀られていることによります。『新編相模国風土記稿』に「拝殿は山下にあり、祭神は応神天皇で、正保元年(1644)九月十九日に西浦賀の本社を勧請(神の分霊を迎えて祀ること)。牛頭天王、船玉明神を合祀。」とあります。
しかし、叶神社の縁起には、養和元年(1181)に京都の高雄山神護寺の僧・文覚が石清水八幡をこの地に勧請し、文治2年(1186)に源頼朝が、源氏再興の願いが叶えられたので、叶明神と改めたとされています。
また、別の伝えによれば、元禄5年(1692)に浦賀村が東と西に分かれたとき、西浦賀村の叶神社を遷して祀り、西の叶神社を本宮、東の叶神社を若宮と呼んだともいわれています。
東叶神社は明治になるまでは、耀真山永神寺といい、古義真言宗醍醐寺派三宝院に属し、横浜の金沢区から三浦半島全域において、本山格の寺格をもった修験道の寺でした。
お寺の時代には、この山頂で火渡り修行などが行われていたそうです。お寺の格式が高かったことを示すこととして、4人の料理人が常にいて、本格的な会席料理もできたということです。これは、来客数が多いということだけでなく、来客の階層の高さをも想像させます。
玉垣を巡らせた境内の正面、石の鳥居は浦賀湾に面しています。
境内には白い砂がまかれています。
すぐ右手、御水屋の脇に大きな石が二つあります。この石には人の名前と文字が刻まれており、この石が力持ち競技に使われたことがわかります。
社務所の前を通り過ぎると赤い鳥居があります。
石垣に開いた祠の奥には石の弁才天が祀られています。
祭神は「厳島媛命」で、海難その他の難事の際に、身代わりとなって人々を救う「身代わり弁天」として祈願されています。
社務所の裏に井戸があります。幕末に、遣米使節の護衛艦となった咸臨丸の艦長として、太平洋横断を成し遂げた勝海舟が、航海前に、この井戸で水垢離をした後、山頂で断食したと伝えられています。
ペリー来航(1853)から咸臨丸出航まで7年たらず、長崎海軍伝習所での1年4か月間、航海実習も、鹿児島訪問、長崎と江戸の間を数回往復した程度であり、名にしおう冬の太平洋横断を行う艦長である勝としては、舟玉明神を祀る叶神社に、切実な思いで祈願したであろうとは思います。
しかし、多忙な勝に、山頂で断食する時間的余裕があったでしょうか。
さて、境内に戻ります。
拝殿の前には一対の狛犬があります。向かって右側は口を開いた阿形で、左側は口を結んだ吽形ですが、ここの阿形は口の開きかたが小さいように見えます。ここの狛犬はそれぞれ子を抱えており、右側阿形は子が乳を含み、左側吽形は親が子を保護するほえましい姿です。
拝殿は、昔は日吉造り(滋賀県日吉神社が源)でしたが、現在のものは神明造り(伊勢神宮が源)です。
拝殿の左側の、山頂へ続く石段を登り始めてすぐ左側に「丹ょ起丹ょ起と帆ばし良寒き入江哉」という、芭蕉句碑といわれているものがあります。
この自然石の句碑は、芭蕉の没後150年目の天保14年(1843)に浦賀の俳匠・福井貞斎が建てたものですが、現存の芭蕉の記録には、この句がなく、芭蕉が浦賀を訪れた記録もないので、いつどこで詠んだものか、はっきりしません。しかし、浦賀の湊の情景をよく表現した句です。

-浦賀城跡-
東叶神社拝殿の左側から始まる200段を越える石段(恵仁志坂・産霊坂)を登りきった山頂の正面にある奥宮は、小さいながら立派な彫刻のある本殿でしたが火災により焼失しました。現在の本殿は、創建八百年を記念して昭和56年(1981)に再建されたものです。
この明神山は、叶神社が勧請されてからの呼び名であり、小田原北条氏(後北条氏)分国の頃、伊豆下田の領主が三崎城の出城として水軍の砦を築いたので、古くは、下田山とか城山と呼ばれました。
ここは、戦国時代の弘治2年(1556)三浦半島が房総の里見軍に攻められたため、北条氏康(後北条氏第3代)が築城したらしい浦賀城があった所です。この城は、千葉の里見氏に対する戦略目的(防備)で置かれた三浦半島水軍の根城でした。城として必要である堀について、近年、空堀の存在・構造を説明する調査報告なども出ています。
対岸の房総半島を一望できる山頂は平坦ですが、現在は木が繁り、展望はあまりよくありません。城の遠見番所、あるいは本丸のあったところかも知れません。ここには浦賀ドックで殉職した人の慰霊塔があり、現在の住友重機械工業に引継がれています。
奥宮の近くには東照宮や神明社があります。この山は、全体が社叢林(社寺林)として、昔から自然のまま保護されてきたので、自然林として県の天然記念物に指定されています。
横須賀市HPより

身代り弁天、お不動様
神仏習合の時代には別当寺「永神寺」と共に崇敬を集めた当社。
神仏分離後に廃寺となった「永神寺」であったが、御本尊とされていた不動尊(お不動様)の像は、現在も大切に安置されていて、「身代り弁天」の祠内に鎮座。
身代り弁天にお参りすると共にお不動様へお参りする事となる。


勝海舟所縁の井戸
勝海舟はこの井戸水を汲んで潔斎・水垢離を行い、明神山に登り断食修行したと伝わる。


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Profile     神奈木有紀(かんなぎゆき)
大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。
神奈木流の成果
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