因幡街道宿場町、千本の田園風景に大鳥居、大川稲荷神社/神奈木流 体バランス法 | 神奈木流 体バランス法

神奈木流 体バランス法

神奈木有紀(かんなぎゆき)大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。






龍野バイパス福田ランプから
179号線を北上。 
新宮町から西北へ走り、
JR姫新線の「千本駅」を過ぎ、
北側にある千本の集落へ。
この北側の山頂には
鞍背城(くらのせ)があります。
ここは播磨と出雲を結ぶ宿場街道。 
この山の形は馬の鞍から鞍背と
呼ばれたのだろうと思われる
村上天皇の第七皇子である
具平親王の長子・師房が
「源氏」の姓を賜り、
師房から九代の孫・師季が
播磨佐用庄に配流され、
その子・季房がこの地にとどまり、
名前を山田季則と改めました。
季則の孫・則景から続くのが
播磨守護の赤松円心、
一方則景の兄弟・将則が
のち宍粟市山崎町の長水城を
拠点とした宇野氏につながり、
そこから江見氏、佐用氏、小寺氏と
分かれていくのです。
宇野将則は為頼、景頼、頼定と続き、
その子には宗清・頼季・国頼がいました。 
そして建武年間(1334〜38)、
赤松円心が播磨守護代・宇野頼季に
築かせたのが鞍背城。

この宇野頼季は護良親王の
熊野落ちの際、武功を立てた人物・
小寺頼季と同人物であり、
小寺頼季がのち姫路城主となり、
御着城へ移る小寺氏の祖
嘉吉元年(1441)、
赤松満祐が起こした「嘉吉の乱」で、
同じ新宮町にある城山城は落城、 
そして鞍背城も落ちるのです。
とある

このあたりの地名の由来になった
「千本宿 本陣」
国道の案内から街中に入ると、
当時の宿跡がある。
そこには「因幡街道」とある、
江戸時代の参勤交代で
大名や役人が宿泊していました。
日本全国土を測量した伊能忠敬も
泊まったと記録されています。
今ではお蕎麦のお店でもある。

そんな宿場町の田園風景
そこにポツンと立つ大鳥居
それが大川稲荷神社









宿場町の外れにある集落を
しっかりと支えてられるかのように
佇む社殿は穏やかで
集落に溶け込んでいます。
拝殿の見事な彫刻は
おそらく中井権次一統と思われる。




稲作が盛んな播州だけに
お稲荷さんの姿は多いようで
地域信仰が根強く
よそ者を寄せつけない空気がある
故に由緒書きなど見つからない
そんな場合があるように思う。
よく考えたら
地域の豊作は地域のためのもの
だからお稲荷さんは
より身近な神様なのかも
わかりませんね。

大川稲荷神社
おおかわいなりじんじゃ
兵庫県たつの市新宮町千本

御祭神、由緒ともに不明です。
そのため主祭神を稲荷神として調べてみます。

稲荷神
稲を象徴する穀霊神・農耕神。「稲荷」とは食物の神(ウカノミタマ)、キツネ(御食津神)、油揚げ、稲荷寿司、旅芸人が町回りで立てる細長い旗などを指す言葉。稲荷大明神(いなりだいみょうじん)、お稲荷様、お稲荷さんともいう。
「稲成り」の意味だったものが、稲を荷なう神像の姿から後に「稲荷」の字が当てられたとされる。もとは古代社会において、渡来民の秦氏が賀茂氏から祭祀を継いだ氏神的な稲荷信仰であり、秦氏の勢力拡大によって信仰も広まっていった。本来の「田の神」の祭場は狐塚(キツネを神として祀った塚・キツネの棲家の穴)だったと推測されるが、近世には京都の伏見稲荷を中心とする稲荷信仰が広まり、狐塚に稲荷が祀られるようになった。
五穀をつかさどる神・ウカノミタマと稲荷神が同一視されることから、伏見稲荷大社を含め、多くの稲荷神社ではウカノミタマを主祭神としている。

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Profile     神奈木有紀(かんなぎゆき)
大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。
神奈木流の成果
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