夜が明けるまでに
普段よりやや賑わいのある
街を縫うように歩く
凛と張り詰めた空気に
息が白いカタチを作り消える
芦屋駅から東にある
親王塚に立ち寄り柏手を打つと
ビックリした烏達は一斉に飛ぶ
いつになく烏が多いように思えるが
ヒッチコックのホラーでは無く
清々しさを感じる
日の出をいい場所で眺めたい
そんな気持ちが足を速める
もう少し歩いたら参道。
毎年恒例の越木岩神社
禰宜の方、巫女さん
朝早くのお勤めお疲れさまです。
そしてもう一つの恒例は
お正月の間に廣田さんで
おみくじを引くこと
今年は「吉」
縁起のいい歳になるようです。
二十六を引いた筈が
二十七が来ています。
あ!出目だと「大吉」の可能大です。
でもこの間違いもご縁です。
今年は「吉」なのです。
そして
「吉」位が一番いい歳だと私は思います。
初詣・初詣
はつもうで
年が明けてから初めて神社や寺院などに参拝する行事。一年の感謝を捧げたり、新年の無事と平安を祈願したりする。初参・初参りともいう。
元々は「年籠り」(としこもり、としごもり)と言い、家長が祈願のために大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神神社に籠る習慣であった。やがて年籠りは、大晦日の夜の「除夜詣」と元日の朝の「元日詣」との2つに分かれ、元日詣が今の初詣の原形となった。治承5年に源頼朝が鶴岡若宮に参詣したことが初詣が広まるきっかけになったとの指摘もある。
江戸時代末期までの元日の社寺参拝としては、氏神神社に参詣したり、居住地から見て恵方にあたる社寺に参詣(恵方詣り)したりといったことが行われた。
「年籠り」形式を踏まず、単に社寺に「元日詣」を行うだけの初詣が習慣化したのはそれほど古い時代ではなく明治中期のことで当時の鉄道会社が神社とキャンペーンをして遠方の有名神社へ初詣する風習を作り出したとされている。また、氏神や恵方とは関係なく、有名な社寺に参詣することが一般的になった。俳句で「初詣」が季語として歳時記に採用されたのは明治末期であり、実際に「初詣」を詠んだ俳句が登場するのは大正時代以降であるという。
また現在でも、除夜に一度氏神に参拝して一旦家に帰り、元旦になって再び参拝するという地方がある。これを二年参りという。
江戸時代までは元日の恵方詣りのほか、正月月末にかけて信仰対象の初縁日(初卯・初巳・初大師など)に参詣することも盛んであった。研究者の平山昇は、恵方・縁日にこだわらない新しい正月参詣の形である「初詣」が、鉄道の発展と関わりながら明治時代中期に成立したとしている。
関東では、1872年(明治5年)の東海道線開通により、従来から信仰のあった川崎大師などへのアクセスが容易になった。それまでの東京(江戸)市民の正月参詣は市内に限られていたが、郊外の有名社寺が正月の恵方詣りの対象とみなされるようになった。また、郊外への正月参詣は行楽も兼ねて行われた。平山によれば「初詣」という言葉は、それまでの恵方詣りとも縁日(21日の初大師)とも関係のない川崎大師への正月参詣を指すのに登場したといい、1885年(明治18年)の『万朝報』記事を管見の初出と紹介している。鉄道網の発達に伴い、成田山新勝寺など郊外・遠方の社寺にもアクセスは容易となり、また京成電鉄や京浜急行電鉄、成田鉄道(現・JR成田線)など、参拝客輸送を目的として開業された鉄道会社も登場した。競合する鉄道会社間(国鉄を含む)では正月の参詣客を誘引するために宣伝合戦とサービス競争が行われた。当初は鉄道による有名社寺への「恵方詣り」の利便性が押し出されたが、年ごとに変わる恵方に対して「初詣」という言葉がよく使われるようになり、大正時代以後は「初詣」が主に使用されるようになった。
関西では、もともと恵方詣りは元日よりも節分に盛んに行われていた。鉄道会社の集客競争の中で正月参詣にも恵方が持ち込まれるようになり、関西の人々は節分のほかに元日にも恵方詣りを行うようになった。しかしながら、鉄道会社が熾烈な競争の中で自社沿線の神社仏閣をめいめいに恵方であると宣伝し始めたため、やがて恵方の意味は埋没した。大正末期以降、関西では方角にこだわらない「初詣」が正月行事の代表として定着した。
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Profile 神奈木有紀(かんなぎゆき)
大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。
神奈木流の成果
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