本馬山を彩る芝桜、西光寺と燕神社/神奈木流 体バランス法 | 神奈木流 体バランス法

神奈木流 体バランス法

神奈木有紀(かんなぎゆき)大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。








又兵衛桜見物の通りすがりに
美しい芝桜に目を奪われ
思わず立ち寄りました。
この美しい丘には古来からの謂れや
複雑でセンシティブな歴史
この地で様々な心が芽生えた
日本人の生きる証がそこにあります。

神武天皇が国見をしたといわれる本馬山。
日本書紀の神武天皇31年4月1日、
天皇は腋上(わきがみ)の嗛間(ほほま)の丘に登られ、国のかたちを見ていわれるのに、
「なんと素晴らしい国を得たことだ。
狭い国ではあるけれども、
蜻蛉(あきつ)がトナメしているように、
山々が連なり囲んでいる国だなあ」と。
これによって始めて
秋津洲(あきつしま)の名ができたという。
火の穂は「ほほ」
波の穂の「ほ」と同じで、
まほろばの「まほ」も同じ。
つまり「ほほまの丘」は
美しい丘という意味。
現在は美しい芝桜と桜の丘として
地域の皆さんに愛されています。





燕神社
つばめじんじゃ
奈良県御所市柏原

主祭神
神倭磐余彦命(神武天皇)
豊受大御神
武甕槌神
地主大神

この場所は、「岩崎村」の名前の由来である「岩の突き出たところ」であり、ここにそもそも集落があったと伝えられていることから、岩崎村の創始の場所と考えられます。では、なぜ岩崎村の人々がこの場所に住居を築いたのかということですが、「岩の崎」の直下は満願寺川・本馬川・中方川・曽我川の4本の河川が合流する場所であり、御所市に降った雨水の東半分のすべての雨水が集まる構造になっています。近代以前に弊牛馬の解体を担い、膠を生産していた岩崎村の人々にとって、この豊富な水量こそが産業を支えてくれる「命の水」であったのです。

燕神社は1921年(大正10)8月28日に建立されました。阪本清一郎が遺した『回想録』によれば、「村に何ら記念するものがない。遊園地もない。何か記念するものをつくりたい。遊び場が欲しい。」などと記されています。その記念とは、1921年(大正10)8月28日という燕神社建立の日付から「解放令」のことを指していることがわかります。1871(明治4)年8月28日に出された、いわゆる「解放令」50周年を記念して燕神社が建立されたことが伺えるのです。そして、阪本『回想録』によれば、祠は阪本の妻、数枝のふるさと、大阪府西成郡西中島村(現、飛鳥)で区長をしていた兄の中井利助の計らいで廃社となった村の氏神を貰い受け、燕会会員の鶴谷藤吉らが馬力で運んできたといいます。
燕会の青年たちは毎夜この燕神社に集合していろいろなことを話し合ったようです。時には学習の成果を披露するため発表会を開いては村人を集めたといいます。
燕会の人びとは、この燕神社の広場を「建議の庭」と呼んでいました。
水平社博物館HPより



西光寺
さいこうじ
奈良県御所市柏原

浄土真宗本願寺派
山号   嗛間山
本尊   阿弥陀如来。

「西本願寺寺院台帳」によると寛延元年(1748年)に建立され、当時は惣道場(看坊釈周道)と呼ばれていたが、創設僧・初代住職を浄元とし、享保15年(1730年)年10月25日に西本願寺から寺号と本尊の阿弥陀如来が下付されたと記されている。



神武天皇社
じんむてんのうしゃ
奈良県御所市柏原

御所市「柏原」に鎮座するこの神社の祭神は「神倭伊波礼毘古命」。初代神武天皇の即位した場所であると言われています。享保21年(1736年)の大和誌には「橿原宮。柏原村に在り」と記し、本居宣長も明和9年(1772年)の「菅笠日記」に、畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いたと記しています。
一説にはこの神社が宮跡に指定されると住民が他に移住しなければならなくなるので、明治のはじめに証拠書類を全て焼いてしまったと言われています。


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Profile     神奈木有紀(かんなぎゆき)
大阪市で広告ディレクターから2014年に独自理論による神奈木流体バランス法を作りセラピストに転身。
神奈木流の成果
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