その少年は機関車と野球が大好きでした。名前はピート。
ある日、少年は父親に連れられて、大リーグの試合を見に行きました。
ニューヨーク・ヤンキースが大好きだったピート少年。ヤンキースタジアムで見た試合で、大好きなバッターがホームランを打って、劇的な逆転勝ちをする光景を目にします。
その試合を見たピートは感動を覚え、その日から大リーガーになることを夢見て、努力を始めたのです。
ちなみに大リーグに至る厳しい現実をご存知ですか? 下から「Dリーグ」「Cリーグ」「Bリーグ」「ルーキーリーグ」「Aリーグ」「AAリーグ」「AAAリーグ」そして大リーグなどの多くの段階があります!
ピート少年にとって大リーグを目指すことは、「挫折との戦い」、「苦悩の日々の連続」でした。
それはなぜ?
実はピート少年、6才の時にあるアクシデントに巻き込まれたのです。
そのため、一時、野球を断念しようとも思いました。
しかし、・・・
その時ピート少年の父は、彼にこんな言葉をかけます。
「諦めるな、やればできる」
ピートは、お父さんのその言葉だけを、心に秘め、血のにじむような努力を始めます。そして草野球チームに入りますが、一度も練習には参加させてもらえません。
それでも彼は不平をいわず、毎日玉拾いをし、一人で素振りの練習をしました。
そして、そのかたわら、野球学校へも通うようになり、いろんな球団の入団テストまで受けます。
しかし、ピートはことごとく、入団テストに落ち、落胆が続く日々。
でも彼は諦めません。
そんななか、雨の日も風の日も、黙々と練習を続ける彼の姿を見て、学校の一人の先生が心を打たれてしまいます。
ピートの野球にかける情熱に心打たれたその先生は、全米のDリーグの監督たちに電話をかけました。
「うちにピートという、熱いやつがいる。見に来てくれないか、お願いだ」
その電話に触発され、Dリーグの監督が集まってきました。
それはピートの晴れ舞台。
そこでピートは全力でプレーを見せます。
しかし、結局、どこの球団も彼を雇ってくれませんでした。残念!
それでもピートはめげずに、ただ一途に努力を続けます。
でも、ピートに幸運の女神が微笑もうとしていました。
なんとピートが24才の時、ニューヨークのセミプロ球団、「ブッシュウイックス」から声がかかったのです。
ピートは「大好きな野球ができる。僕はセミプロ球団でもかまわない」と喜んで入団しました。
そこで、彼は素晴らしい成績を残します。
実は、そんなピートの活躍をさらによく見ていた人がいました。
マイナーリーグの「スリーリバース」という球団の監督です。
監督はなんと、ピートを大抜擢してくれたのです。
この「スリーリバース」でも、ピートは打率3.81という素晴らしい成績を残しました。
でも、チャンスに恵まれても、全くおごること無く、努力を続けるピート。
ついに幸運の扉が開かれます。
1945年大リーグの「セントルイスブラウンズ」がピートの採用を決定したのです。
さぞかし嬉しかったでしょう。子どもの頃からの夢がかなったのです。
さて、夢にまで見た大リーグでのピートの初打席。
ピッチャーが投げたボールに狙いを定め、バットを振る。
1球目、・・・空振り、
2球目、・・・空振り、
3球目、・・・空振り三振。
ピートの初打席は、三振に終わりました。
でもその三振を見て、スタンドの観客達は総立ちになって、ピートに大きな拍手を送ります。
三振して拍手?
その球場の観客達は、ピートの真摯な姿に心動かされていたのです。
その理由は?
実はピートが、6才の時に遭遇したアクシデント、それは、大好きな機関車を見に行って、ピートはその下敷きになるという大事故でした。
そして右腕を根元から切断されてしまい、片腕を失ってしまっていたのです。
きっと彼は、痛みの中で、将来の希望が音を立てて崩れていくのを感じていたかもしれません。
きっと怖かったでしょう。悲しかったでしょう。
6才にして片腕を無くした、そんなピートに父親がかけた言葉、
それが、
「諦めるな、やればできる」
ピートの父はこう回想しています。
「あの時、もしも彼から野球という夢まで奪ってしまえば、もう彼には何も残らない。『諦めるな』と言うしか、他になかった」
片腕のないピートは、それまで罵られ、差別を受け、練習にも参加させてもらえませんでした。
しかし、その言葉だけを信じて、何度も入団テストに落ち続けても、その苦い思いを乗り越え、営々と努力し続けてきたのです。
そんな努力の末、大リーグの初打席での三振。
その偉大な三振に観客は惜しみない拍手を送ったわけです。
残念ながらピートは1年で大リーグでの生活にピリオドを打ちました。
その後、ピートは故郷に帰り、少年野球の指導をし、87才で生涯を閉じたそうです。
亡くなる前にピートが残したという言葉が残っています。
「私の子供の頃の夢は、ヤンキースタジアムで野球をすることでした。
そして、それを叶えられたことが、自分の人生にとって、もっとも素晴らしい出来事だったと思います。
自分のような、体に障害をもつ者にとって、練習こそが全てでした。
でもたとえ練習しても自分にやってくるチャンスは、わずかなものでした。
ある時こう言われたことがあります。
「両方の腕があっても、野球をするのが難しいのに、片腕で野球なんかできるわけがないだろう」
それでも諦めず、自分は常に夢に向かって練習したのです。
最後に好きな言葉を送ります。
『勝者は決してあきらめない。』」ピートグレイ
ピートグレイ 1917年、ペンシルベニア州、ナンティーコーク生まれ。
この記事は、以前に紹介したものを加筆、修正して再び紹介させていただきました。(出所は大島啓介さんメルマガ)