まだ、私が20代の前半の頃、周りには楽器を弾く事のできる男子が何人かいました。
ピアノが弾けたり、管楽器が吹けたり!
彼らは、人前でその楽器を演奏する機会もありました。
それを見ていた私はというと・・・
私は楽器なんてできませんでした。
大学生の時にギターを借りて「禁じられた遊び」を練習しましたが、弾ける曲はそれだけ!なんて状態。
全く弾けないと言っても過言ではありませんね。
ある時、あるミーティングのあとに知り合いがピアノを弾いてくれました。
その時の私の感情はというと・・・
うらやましいというか、ねたましいというか・・・
とにかく楽器を弾いて注目を得ている彼がうらやましかったのを覚えています。
しかも、このように考えました。
「素人の演奏なんて聞いてもしょうがない」
その場にいるのが嫌でした。
私は、何もできない自分に劣等感をいだいて、卑屈になり、「素人の演奏なんて聞くに値しない」と相手をおとしめることによって、相対的に自分を持ち上げようとしたのでしょう。
とっても複雑な気持ちでした。
楽器に限らず、このような体験ってありませんか?
自分より優れたあの人がねたましいと感じた体験って!
このような状況が続くとき、大きく分けて2つの方向性があるのではないかと思います。
一つは、いつまでも「素人の演奏なんて」というスタンスでただ相手の悪口を言うなど卑屈になってマイナス方向に向いてしまうこと。
二つめは、自分も何か楽器を習うとかそれ以外の趣味などを習うなどして、その劣等感を補おうとすること。
大まかに言ってこの2つの方向性がありそうです。
私は、劣等感をいだいていたわけですが、アドラー心理学の教科書を読むと劣等感について次のように定義されています。
劣等感とは、自分と他者とを比較して、自分は劣等であると感じるということではなく、理想の自分(自己理想)と現実の自分(自己概念)とを比較して、現実の自分は劣等であると感じることです。
「アドラー心理学教科書」野田俊作監修
理想があるからこそ、理想の自分と現実の自分を比較して劣等感を持つ。
そう考えると劣等感も悪いものではなさそうですね。
劣等感を持つということは、高い自己理想があるわけです。
高い理想があるからこそ、かわりに何か別のもので優位に立とうとして努力したり、自分をプラスに方向づけて、優れている人と同じようになろうと努力したりするのですね。
それを心理学の用語で「劣等感の補償」なんて言うようです。
ただ、人によっては劣等感を持ち、ひねてしまう(劣等コンプレックス)こともあるでしょう。
昨日の記事
で書いたバイクで暴走している子なども高い自己理想があるにもかかわらず、それを乗り越えようとせずに安易な行動に出ているとも言えそうです。
でも、それだけ理想が高いので、それを別の分野で活かしたらすごい力を発揮するかもしれませんね。
私の場合は、28歳の時にビオラを弾く先生からバイオリンを教えていただくようになって、音楽に関して劣等感を感じることはなくなりました。
また、知り合いが人前で楽器演奏をすることに対しても素直に聞けるようになりました。
バイオリンを習うことは幸いにして劣等感に対する補償となったのだと思います。
劣等感はプラスにもマイナスにも作用します。
だからこそ、それが子どもが何か劣等感を持っていることを知った場合、批判したり、叱責したりすることなく、勇気づけてあげてプラスの方向に向かえるように援助してあげる必要がありそうです。
最近、テレビで見かけませんが、ケント・デリカットという方がいましたね。
彼は子供の頃から目が悪く厚いメガネをかけていることに対して、劣等感を持っていたようです。
そんな劣等感に悩むケントに対して、お母さんは、うる覚えですが、こんなことを言ったそうです。
「短所は、逆に長所にもなるのよ。あなたの目に対する悩みは将来、長所として生かせると思うわ」
覚えているでしょうか?
彼がメガネを顔の前で前後に動かす光景を!
彼は自分の体に関する劣等感を長所にしてしまったのです。
劣等感も生かしようですね。