曽祖父のこと、明治時代のこと | ゆきの時間……台湾に暮らした先祖の足跡を辿って

ゆきの時間……台湾に暮らした先祖の足跡を辿って

☆高祖父は『南島雑話』の名越左源太時敏 ☆名越(なごや)は祖先の姓
☆曽祖父(左源太の次男&時成の弟)は明治時代に台湾総督府勤務
☆祖父は台湾・麻豆の役所勤務定年後に嘉南大圳水利組合で勤務
☆父は台湾の台南・麻豆生まれ、亡き母は旧満州・新京生まれです☆

昨日(23日)、食器を洗いながらつらつら考えた。

曽祖父は数え28歳の時に明治10年の西南戦争に従軍。
8月に投降し市ヶ谷に収監され、おそらく翌11年か12年には帰郷。
嫡男(私の祖父)は明治14年5月に生まれている。
そのちょうどひと月後の6月には父親である名越(左源太)泰藏が亡くなる。

さらにその翌年、明治15年3月に、今の家を継いでいる。

明治15年、ということは、1882年‥‥!!
今年は曽祖父が今の家を継いで140年になるってことに思い至ったわけです!
‥‥って、もしかしたら前にもどこかに書いたかもしれないけど。



曽祖父が家族を持ったのはおそらく明治8年、長女(私の祖父の姉)が明治9年に生まれている。
子供もいるのに西南戦争に従軍したのは何故なのか、理由もさっぱり見当がつかない。二男だからと自分の思うまま動いたのだろうか?

で、今の家系の本家、久澄氏は西南戦争で、明治10年4月に肥後国の木山で亡くなっている(享年37)のだけど、話に聞くところでは、その後曽祖父が継ぐことになっていたようなのだ。

でも実際にはそうはなっていない。

それで以前から引っかかっていたのだけど、明治10年に本家の嫡男・久澄氏が亡くなったこととの関連は分からないが、5年後に別立ての今の家に養子に入った曽祖父。

明治23年には長姉・川上イサと姉のお姑さんと3人で東京市へ都見物。行き帰りにあちらこちらに寄ってひと月ちょっとの旅の様子が、イサが残した『都見物日記』(寺師若法師氏によって昭和30年代に薩摩狂句の『さんぎし』に掲載)に記されている。

その後、本家を継ぐことになったとして、それが成されないまま明治28年か29年には台湾で総督府職員に名を連ねているわけで、5〜6年の間のことが分からない。台湾へ移るに至った経緯も分からない。

ちなみに、明治14年5月生まれの祖父は、大龍小学校に通ったそうで、明治27年春に卒業と思われる。

 

西南戦争に関わったことで、西郷菊次郎さんとの関わりとか、あるのかないのか‥‥?

菊次郎さんは宜蘭縣の長でしたが、曽祖父も宜蘭にいたこともあったと聞きました。

また、曽祖父が総督府職員として記した澎湖諸島の水産物に関する論文(レポート?)が台湾に残っているようです。


それで、もしかしたら本家を継ぐ話も、家がどうのとかいうことに嫌気がさしたのかな?とか、それでもって時代の流れでうやむやに終わらせたのかな?それとも意図せずしてそのままになったのかなとか、勝手に色々想像するのだけど、そんなことはないのかな‥‥?