結局、「月桂院殿」の名前については
「月桂」=「月の桂」、あるいは月・月光そのものからつけたものなのかな、ということで納得しています。
『月桂樹と更級日記(1)』で紹介した会誌『東郷』には
「月桂樹は東郷大将の手植えを契機として一躍時代の脚光を浴び、えらい人気の樹となった。」
とあり、
「日露戦争の従軍記章に、この樹の図案が採り入れられた」ことや前述の通り「月桂冠」の名前の謂れも書かれていて、
また、
「東郷大将が日比谷公園に手植えした「月桂樹」の苗木は、
たちまち誰かに持ち去られてしまった。」とありました。
ただ、「東郷大将に贈られ、麹町の邸内に植えられた幼木は、元帥が亡くなられた昭和九年頃には大木に生長した。元帥はこの樹をたいへん愛培されたそうで生前その根元から生え出るヤゴを根分けしては、邸内のあちこちに植えておられたと、令息東郷彪氏は著書『吾が父を語る』(昭和九年)に書いておられる」そうです。(『東郷』No.547 令和3年9・10より)
と、ここでまた驚く私。
東郷元帥といえば、日露戦争の頃のイメージが強く、
「明治の偉人」という認識だったので、
昭和9年までご存命だったことに今更ながら気付いたのでした!
また、同じく『東郷』によると、
「記念艦三笠には、前方の庭に五株ほど植わっている。一株は元帥の五十日祭当日(昭九)東郷彪氏から記念のために贈られたもの。後の四株はニミッツ元帥、スミス海軍長官、バーク海軍大将及びウィジングトン元米海軍 横須賀基地司令官など将星から送られたものである。」ということ。
古関裕而さんをモデルにした朝ドラでも「ニミッツ」にまつわる話が出てきましたが、この『東郷』ではニミッツ元帥の述懐も紹介されていて、
ーー「私は、日本海海戦の東郷戦法を手本として、日本海軍と戦った」は噛みしめる言葉である。名将、名将を識るということであろうか。ーー
ーー終戦直後、三笠が進駐軍によって荒らされることを心配し、逸早く海兵隊を送ってこれを守らせ、また三笠の荒廃をなげき、その復元を率先日本国民に呼びかけたのも、このニミッツ元帥であったことを憶うとき、ここ記念艦三笠の庭に植わっている元帥寄贈の月桂樹には深い感慨がある。ーー
と記されている。
今回はいろんなことで気づきを得たのでした。
ところで我が家の祖先、名越氏の家紋は開き三本傘であり、
「三笠」は曽祖父実兄・名越時成が薩藩英国留学生として
渡英した際の変名で名乗ったのでした。
(終わり)