「シベリア抑留が始まった日」で思い出したこと | ゆきの時間……台湾に暮らした先祖の足跡を辿って

ゆきの時間……台湾に暮らした先祖の足跡を辿って

☆高祖父は『南島雑話』の名越左源太時敏 ☆名越(なごや)は祖先の姓
☆曽祖父(左源太の次男&時成の弟)は明治時代に台湾総督府勤務
☆祖父は台湾・麻豆の役所勤務定年後に嘉南大圳水利組合で勤務
☆父は台湾の台南・麻豆生まれ、亡き母は旧満州・新京生まれです☆

昨日8月23日は

第二次大戦後の日本人「シベリア抑留」が始まった日だと、

テレビニュースで報道していました。

 

 

それで思い出したことがありました。

 

終戦後、鹿児島市の親族宅に身を寄せた父でしたが、そこを出て

祖父母や次兄と易居町に建てたバラックで暮らしていた頃なのか

「戦災復興事業」で道路の整備作業を

1ヶ月ほどやっていたそうです。


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戦災復興記念碑 戦災復興事業収束により昭和57年3月建立 

 

鹿児島市の当時国鉄の西鹿児島駅(現・JR鹿児島中央駅)前から

今のナポリ通り辺り、さらに

甲突橋から大門口まで伸びる道路で作業したらしいのです。

 

その時の現場監督さんが、満州の憲兵隊長をしていた人で、

ソ連の満州侵攻により捕虜で引っ張られたそうです。

 

 

 

その方が、ソ連の捕虜になってからどうされたのかは

詳しくはわかりませんが、

昭和23〜24年のことでしょうか、戦災復興の道路整備の現場で知り合ってのち、

父が昭和24年に地元の大規模小売店舗経営の会社に入社すると、その現場監督だった「篠原さん」という方が

人事担当者として居られ、偶然の再会をしたという話でした。

第6回 鹿児島市建築文化賞(2000)のプレート 

 

これはテレビでとある旅番組を見ていて父が語った話でした。

以前から書いてみたかったのですが、

テーマ(カテゴリー)名「父の問わず語り」として

後日書くことにします。