昨日8月23日は
第二次大戦後の日本人「シベリア抑留」が始まった日だと、
テレビニュースで報道していました。
それで思い出したことがありました。
終戦後、鹿児島市の親族宅に身を寄せた父でしたが、そこを出て
祖父母や次兄と易居町に建てたバラックで暮らしていた頃なのか
「戦災復興事業」で道路の整備作業を
1ヶ月ほどやっていたそうです。
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鹿児島市の当時国鉄の西鹿児島駅(現・JR鹿児島中央駅)前から
今のナポリ通り辺り、さらに
甲突橋から大門口まで伸びる道路で作業したらしいのです。
その時の現場監督さんが、満州の憲兵隊長をしていた人で、
ソ連の満州侵攻により捕虜で引っ張られたそうです。
その方が、ソ連の捕虜になってからどうされたのかは
詳しくはわかりませんが、
昭和23〜24年のことでしょうか、戦災復興の道路整備の現場で知り合ってのち、
父が昭和24年に地元の大規模小売店舗経営の会社に入社すると、その現場監督だった「篠原さん」という方が
人事担当者として居られ、偶然の再会をしたという話でした。
これはテレビでとある旅番組を見ていて父が語った話でした。
以前から書いてみたかったのですが、
テーマ(カテゴリー)名「父の問わず語り」として
後日書くことにします。