昨日は病名がわかるまでの話でした。
今日は化学療法~関節置換手術~化学療法の、いわゆる一番最初の治療のための入院生活について書きます

多分骨肉腫の方はよくご存知の通り、MRI、骨シンチ、レントゲン、血液検査、もう忘れた検査も含めたくさんやります。これだけで疲れる…。
最近はPETもあるから便利なのかな??
病名がわかってからはあれよあれよで化学療法が始まります。私は手術前まで4クールやりました。
左膝の患部付近の動脈にカテーテルを入れ留置し、直接抗がん剤を注入する方法が取られました。あとカフェイン併用。あの頃では新しい方法だったらしく、主治医が自慢?してました

薬剤は骨肉腫お決まりのアドリアマイシン、シスプラチンが使われていました。
人によって副作用は多様。
私は吐き気が本当にひどかった

もともと車酔いなど精神的にも弱いので、二クール目からは一回目のひどさを思い出して精神的に吐いていた気がします

それがわかっていてもなかなか副作用だけはどうしようもできないものなんだよね…うぅ~


そして手術は、
切断ではなく人工関節置換になりました。
主治医M先生がMRIの結果を持って、
『薬がすごい効いていて9○%消滅している!!』と喜んで話に来たのを覚えています

ま、残念ながら今も治療してますが笑。
この主治医の先生、いつもはのんびりやさんでぼ~っとしているのに(けなしてるんじゃなくて、愛情込めた表現です
)、その興奮してた姿に、私は結果に喜ぶより先に、先生の興奮具合に呆気にとられたのを覚えています。手術…私は寝てただけですね、、でも目が覚めてからあんなに痛いのは生まれてこのかた最初で最後です。骨切りはほんとーにいたい!
人間は辛いことは時間が経てば忘れられることに本当に感謝ですね

そのあとに術後の化学療法を6クールしました。メソトレキセートとイフォマイド中心だったと記憶しています。
そして実はその間も、私は病室で受験勉強をしていました。
手術は12月半ばでしたので、
術後の化学療法は少しずらしてもらい、1月のセンターを受けました。
ラッキーなことに?配慮の範囲内で?
大学病院内の校舎でセンターを受けることとなり、病室から母親に車椅子を押してもらって受けに行きました。
そして術後初1クールをこなし…
そのあと二月に、なんと無謀なことに、車椅子で東京の大学を受けに行きました。
今思うとむちゃくちゃですが
…先の見えない病気、治療の中で、唯一確かなものとして、大学受験を目標に全て頑張って来ました。
目標達成という希望が、私を突き動かしていたし、唯一普通の浪人生と同じでありたいという、世の中との接点だったのかもしれません

そして奇跡的に合格し…
(まぁ長い人生で考えると地元の大学の方がよかったのかも?
)私の術後ケモ(化学療法を略します)は続きました。
ここで個人的大問題発生!!
大好きな主治医が異動することになったのです。その頃のショックは計り知れず…。正直大学合格の喜びよりショックがまさってた。
(どんだけ先生のこと好きなんじゃ!笑って一人ツッコミをいれたくなります
)とまぁ?こんな感じで術後ケモも苦しみながら終えたのでした。
正直目標と信頼する先生を失った後の私はひどかった。副作用にも耐えられないし、眠れなくなったり、泣いたり、ご飯が食べられなかったり…。
心が体に作用するというか、
心って本当に大切にしないといけないなって、身に?しみました。
こんな感じで、あっという間に一年が経っていました。
退院する時、本当に晴れ晴れして、
本当に全てから開放されたと思っていました

まぁ、本当の闘いというか付き合いはこの後からなんですけどね

この病気の怖さを全然わかってなかった。治療を全てこなせばこれで終わり!としか思ってなかったです。
まぁそう思えた時期があっただけでも幸せなのかな
