今日。見てきた。"エヴァンゲリオン"というものが1995年にTVで始まったとき、僕は30歳の、アニメ観てる場合じゃない大人にはなっていた。 しかし結局最終的には、はまってしまい、エヴァファンを、この25年やるはめになった。今日の姫路のアースシネマズにもシニア割引の老夫婦がエヴァを観にかなり来ていた。もはやアニメは子供のものではない。(エヴァはどっちかということ子供に見せられない。)

 

  Qからなんと9年。アルバム一枚出すのに10年くらいかけるトム・ショルツのボストンも作品の完成度が半端ないために、沈黙を破ってリリースしたら大ヒットというサイクルを長年繰り返したのであった。それと似た感じで、とにかく4半世紀にわたりアニメーション芸術の先端を引っ張り続け、ファンを待たせ続け、レジェンド化したその物語が、3時間の大作として幕を閉じた。

 

  今週の月曜8日に封切ると、ネット上にはもはや 大量のネタバレ考察があふれかえっている。そのネタバレ考察をいくら読んでも、結局、現物を観てしまわないことには、なにもわからないし、観ても、あれを説明せよといわれると、なかなかのスキルが必要だ。

 

  巷にあふれかえっているネタバレ考察は、知的な文章が数多くみられ、こんなふうに大量の人々が、ああでもない、こうでもないと、議論しまくる様こそが、まんまと庵野監督の術中にはまってしまっている。

 

  旧エヴァンゲリオンのTVシリーズのほうは実験的な作品であった。 最終回はもはや物語の形をなしていないという混沌ぶりであった。その説明をなんとか試みる努力が"新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に"という映画作品であり、これで一旦終結をみた。しかし、この作品の

 

  ”きもちわるい”

 

というセリフとともに、ブツリと切れる”終劇”の投げやり路線を見ると、今となっては、監督は、本当に終わったとは言えないという意識があったのではないかと思えてくるのである。あのブツリと切れる終わりは、

 

--- このバージョンの実験も失敗だ。だめだこりゃ。おわりおわり。かたずけるぞ。

 

と言っている感じがしてくる。

 

  今回の”終劇”はその意味では、今時点での庵野さんの最高の終劇なんだろう。 軽くネタバレすれば、今回の終劇は

 

  ”きもちいい”

 

   エヴァは、”分離”というキーワードを追求した作品だった。人間は、愛を知ることで、痛むようになり、孤独のつらさを逆に知るようになる。 この作品はアダムだとかエヴァだとかいうワードが飛び交うように、キリスト教をモチーフにしたところがある。アダムは、知識のリンゴを食べて神から分離したのだ。それは人間が分別のある存在として立つための宿命でもあった。それは敵と味方を生みだし、損と得、正義と悪、好きと嫌いを生んだ。世界の本質はストレスフルで苦しいものとなった。それは象徴的に他の生き物の命を奪って生きるしかないという、生物界の厳しい掟に表現されている。この世界を去り、神に戻ろう。それしか救われる道はない。

 

   けれども、今日はこの2021年のエヴァの最終結論を見てきたときに、

 

---- この世界にいよう。この世界を愛そう。

 

 と思えた。それは神から分離した苦しみと寂しさを解決するために、どうにかして神にもどろう、という方策を探し求めること(これがゲンドウの行動原理になっている)ではなく、今、ここを生きることこそが、分離した苦しみからの解放そのものなのだということを言っているのだと感じた。

 

 この世とのお別れの日は、誰の人生にでも、やがては来る。それでも、今日は命が与えられている。今、出会っている人たちがいる。もしかしたら実は今日一日しか私にはないのかもしれない。明日はもうこの世にいないかもしれない。それでも、分離した自分を救うために、世界をも巻き込むほどのことをやらねばならない、というのは、逆に、歴史の中で残酷な戦争などを引き起こした指導者たちのセンスだったのだ。それはカルトな宗教の指導者が歩んだ道でもあったのだ。それは自己実現というものを追求するあまりに、他と分離した自分の成し遂げたいことへの病的な関心が増長したのだった。

 

  だから、僕らは違うふうに行くべきなんだと思った。この世界を精一杯愛そう。 菩提心とかいうもの。生きて、この世界にいる間に、使ってみたらどうだい、と呼びかけられている。自己実現とか、自分のためとかそんなのではなく、自分に何のメリットもない人生を歩いていこう。 それでいんだ。なにも評価に値しないような人生でもいんだ

 

  2021の春、希望に満ちた作品をとどけれくれたことに、その作品を見ることができた幸せ。

  ありがとう庵野さん。