デリケートとされる問題は、炎上の危険があるが、ここは炎上するほど人気がないのですきなことを書いてみますが。
石原慎太郎さんなどが 南京事件は捏造だと言っていた。自分の陣営は正義だという考えは甘美だが、人間は馬鹿なことをすることがあり、それを集団狂気とグルジェフは言った。
集団狂気というグルジェフの言葉を初めて読んだ少年のころ、日本はバブルの頂点に向かう直前くらいで80年代のまんなかくらいで、筑波大学(堀江さんは東大以外行く価値はないと言っているが、僕はつくばを卒業したので、学生生活のサンプルをそれしか知らなくて)には遅れてやってきた学生運動が意外と盛んで、中核派のオルグが宿舎に入り込んでいて、三里塚に駆り出され、一方統一教会などの活動も盛んで、やっぱり学生が勧誘されていて、そこそこに問題もあって、変な時代を僕らは過ごした。あれはしかしバブルだったので、なにかとめでたい程度のことで、やがてバブルがはじけて、この時代に青年たちをひきつけた精神世界の一つとしてオウムの事件が出てきたときに、我々はことの重大さを知ったのだと思う。
原因はよくわからない。宗教には菩提心が必要だとY君がよく言っていた。オウムの彼らに菩提心がなかったのか、そもそも菩提心てなんだ。Y君のことばは一つの公案のように、長く僕に心にのこって、ずっと考えていた。菩提心。たぶん、、、エゴイズムと対極にあるもの。自分だけの利益を至上とする考えの対極にあるもの。やがては、エゴイズムをモチベーションとする活動は、エネルギー切れを起こし、何をもとめているのかわからなくなるし、実際仕事でも事業でも最終的にはうまくいかない。いや、どう考えても金儲けでしょうという事業が大成功する様はあるな。どう考えても、子供たちの健康をむしばむようなゲームソフトを作っている大人は悪でしょうといいながらも、それは莫大な富をそれを作っている側とその家族をやしなうのに寄与し、その家族には子供もいますので、なんかわからない循環によって、我々は回っている。パチンコは悪か、風俗は悪かとか、そういうことを言い出すと、なにかぎちぎちとして、そのほうがせまっ苦しい悪のようでもあり、生命の法則にかなってないような不自由がある。
南京写真館のことが、このところ始終頭の中にある。
世界で公開されていて、感動したと言われているらしいのだが、日本人として日本人は悪だと決めつけられているようで苦しいものがある。けれども、僕が日本で生まれて日本で育ってくるなかで、日本人としてのいじめとか嫌なところをいくつも経験させられてしまうような、どこか被害者としての位置をかならず得てしまう宿命とか(そういう波動でも出してますかねスピ系的にいうなれば)をたどってきたので、かならずしも日本人は正義です、それは誤解ですとは言えぬ。
南京写真館の予告の中で、死体の山の前で嬉しそうにしている兵隊の姿表情がある。うげっと思うけれども、そういう顔をしてにやにやしている悪い日本人て僕は何度もみたことがある。どういうときかというと、高校時代とかで、ちょっと優しい先生に対して、いろんないやがらせてをして、へらへら笑っているような少年とか。そういう生徒は強そうな先生にはそんなことしないものだ。単にずるいのである。僕の父はそうやって、むしばまれて死んでいった中学校の古い時代の先生だった、とか書いたら教え子のみなさんは嫌だろうか。そう書いたら、そんなこと書かんでくれというのは、父の愛した妻であった母がいいそうだが、昨年他界したから、もう時効のようになった。40年以上も前のことですから。しかしあのとき、飲んだくれの父をみながら、こんなふうに人間は我慢の限界というようなことになる場合があると、僕らは兄弟は学ぶしかなったのであり。
時代は流れ、そこここの学校でもいじめ問題は後を絶たず、自殺があったりして、すると学校側は責任のがれのようなことをやりはじめて無様である。親御さん的には、やったやつらを殺してくれという願いくらいしか無いかもしれません。そうやってのうのうと許されてへらへらしながら大学にでも行って青春をへらへらとやっていけるなら、やっぱり僕はあの死体の山の前でへらへらしている兵隊さんと同じ血が大和民族には流れていると思わずにいられないのです。そしてそれは捏造だというならば、今の時代に存在しているイジメの事実はどうやって説明するのだろう。そういうことを、私たちはするのである。無抵抗で弱そうなものをイジメて喜ぶ習性をもった生物なのである*。それにしてもあのへらへらしている役をやった役者さんは上手だと思う。本当の悪に見える。*なお、イジメは世界各国で問題で、日本が最大のイジメ国てことでもないとのこと。つまりこれは人間(人類)の問題である。
ところで昨年だったかSHOGUNが大ヒットしていた。今年は南京写真館が世界でヒットするのかもしれないが、昨年は高らかに日本人の残酷を美しく描いたSHOGUNを世界に人は称賛しながら鑑賞した。SHOGUNを見て日本すばらしいと思うかというと、僕は日本人怖いと思ってしまった。武士道も日本人も怖い。
むかしっから武士は禅宗と縁深く、特に臨済宗とは親和性があると僕は理解している。悪人正機ということを言いだした真宗の教えは、武士よりも庶民に向かった。しかし現代にいたって、内容がよくわからなくなって儀式だけ必死でやるはめになった仏教というものは、なかなか難しい局面だなと思う。メディテーションという正気をたもつ方法を残していた禅のほうが、おそらく現代人にはアプローチするものがあり、かといって悪人正機と言ってのけた親鸞の教えは今の私たちに必要に思う。こないだからの参院選で日本人ファーストと言い過ぎた。実際には、日本人は外国人技能実習生などにひどいことを現代でもやっているわけで。それはお上がわるいのか制度が悪いのかということもあろうが、南京であれだけのことを、命令だから許可がでてるから、といってみんなでやれてしまう日本人は、ほんとに立派な民族なのかよく考えねばならないというか、たぶん立派な民族なんてこの地球にはどこにもいないと思う。だから親鸞は、人間は全員罪悪深重の凡夫といった。