ChatGPTがどんどん進化している。

ChatGPTといろいろな宗教的なことを話すと、博学なので会話がはずんだ。

 

母が亡くなってもう一年半くらいになる。故郷から遠く離れれたここで最期をむかえさせてしまったけれど

神様がちゃんと送ってくれるために なにか贅沢なような 故人を本当に偲んでくれる いつくしみぶかい

三人の神父さんに見送られて 母は旅立った。 

 

イエスのいる天に

 

t

 

ChatGPTに、母が今出会っている イエスを描いてくださいと頼んだらこの絵が描かれた

 

 ChatGPTさんと僕は、いろいろな会話をしたので、僕がどんなふうにイエスという”人”を感じているのかよく理解してくれて

絵を送ってくれた。

 

 ChatGPTに絵を生成してくださいと頼むと、まずはぼんやりとした画像ができていてそのうちはっきりとした絵が出てくる 上の絵ができたとき

 

 あ、この人だと思った。

 

 僕の中にあったイエスにちかい。本当に、あの時代のユダヤ人がこんなだったわけではないかもしれない。映画とかで観たイエスの影響もどこかにあるかもしれない。映画サンオブゴッドのイエスはイケメンだと言われたいるけれど、それよりももっとどこか悲しみがあるのではないかと思っていた。ベンハーではイエスは顔を見せない。しかしやはり、その見えない顔には、どこか悲しみがあるかもしれないと思っていた。

 

 けれども、 マリアワルトルタがみたヴィジョンでは、彼は笑うと、その年齢よりははるかに若い青年のように笑った、とされている。そう言う顔も見てみたい。

  

アリサ・リウが女子フィギアの金だった。

 

なにしろ選曲がいいと思う。'78の曲で、僕は14の碇シンジ君と同じ年齢だった。NHK FMの”軽音楽をあなたに”、で夕方かかっていて、こりゃいい曲だと、少年は思った。

 

 

  ドナサマーは、映画 The Deepの主題歌を歌って、これがまたそのころ連日ラジオでオンエアされていた。同じころに人気があったオリビアニュートンジョンの妖精声とは全然ちがって、峰不二子的というかなんというか、お子様には禁止の途中のもだえ声が衝撃的な歌であった。ドナサマーといえば、もだえ声が十八番な曲が他にもある(ステテコのようなものを着たバックダンサーが笑えるLove to Love You Babyだ。)。そのころのドナサマーのヒット曲I feel loveはまぎれもないディスコサウンドなのに、これがクラフトワークみたいな電子音楽だったので、渋谷陽一が番組で、ディスコシーンは最近プログレッシブなんだよと説明していた。時同じくして、クラフトワークのアルバムMan-machineもけっこう踊れる出来だった。そのちょっとまえは、ソウルドラキュラとか。はっはっはっは(わかる?人いますかこれ)。

 

  というドナサマーさんは、黒人女性だから出る声のパワー全開だった。ありゃ白人には無理だ。日本だったら和田アキ子ならいける。

 

  アリサ・リウがえらんだマッカーサーパークは、ドナサマーの魅力満載で、グラミー賞にノミネートされ、全米1を3週キープした名曲である。出だしはメローで、だんだんもりあがっていき、ドナサマーのクレッシェンドしていくロングトーンの後に

 

 ーーーーー わっはあーー

 

っていうとこがあって、ここから曲がどんどんもりあがってディスコのリズムにのっけてってくれる。和田アキ子の「古い日記」、の”っはーっ”ていうとこと同じ効果がある ーーわっはあーーー

である。

 

  ディスコ。もはや死語である。けれども僕が大学生にころの筑波にはエクセルという日本最大だかのディスコがあって、夜な夜な科学万博のコンパニオンの姉さんたちが踊りにきていたりもしたもんだった。ディスコです。トラボルタです。そして思い出すと恥ずかしいです。

 

  っていう日本人にとって、世界にとって、あこがれの豊かなアメリカを象徴するような、あのマッカーサーパークの盛り上がりであった。歌詞は失恋ソングだというんだけれど、いっこも失恋に聞こえないーーわっはーーっである。若いアリサ・リュウがこの曲を選んだのは誰の入れ知恵か、それも本人がほんとにこれが好きなのかよくわからないけど、これがかかると、アメリカ人でも、また豊かなアメリカにあこがれ続けていた70年代の日本人でも、とにかくドナサマーの

 

 ーーーーー わっはーーー

 

  でもう、もってかれてしまうんだ。歌詞が失恋しているのにもう新しい恋でもはじまったようなアメリカンドリームに。目指すはアメリカ。なんかこう、おっかっけるものがある日本人はどこか幸せだった。

 

 

 論文が審査をとおって出版されることになることをアクセプトされると言うのだということを、大学の研究室の先輩から教えてもらって、あれから長い年月がたつのだけれど、今だに僕は自分で論文を書いて投稿して、Acceptの文字のはいったレターが来ることを心待ちにして暮らしている。若いうちは論文書かにゃならんからねえ、と、大学院時代に世話になった先生が言っていたのだけれど、僕は若くなくなっても自分で書いている。そしてアクセプトさんは今朝やってきた。

 

  アメリカからなので時差があるというのか、今朝、土曜の早朝にEメールがきた。昔、大学で先輩に教えてもらったころなら、エアメールが何日もかけてとどくというやりとりをしなくてはならなかった。時代はとても速く物事が進むようになった。昔、いろんなことは紙に書いたり、タイプで打ったり、大変めんどうな時代だった。

 

  今朝受理された論文はIEEE TNSというジャーナルに投稿したものだった。インパクトファクター(IF)は1.8くらいなので大したことはないけれど、いちおうシンクロトロン放射光の半導体検出素子を作っての論文なので、投稿先はここがいいだろうと決めた。Journal of synchrotoron radiation よりは今回は、電子工学よりなので。。以前の経験でTNSは査読が厳しかった。そのわりにIFが低いってのは割に合わない。しかし、ここでの目的は、とにかく参照できる文献として質のいいものを世に出しておくことなのである。今後この検出器を皆が使うとき、論文がないと困ったことになる。いちおう電子業界では有名なIEEEにしておくのはいい選択だと僕は思った。そして、実際査読は今回も厳しかった。きつい坂道を上っているような作業を通じて、やっと今朝 

 

   Accept さん

 

 がきた。

 

   論文を書くのには英語が必須だけれど、最近AIが賢いので、英語で苦しむことはなくなった。あるいは英語で差別されることもなくなった。テキストの世界だったらの話である。リアルタイムの会話はあいかわらず、僕はあほだ。最近、こっちに長期滞在中のフランス人の研究者と話をすることが多く、フランス語は無理なので、英語でってことになるのだけれど、むこうはしゃべってるうちに発音がだんだんフランスになってくるし、こっちはカタカナなんで、互いに暗号を解きながら会話している。

 

  ところで、この論文、最初は書かないつもりでいた。しょせんは職業でやっているものつくり。書いたところで。。しかし共同研究者でこれが自分の最後の開発だから、出そうよといってくれたひとがいて、半ばそのかたのために書き上げたものだった。IEEEは久しぶりに書いたので、どうかなと思っていた。投稿後、けっこう思ったより早く査読結果が返ってきて、4人もの査読者がお好きなように、ああしろこうしろ、これはどうなってんだ、と矢継ぎ早な質問コメントを大量につけたので、いわゆるメジャーリビジョンの大幅変更要求が付いた。しかしながら、すべての質問に答えるだけの実験結果はいくらでもあったので、バサバサとさばいて、とっとと再投稿した。それからひと月たって、

 

  Accept

 

感無量です。ネイチャーやサイエンスに掲載されるような話ではないけれど、つつましく、ものを作っている人間の仕事の成果として。

 

 

 

 

コンビニでレジに外国の人がいるのがけっこう普通である。ここは地方なのだけれど、だいぶ前は都会だとそうなってますとテレビで言っているのを見たことがあったのだけれど、今はここでもそうなっている。

 

ちょっと前まで、牡蠣を買いに港にいくと、中国人と思われる若い女性が、実習生だといって牡蠣を毎年売っている。

みなちゃんと日本語をしゃべっている。

 

何年か前に、農業法人のどこかの様子を放送しているテレビで、経営者と思われる人が、

いやあ、実習生いないと やってけないですよ

と言っていた。

 

だいぶ前になるが、やっぱり、介護の現場で外国人に期待しているのだといって 働く外国のかた

たぶんアジア系の女性のかたが働いている様子とかが放送されていた

 

背景は高齢化社会だとかいっていたと思うのだけれど

 

僕はせっかく大学の先生に入れてもらっ大企業をやめて馬鹿をずいぶんとやり、貧困というものも経験をした。 しかし、職を転々としたといっても、時代がよかったか、会社で働いたときはすべて正社員としてやとってもらった。最後は研究所のうだつのあがらかなった研究員としていくつかのつつましい論文を書いて、定年をおわろうとしている。つらいことはあったが、広くみわたせば楽な仕事だ。こんなふうではない職場もいくらもあった。いろんな職を転々としたり、大きい会社や小さい会社で働いた。自営だったり プー太郎だったり 主夫だったりを、した。いるところで大きな差があった。君は学歴に守られてきたといった人がいた。半分そうかもしれない。しかしそううまくいかないことも多かろう。結局、僕は運がよかったせいで生きていられるとしかいいようがない。運がよかっただけだ。これからもそうとは限らない。こんな甘いもんが永遠であるわけがない。自然と防衛的になる。なんてこったい。

 

 こんな話がある。

  あなたはなぜ人を殺してないんですか?

  いい人だからですか。

  全然ちがいます。

    --運がよかっただけだ!!!!(あるカテキスタ(注1)の言葉)

 

  日本人だから守られている。とばかりは言えない。貧困のスパイラルに入ってしまって、あるいは老々介護のスパイラルからどうにもなんともできずに、心中しましたといったニュースもある。こないだも一人で子を産んでどうしようもなく、子を遺棄しといったニュースがあった。日本で起きている。わりと最近、近所の人が白骨でみつかった。こんな片田舎でも、人の助け合いということはなにか難しく、日本はもう寒い。

 

  外国人を受け入れ 安い労働 皆無の保証 日本人がやらない労働 やりたがらない労働 介護の現場 みっつの重要ポイントは排泄 食事 入浴 とだれかお医者さんが言った  母が、重度に介護を必要とするようになって、 僕はしかしそんなに絶望するほど長くは看ないで母は逝った 実はこれも運がよかった などと内心思わねばならないほど 実に介護は大変で、家族におよぶ迷惑(迷惑と言っていいのだろうかと心は痛めど現実をあえていえば、そして僕自身があと20年もしたら迷惑な人になっているという未来の確実性のなかで)。。。

 

  ローマ帝国がほろんだのは、奴隷に働かせながらうれしそうに遊びくらしていたことによるというような大筋のストーリーがあると昔、大国の興亡だかいう本で読んだような気がする そのころバブルだったけど、その本は、いずれ日本もそうなると書いてあった だいたいなった。

 

  人に苦労を負わせて楽して、安いかねで働かせたらいいということが 経済問題としてかたずくわけはなかった

  どこか間違ってる  移民の問題とはそういうことを言っている。

 

  ”地上の楽園”と歌って帰還事業をやり逃げした国の無責任も、その発端としての朝鮮人差別も

  なにもかも、全部同じことに見える。

 

   たぶんか解決は政治ではない。しかし、政策が悪ければ、みなだまされて地上の楽園に行ってしまう。

             だれかに嫌なことを押し付けて自分が楽しているのが勝ちだと思っている人が正しいという奇妙な考えがこの国にずっと前からあり、差別を生み、村八分を生み、うすらさむさ、日本人の冷たさを生み、さむい。   

 

注1 カテキスタはカトリックの教えを教える人。そして、この言葉は、新求道共同体という、日本のカトリックが禁じたものの中で聞いた。

 

 

 

 

 

 

恐るべき本に出合った。。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

  聞いたことがなかったわけではなかった。時々は、テレビなんかでやっていたのを知っている。そうなんだな、日本人妻とかいって朝鮮にだんなさんとともにわたって苦労したとかいってたな。と言いう程度でしかなかった。実は苦労してその後、生存できた人が実は限られていたということを、これで初めて知った。

 

  帰還事業といって、戦後、日本から北朝鮮に何万人も送り込んだこと。それは人道的なことと称賛され、推進した政治家の一人は小泉純也という小泉純一郎の父であったということ。これらが、北朝鮮、朝鮮総連、日本の政府と、なんと日本赤十字、により、あたかも人道的な国際事業であると宣伝されながら進められ、しかし、実態は、ここに書かれたような、おぞましいものであった。この本のタイトルは皮肉のように、地上の楽園である。そこが地上の楽園であるはずがないことは、小泉純一郎が連れ帰った拉致被害の報道以降、注目度があがったためにいろいろなメディアで、現状の北朝鮮の異常性と、対比するように経済発展した韓国から伝えられてくる北との関係から、我々はもう、北に対してそこが楽園であるという幻想は皆無である。 だがしかし、この本の時代、昭和の35年くらい、そのころには、誰も何もわかっていなかった。この本では一回目の帰還の船で送られた人たちが、差別を受けてきた日本に帰りたいと切望するようになるという矛盾につきあたる。けれども、これが第60回帰還くらいまで、事実の情報を伝えずに繰り返され、万人という人間がその地獄へ追いやられてしまった。

 

 といったことを、この本を読むまで、ちゃんと知らなかった。愕然とする。

 

 在日という問題を、いくつか小説で学んだ。伊集院静の書いたものなども、かなりハードで日本で安穏している僕らには想像しようもないものであったし、またこの日本という国で差別を受けながらも、生きてゆく道を得ていった在日の人たちの苦労というものを、普通に暮らしていて知る由もなかった。しかし、この本は、さらにそれらの上を行くほどに、彼らが日本にいてもひどく差別され、だからといって帰還しても奴隷のようにされ、誰も責任を取らない、という、信じられないようなことが起きて入いる。そうして、そんなことがあったことを、やっと僕自身がこの本で詳しく知る。

 

 自分の生活や自分の状況やにばかり、目が行っているけれど、この世界には、大変な苦労をしょいながら、それでも強く生きてきた人たちがたくさんいる。 この本の中でもずいぶん繰り返し言われていたけれど、勉強しようという気になった。いろいろ。やるべきことがたくさんある。

ーーーーあの刻みで入る始まり方には名前がついているんだよね、たしかブルックナー始まりとかなんとか。

 

とM永は言った。そんなアホな名前がついているわけないだろう。と思った。それでさっきチャットGPTにきいたら、日本のオーケストラの現場用語だそうで、ブルックナーをやるときは、あそこを

 

ブルックナー開始
ブルックナー的開始
ブルックナー始まり
(やや砕けて)「例のブルックナーの入り」

 

などというらしい。。。

 

  そうでしたか。

 

  そんな会話を筑波大一の矢の二人部屋でM永と、たずねてきたT本やら、I十嵐、やらM池やら、O宮や、E口らと

 しながら、適当に笑い転げたりしながら、時間は過ぎていった。

 

  ブルックナー4番ロマンチックという曲をやるころ、スナフキン先輩がパートリーダーで、スナフキンはとてもストイックに練習をつける人であって、他のパートは和やかに笑い声もきこえて練習しているのだが、スナフキンの練習はとてもお通夜だった。今だったらぼくはあれが好きになれるだろうけれど、あのときはつらかったし、パートのみんなもなんか生気を抜かれたように、沈黙してやっていたのであった。

 

  ブルックナーをやりたいというのは金管楽器のみなさんの悲願だったようで、もりあがるところは、ほんとにでかい金管の音がひびいて、なかなかに高揚するものでしたが、この長い曲の長い部分はしずかにしずかに、うっそうとした欧州の森そのものでした。

 

  ところで、他に面白い曲として心にのこっているのが、エンゲルベルトフンパーディンクのヘンゼルとグレーテルである。フンパーディングがワーグナーの弟子なので、曲のつくり方がワーグナーそのものだと、学生指揮者は説明したが、ワーグナーよりもずいぶんとメルヘンで明るくてかわいい曲でした。そしてとてもこの曲を僕は気に入っておきにいりであった。

 

 

 

 

 けれども、僕がこの作曲者 エンゲルベルトフンパーディングと聞いて思い出したのは、もっと時間をさかのぼること、小学校の低学年の正月に、従兄の家にいってみなさんでスター誕生を見ていたときに、欽ちゃんが遊びのコーナーの司会をして駅弁売りを会場のみなさんにさせるというのを思い出すのです。

 

  スター誕生では、歌手志望のみなさんの歌が終わって審査が終わるまでの間、会場のみなさんと欽ちゃんと遊ぶコーナーがあった。毎回会場にきてそのコーナーからスターになった人も何人もいます。その日、そのコーナでは、会場有志が駅弁売りのかっこうをさせられて(しかしあの格好で駅弁を売ること自体もう存在しない文化だ。今はキヨスクで弁当を買う。)、その駅弁の箱の中に入っていたのが、柿と牡蠣とエンゲルベルトフンパーディングのレコードであった。参加者は、

 

ーーーー 柿い、 牡蠣。 エンゲルベルトフンパーディングにレコードおおお!

 

と売り子の掛け声をして歩き回って、これらを売る真似をさせられ、だれが一番うまいかを競わされていた。

それを欽ちゃんが茶化して笑いものにして、盛り上げるという。

 

  エンゲルベルトフンパーディングというのはそのワーグナーの弟子ではなく、同姓同名の歌手がいてそのレコードであった。

しかしあれは本名なんだろうか。

 

  という回りくどい時間スケールの思い出話を、僕は、オケを弾きながら、思い出していた。

 なぜに柿と牡蠣とフンパーディングを駅弁として売らねばならなかったのか、番組のシナリオ作家の手腕がアバンギャルドだ。それをめげずに仕事としてやってしまえる萩本欽一も若かった。

 

 

 

 

  渋谷陽一のヤングジョッキーでプログレッシブロックの特集があった。新聞のFMの番組欄で、最近ロックシーンはプログレ沈滞と言われているが、はたして本当にそうだろうか。プログレは終わってしまったのだろうか。いや違う。渋谷陽一は、独自の視点で、今、これまでのプログレの常識をやぶる新しいプログレが今、いくつも出てきている、それを紹介する。というふうに説明がしてあって、おもしろそうやないか聴いてみよう。

 

 という番組を僕が中一で聞いたのだから、もう1978年くらいの40年以上も昔の話で、そのころプログレが沈滞してようが、なんだろうが、いまとなってはどうでもいい太古の伝説にすぎないのであるが、とにかく、そこで、渋谷さんが紹介したものの一つが

 

 

  クラフトワークのトランスヨーロッパエクスプレスだった。!!!

 

  なんだろうこれ。不良少年音楽であるロックのカテゴリーから完全にはみ出しまくっている。どうやって作っているんだろうこれ。声が電気的な音になっている。そのうち、これらの音がシンセサイザーというもので作られていることを知る。のちにYMOが台頭してくるのはほんの数年後である。シンセはもっぱらアナログであり、冨田勲であり、VCO,VCFであり。このVCOとかVCFとかいう言葉を、やっぱり自作音楽を紹介するFMの番組で覚えた。

 

 VCO Voltage Controlled Oscilator

     VCF  Voltage Controlled FIlter

 

  電圧で周波数を制御、電圧でフィルタの定数を制御  てことか。いまとなって、僕は回路の仕事をしているが、これらもデジタルの時代になっていて、音の周波数帯よりもデジタルのクロックのほうが果てしなく高いから、もうアナログは、AD変換の前のアンプくらいしかいらなくなってしまった。

 

  といっても、それは何十年もあとの話であり、あの中学生だった僕にとって、マルチトラックレコーダとシンセはあこがれの、夢のまた夢であり、そんなものを買う金がどこかから出てくるわけもなく、さらにそんな世界をまったく知らないヤンキーばかりがすむ新宮市の田舎の僕は中学生だった。がしかし、

 

  線をうまいぐあいにつないで、2つのテープレコーダを使うと、多重録音もどきができることを、僕は編み出した。これをそのころの専門用語的にピンポン録音という。繰り返し多重録音していくうちに音が劇的に悪くなるので、それをノイズリダクションとか、低音だか高音だかのつまみを調整したり、なんとかしてどうにか音楽としてきけるようにしようと涙ぐましい努力をする。

 

  さらにシンセを買えない僕が、注目したのは学研の小6の科学の付録のエレキギターである。ピックアップのかわりに、なぞの工夫がしてあるおかしな楽器で、それでもエレキのディストーションのような音がするのである。そうだこれをラインどりしてしまえ。それと不良音楽であるロックが大嫌いな父親に電気の勉強になるからと買い与えてもらった学研のマイキットという教育玩具の説明書に電子楽器という回路図があったので、それでその電子楽器なるピーピーいう変な発振器を製作し、それらと、ラジカセの付属の安いマイクを、ピアノの蓋をあけて中につっこんだ。

 

  これらのガラクタを用いて、僕は必死になって

 

  トランスヨーロッパエクスプレスを再現しようとして、何パターンも録音をしたのであった。

  夜はうるさすぎるのでイヤホンでききながらライン録りだけやって、ふと気が付くと朝がきてしまう中学生であった

 

そんなこんなで、僕の音楽的人生は幕をあけた。小学校のころ大嫌いだった音楽は、大好きだった図工の一種になった。

 

 

 

 

 

 

  大学のとき、楽譜もろくに読めないのに、若気の至りで管弦楽団に入った。入学式が終わって、大学会館から二学(第二学群:つくばです)のほうに歩いていく道すがら、たくさんのテントが立ち並び、先輩たちがあの手この手で新入生を勧誘していた。いろんなチラシをもらった。オケに入ろうかなとちょっと思っていたので、オケのテントに寄ったのだと思う。

 

  ーーーーなんの楽器に入りますか

 

 と問われたが、実は考えてなくて、オケに入りたいと思っただけだったが、

 

 ーー チェロとかどうですか

 

 と言われたので、はい と答え、数日後、チェロのパート練習を見に行くことにした

 そして、そこで実は楽器は自前であり、チェロは100万とかするという話をきき、アホかと思って、オケとの縁は切れたつもりでいたら、ある日、宿舎の戸をたたく音がるする。

 

 ーーー ビオラ弾きませんか

 

と原田知世ににたパートリーダーと、スナフキンみたいな次期パートリーダでのちに楽器職人になってしまった物理専攻の先輩がいた。 楽器は、大学のやつを貸すからだいじょうぶだという。それなら、とビオラを始めた。しかし夏頃にはスナフキンがそろそろ買えといったので(結局だまされたね)、バイトをして秋葉原の下倉で一番安い三万のを買ったが、子供のおもちゃに近いもので、かたちがビオラだが音はひどかった。しかしそこは、オケ、初心者のおれの音なんか特に貢献してないわけだから、逆にならないのがいい。かっこだけ弾いとけ。

 

 といいながら、修士を出るまで6年オケに世話になり、なんとなくオケに比率的に多かった物理とかをやっている友達と仲良くもなり、そんなこんなで、いま、結局物理とかに近いような職について生きている。

 

  同じビオラパートのO宮君は、クリムゾンのアルバム レッドの、堕落天使(Fallen Angel)を絶賛したときがあった。

  僕はバイオリンのM永君と二人部屋の宿舎に住んでいた。よくいろんな連中がおとずれ、どうにもなかなかにぎやかな大学生活だった。二人部屋には、先輩からもらったステレオがあり、M永君はもっぱらクラシックをかけた。はげ山の一夜をかけながら勉強している夜は怖かった。僕はもっぱらロックをかけた。O宮君が絶賛したFallen Angelのかっこいい部分は、途中のギターとサックスとベースとで分厚いコードを弾くところだった。

 

  ーーうわあああ クールだあ!!!

 

と彼は感嘆した。

 

なんかワーグナーみたいな、変な魅力がたしかに、あの部分にはある。もう80年代だったので、レッドは懐メロではあった。当のフリップはもう、あんなクラシック調のコードを主張するのはおもしろくなくなってたころで、むしろジョンウェットンが、あんな感じのコード感覚をエイジアで実現していた。

 

  一番最初にイニシアチブをとっていたんであろうイアンマクドナルドの呪縛からフリップがどんどん乖離していきたいその方向性と逆行するように、ジョンウェットンはクラシカル、もしくは演歌に回顧していった。  

 

 

  ジョンウェットンは人情の人なんだろうなというとを、このなんか悲しすぎそうなPVに思うのである。

 

  ということで、ロックとクラシックと、二人部屋のLP版のかかるステレオと、たずねてくる友達たちと、なつかしき20歳くらいのころである。高校のときに、あこがれたクリムゾンで再度見ることはなかったけれど、かっこいいジョンウェットンは、その男前をASIAで十二分に発揮してくれていた80年代は、日本もバブルで、明るくて、まったく、夢かあれは。

 

 

 

 ロックは不良少年音楽だと言ったのは、音楽評論家の森永博志がサウンドストリートでそういった。不良少年であることこそが既存の硬直したものを打ち破っていくエネルギー存在としての資格だといったふうに。森永さん27歳だったそうです。未来の不良少年音楽だといって、XTCをかけた。

 

  不良の少年。という言葉は僕が少年だったころはよく使われたが、最近は聞くことがすくない。差別的だからかもしれない。

 

  ロックは不良少年のやる音楽だからと、中学校の教師だった僕の父親は嫌った。だいたいそのころの先生たちはみんな、ロックは嫌いであって、文化祭でロックコンサートをやるやらないでもめるのであった。

 

  いつの間にか洋楽のロックを聴くようになっていた僕も、学校にいくとそのころはそしてその地方の学校の、クラスの半分以上がヤンキーで、なんか仲村トオルのBeBopハイスクールみたいなもので、地方だし選択の余地がないので、そこに入学し、ヤンキーの巣窟となったクラスで、肩身の狭いふつうの中学生をやりながら、キングクリムゾンを聴くのですが、ヤンキーのみなさんのブームはキャロル、クールス、なぜかサザンで、掃除の時間にホウキをギターにして暴れている。のであった。そしてしばしば本気で怒っていて、凶器のように怖かった70年代のヤンキーである。

 

  不良少年音楽っていうと、そういうことを思い出すので、森永博志が、ロックは不良少年音楽だといったら、微妙に反発を覚える僕であった。

 

 

  時代は流れ、いつしか、ロックバンドやっているやつって、むしろ真面目なやつが多いよ、とか言われるようになってる。

 

  そうである。いつしか、時代は日本が豊かになったからか、楽しいことはたくさんあるようになり、また怠惰に過ごしたければゲームやなんかもあるし、いちいちバイトして楽器かって修練して、演奏してといったことに精を出すのはもはや、まじめ、あるいはヤル気といった、前近代的な気合のある少年少女しかやらなくなってしまったのかなと思う。

 

  だからいつしか、ロックは不良少年音楽ではなくなってしまったし、ロバートフリップは老人になっていまったし、トッドラングレンはあいかわらず上手だし、ダリルホールはイケテル老人になっているし、ジョンウェットン、グレグレイクも坂本龍一も天に召されたし、元気な矢沢さんは紅白で歌うし、いつしか不良少年だった少年たちも、いわゆる立派な大人になって頑張って生きている。

 

  そういうみなさんにエールを送るように不良少年音楽と言われたロックなども進化をとげ、不良少年音楽という言葉を言った森永さんも少し前に永眠していた。

 

 

 

 

 

 

いくつか雑な文を書いてみます。雑ですので。

 

 キングクリムゾンのCDを車中で聴いて出勤していたりします。レッドという曲を、中1くらいのときに初めて聴いたのだとおもうのですが、なんかインドっぽい旋律が繰り返され続けるうるさい曲だなと思ったことを覚えています。

 

 あれがインドとかアジアっぽいというのは、いったいなぜそう思ったのかわかりませんが、そんなふうに聴こえるひとは他にいるでしょうか? いわゆるインストゥルメンタルナンバーなんで、歌もないし、それに主旋律もあるようなないような曲です。後に、チープトリックが何枚目かのアルバムでオーボーイという曲をやっていて、それも歌無しのインストゥルメンタルなのですが、それを聴いた渋谷陽一がFMのヤングジョッキー(サウンドストリートだったか)で、

 

 ーーー これは明らかにカラオケですよ

 

と言っていたのを思い出します。

  たしかにオーボーイは、最初足音がして、口笛で旋律を吹き鳴らし、そのあとその旋律をそのままバンドが歌無しで演奏するのですが、それにロビンサンダーがなにかを歌ってしまえば、一曲できあがるはずを、端折ってそのまま売りに出した感じです。

 

 しかしながら、レッドは違うのである。レッドをカラオケにジョンウェットンは歌えただろうか?あれの曲の構成はそのまんま、ロバートフリップがベネット師の学院でのグルジェフワーク修行を終えて出て来たあとのソロアルバム エクスポージャーの中の一曲、ブレスレス(邦題:呼吸困難)でも繰り返したのである。同じように奇妙な旋律をちょっと上げたり下げたりしてくりかえし、途中になんか精神がストップして変性意識に入りました的部分があって、ふたたびハードなエレキギターで上がったり下がったりの繰り返しをする。それで最後は未解決なコードで終わって、人を不安にさせ、

 

ーー どやねん。おれは病んでいるんじゃ。とりあえず心配しろ!!!

 

というフリップ師の個人的なメッセージに共感しなくてはならないという、なかなか鑑賞力を問う問題作となっている。

 

 アルバム レッドの録音は難航を極めたらしい。後にビルブラフォードが、言っているようなのだが、フリップはそのときたぶん病んでいたでしょうと(言っていんですか、そんなこと)。だから、彼はずっと黙ってしゃべらなかったので、仕方ないから、ジョンウェットンが仕切ってエンジニアのみなさんとどうにか作ったのでしたと。(やっぱりジョンはいい人だ。)

 

 しかし、病みながら作ったレッドのことを、フリップ師は、あれは傑作のひとつだと言っている。

フリップはたしか、”クリムゾンキングの宮殿”と”レッド”、そして”ディシプリン”を自分の中では傑作だと言っていたと思う。

 

 この3つの共通点は、化学反応であって、たぶんフリップは自分がこうしよう思って作り上げるよりも、やってみたらこんなのできたじゃねえかすげえと言っているほうが面白い人なんでしょう。規模は違いますけれども、僕もそうです。共感できます。ビルブラフォードはイエスをやめてクリムゾンに来たのは、そこがよかったんだと言っているらしいです。

 

 イエスの音楽はすごく技術が高いけれど、イエスの音、というものがずっと存在し続けたと思う。あの声じゃなきゃだめだったので、アンダーソンがいないときは、トレバーホーン(Video kill the redio star!!)まものまねしてアルバムを作ってみたほど、あの声でないとゆるされないのである。しかもトレバーの歌ったアルバム”ドラマ”はすこぶる出来がいい。そんなことは、クリムゾンではどうでもよくて、グレッグレイクの声とジョンウェットンの声はけっこう違う。しかし、それでもジョンウェットンがアル中で抜けたAsiaの日本ライブには、グレッグレイクが歌いに来た。ドラムをカールパーマーがたたいているので、もはやキーボードが変わったELPにイエスのguitarist(スティーブハウ)が参加したようなバンドである。

 

  話がどんどん脱線している。宮殿とディシプリンは、新しい仲間を新しい音楽ジャンルを作ったということが、フリップ師の中の化学反応だとすれば、レッドは確実に、彼が自分のそのときまでの人生のありかたを、葬り去った作品だったんじゃないかと僕は思っています。

 

 レッドの中の最後の曲、Starless and bible blackは、絶望に満ち満ちています。宮殿で、衝撃的にデビューしたかれらは、若者であったがゆえに、まだまだ遊びたい盛りで、分裂していったグレッグレイクが進んでいったELPや、イアンマクドナルドが進んでいったフォリナーは、離れ業の演奏とか、ポップなアメリカ路線に向かう歌謡であったりと、なかなかに若々しい活動に行ってしまったのです。気がふれたような歌詞を歌わされていたジョンウェットンでも、80年代にはなんかいい感じのお兄さんになって(30代だしまだ)イエスやELPを抜けて来たつわものたちと女子がキャーキャーいってくれそうな歌を歌っていたりもしたのでした。

 

 しかしフリップさんだけは、狂気と正気のはざまで生きているかのように、なにか聞いたことのない音楽を作り続ける道をずんずんあるいていって、さらにアバンギャルドな歌い手トーヤさんとご結婚されたのでした。すごいです、あんなことをやって生きて食っていけて今にいたり、老人になってもなぜかかっこよすぎると言う離れ業をやってのけるのでした。