その年の1月には、僕は研究室が決まって、サークル(管弦楽団)も退団して、実験室に入り浸る日に入っていた。3年の三学期の終わりごろで、だいたい授業も取り終えて、来年度は卒業研究をやって、修士の入試をやって、といったころだった。
先輩たちと一緒に晩飯を学食で食べて、研究室に戻る道すがら、第一学群棟で今日はオケのパート練習をやっていることを思い出した。いつもなら、退団してしまったサークルに先輩面して見に行くなんてことは躊躇してしまうのだったが、なぜかその晩は見に行ってみたくなった。
3階に上がっていくと、練習の音がせず、何人かがひそひそと立ち話している。なんか変だなと思うが、ひとまずビオラの練習している教室に行ってみようと歩いている。そこに2年のホルンの後輩が僕の顔を驚いた様子で見つめていう。
ーーーーMさんのことは聞かれましたか?
いいえと僕は答える。ホルンの後輩はたしかこういう言葉でそのことを言った。
ーーーー自殺されました。
僕は目をまるく大きくあけたと思う。それからどんな時間が流れたか、順を追って思い出すことはできない。
医学棟の霊安室にその人の遺体があり、その人の幼い顔で眠っていた。詳しいことはわからなかったが大学のキャンパスで一番高いF棟と呼ばれる建物からの飛び降りだった。
僕の高校から来た後輩であり、同じ学部に進学してきた少女だった(なくなったとき19歳だった)。オケにさそい入部した。楽器の経験がなくて苦労していた。ときどき練習を見てあげた。夏に帰省したときに、筑波にもどる汽車がいっしょだったので、いっしょに筑波まで乗っていった。見送りにきた母が、この子らいっしょに行ったり来たりするようになるかしらんといって、どこか喜んでいた。たとえばこの子と将来結婚して地元にでも帰ってきてくれんやろうかとか思ったのかもしれなかった。那智の人だったので、あのころは先に那知からくる汽車に乗っていたのだろうか。母は、一人不安そうに乗っていたその子が、僕の姿をみてとても安心したようになったと言った。
あのときの母は同じような年齢の娘を持つ親でありかつ、未亡人になって2年たったころだったので、いろいろと子供たちのことを案じたり、そして母子家庭となって大学生をかかえ働きながら、忙しさの中に沢山の思いを錯綜としていただろう。母はそんな目で僕らを案じ、見守り、1986の冬に、その人の訃報を聞いた。たしか僕が電話して伝えたような気がする。
遺体は勉強好きだった個人の意思と考え、ご両親が筑波の医専に献体した。この子の父親は教師で、その父親の兄弟も教師であり僕が小学校の時に習った先生だった。新宮市で葬式があり、新宮までオケの何人かが行って参列した。僕も参列した。
遺書があったと言われている。僕のことなどは書かれていなかったのだろうと思う。その後2度ご実家を訪れて仏前に参らせてもらったが、ご両親から何か問われたことはなかった。2度目に訪ねたときは写真は外してあった。遺書には、自分が勉強する意欲がなくなったことを悩んでいたようなことが書かれていたらしいと聞いたことがある。
僕のいた学部(第二学群農林学類ということであった。いまは生物資源学類という。)の仲間は仲が良かったので、その人が亡くなってみんなが悲しんだ。そのときみんなでささえあっていたように思う。僕は楽器経験もないその人を無理にオケにさそったことを悔やんだ。Y田(という同級生)はそれをきいて
---- 湯川ちゃんは、Mさんに知らなかった世界を見せてあげたんだから、それは彼女にとってよかったはず
と慰めた。そうだといいなと思った。それでも、あんなにマジなオケにほうりこんだことは、やはり無責任に思えた。そのことと、このことがどれくらいつながったか計り知れないが、起きたことにはすべてのことが絡み合って起きている。彼氏がいたとも聞いた。どんな学生生活だったのか。全てはわからない。
そんなことを、さっき急に思い出した。そしてこんなことを深く思った。そうだ僕は、すこしも幸せである必要なんてないのだった。自分の幸せになんて求める必要がないのであった。その人が精一杯の命を短く断ったときに、その人があったであろう幸せを得る暇もなくその物語は終わった。その人が青春の頃を過ぎていろいろな無数の出会いがまだあって、生活をして面白かったり怒ったり泣いたりしたかもしれない時間をすべてその日にやめたのだった。だからそこにはこの三次元世界の幸せをゲットしないまま去った一つの人生があった。僕はその人の純粋すぎるキャラクタを今でも覚えていて、その人はもしもそのあと生きても決して人を押しのけて自分の得をゲットしようとするような人ではなかったとわかるので、その人生はもしかするとやはり苦しいものであったのかもしれないと想像もしてしまう。
僕はあの日から実はただ淡々と生きてればいいだけの人間なのだった。なぜなら、あの人が死ぬのを僕は止めれなかったのだったからだ。最期に会ったのはたしか筑波にそのころ在学していた新宮高校の卒業生で会ったときだった(その後僕が進学した医科学修士の教授が二人も新宮高校の先輩だったのだ。その先生らが毎年集めてくれた)。その会合のとき、何故僕はなにか話してやれなかったのだろう。けれども時間は流れ、その瞬間は過ぎ去り、もうあれから40年もたとうとしている。40年僕はなにをしていただろう。急にこれを思い出して、僕はもうあの瞬間に止まってしまった命を思うとき、なにか自分の幸せのようなものを亡者のように求める人生を禁止されているように感じるのだ。それは罪悪感とかではないと思う。真実を生きねばならないということを、奇妙な回路を通ってその出来事は教えてくれているように感じるからなのだ。
それゆえに、天に上った彼女は今も語りかけているということを、心底信じようと思う。自らを断ったその魂はしかし、かならず神がひきとって宇宙を満たしている幸せの命の源に返したと僕は思う。僕らがいつかは還るそこへ。そこには、その何年かあと僕が妻とした人もまた短い生を終えて還っていったのだった(それからも30年たっている)。それらの魂のあるところは、この今生きている世界のように無駄に戦ってお互いに損をさせあって苦しんでいる世界とはちがって、もともと人が無限に幸せだという真理に満ちた世界だ。人生というものはそこから来た僕らが、そこへ還るだけだ。そんなシンプルなことを僕は、結局学ばねばならなかった。それでもそれが一番結局大切な学びだった。