日本の首相というものは、アメリカの大統領が戦争を開始すると、

 

ーー我が国は全面的に支持します

 

 というのをなるべく早く表明する、ということをずっとやっているのだけれど、それはなぜなのかというと、普通には自分で考えて自分の答えを持とうよ人間というものは、というのが立派な大人の考えであるとされるのだけれど、政治と言うか戦争というか現実の武器をもって相手をどっさり殺してもやってやったぞと嬉しそうに会見を述べていても逮捕もされないという奇妙な立場の人が許されてしまえるという地球上の人間のありかたについて、これが異常だと思えないように洗脳されてしまった地球人というものはそういうわけで、

 

ーーー我が国は全面的に支持します

 

とりあえず言っとこうというマニュアル的な反射神経が問われているのである。

 

  高市首相は私の最大のファンだとこないだトランプがG7だかのときに言っていたのだけれど、ほんとうにそう思っているのだとすれば、トランプと言う人はやっぱりアホなのだなと思う。とりあえず言っとこという感じで言っているのだったら、意外としたたかなのかもしれないけれど、それだと何の目的で言っているのかよくわからないので、もしかしたら単なるナルシズムで言っている可能性もあって、そうなるとやっぱり単なるアホなのかもしれない。

 

  というようなわけで、現在地上を支配しているかに見えるような国の大統領がもしも うつけであったらという 危機に、人類は見舞われているのである。しかしたぶん うつけである。

 

  なんかたよりになりそうな人にまかせればこの世界はよくなるのではないかということを、僕らが考えるときには、実は思考停止していたりもして、どこかでなにか幻想に酔っているのかもしれぬ。

 

  選挙で高市政権が生まれたときも、過ぎ去って時がたってみると、おなじようなことかもなともだんだん思えてくる。あのとき、なんとなく、よくなるんじゃないかなと夢をみたが、何か結局今はいいのかどうかあまりわからない。

 

  とりあえず物価は上がる。手出しのできない戦争は起きる。石油が入ってこなくなる。戦争を起こした大統領に何も言いたいことを言えてない。もしかしたら、トランプが脅しで言ってくるネタにする、米軍基地引き上げてもらったほうが、国益にかなうんじゃないかといった気にもなってくる。そのあとどうするか? 戦後70年という。わからんけれど、自国で考えなきゃならんのでしょう。

 

  最近森村誠一を読んでいるのだけれど、日本はずいぶんなことを、やっぱり戦時中にしたのであり、他国に対しても自国の民にたいしても。とくに自国の民に対する、時のエリート層勝ち組系のしでかしは、今も昔も変わらない感じがするのである。なにかアクドイものが、日本人にはある。だから学校のいじめも会社のいじめもある(もちろん外国にもけっこうある)。

現在の国際秩序では、1968年の
核兵器の不拡散に関する条約
(NPT)によって、

核保有国
アメリカ合衆国、ロシア、イギリス、フランス、中華人民共和国

の5か国だけを「核兵器国」と認めています。なぜこの5か国かというと、1967年1月1日以前に核実験を行っていた国だからです。

つまり、道徳的に優れているからでも、特別な権利があるからでもありません。(明らかに第2大戦の戦勝国ですね)。

 

インド、パキスタン、イスラエルはNPTに加盟せず核を保有しています。

また、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)はNPTを脱退して核開発を進めました。

 

とのことです。チャットGPTに教えてもらいました。

 

        

  アーサーCクラークの幼年期の終わりという小説がありますが、こういうことをやっている人類は幼年期だと思うんだけれども、大人で優秀な人が、金のからむ武器開発なんかして、なんかかしこそうにプレゼンしたりしているので、かしこいからといって大人ってわけではないのだと思う。大人ってなんだ。幼年期が終わるとどうなるんだ。

 

   

岡本直人さんの本が面白い。心。ということを、これはインド哲学なのだそうだが、

 

ー心の働きを止めよ

 

っていうのが、苦しみから逃れる道だという。岡本さんのオリジナルではなく、ヨーガスートラにはそう述べられているんだそうで。

 

  確かに人は、あるいは私は、心に苦しむ。心がないと野獣のようなもんになってしまうと思うけれど、

ときに心があるが故に野獣より酷いことを人はする。心によって苦しめられているともいえる。

 

  創世記に神が禁じた木の実は、善悪を知る実であった。心を持ち、裁くものになると、苦しみは始まる。

 

 

  高一のときに少林寺の顧問だった勝山先生が言った。仏陀が見出した、人生とは何か、の命題の答えは

 

ーー人生とは苦しみだ

 

  ということだった。少年にとってはじめて真実に触れたという直感があった。

 

  そうだ、それはほんとうだ、と僕はあの時思い、その絶望の言葉に逆に癒された。

 

 

  

相続のとき、妹の名義にしたし、自由にしてもらってもいいのだが、どうも実家を元同僚の若い保健師に貸す話は頓挫したようである。

 

 売ってしまって金に換えたらどうだと、妹に言っておいた。

 

 実家の空き家は社会問題であり、犯罪に放火にといろいろややこしいし、あの新宮市の高台は津波に強いから高く売れる。

 妹もようやく、そうしようかなといった。まだ働いているから、70くらいまで、住まないというような気になっているようなのだが、そんなに空き家にするのはさすがに問題だ。

 

 とはいえ、当面まだ貸さないってことは、盆に新宮にいっても泊まるところはあるってことでもあり、

 ちょっと呼びかけて高校のクラスで飲み会もできなかないな。とか思ったりもする。売るならとっとと進めたらしいよと言っておいたが、ふんぎりはついてないかもしれない。

 

 僕自身は兵庫に家を建ててしまい、息子も近所にすんでテレワークしているし、孫と、妻と、息子と、もう完全にここに根が張られてしまったとでもいうか、あるいは新宮というものが、もともとそんなに僕にとって、たいせつな友達が無数に生息するようなおころではなかったのか、故郷を捨てた僕、のような自分にとって、新宮を切り離してしまうことは、一つの重荷を下ろす類のことでもあるように感じる。

 

  今生きているここ、ここをなつかしい地に変えよ。そこからはじめる。

 

  という歌詞の歌を僕はたしか25の時に書いたのだった。誰も知らない、自主制作のCDを作って、たしか1000円だかで売りさばいた。バンドをしていた仲間と。あの歌詞は、自分にとってなにか、予言のようなもんなのだろうか。

 

  野垂れ死にというのが理想なんです。とたしか藤田一照さんが言っていたと思う。

 

 野垂れではなくても、結局故郷を捨てて、どこかに流れていって、どこかで一生を終えます。高校の同窓会に行ったら、最初に黙とうした。鬼籍に入られた先生とか同級生のために。僕は、だいたいのことをもうやったと思うので、鬼籍に入るとかいうのも、そろそろいいかなと思っているのだけれど、なかなか神さまがゆるしてはくれてないので、まだ生きている、というくらいだ。

 

  朗らかに生きていきたいものだ。のこり。。

 

 

 

日本の国旗を損壊すると罪になるという法律ができるらしい。

 

昨日ニュースで、ケアマネを殺して自分も死んだ60歳代の男性のことをやっていて、家には90代の介護をうけている母が残された。

 

もう一つ、やっぱり66歳の男性が12になる障害をもつ息子を殺し、逮捕された、というニュースをやっていた。10年前に妻が他界、息子を一人で育てていたがお金がない、先行きが不安だったとこのこと

 

もうひとつ、私の住んでいるたつの市で、42歳の男性が、母娘を殺して逃げている。かれもやはり貧困だったという。その母娘の隣の昔住んでいた親子のうちの息子のほうで、10年前に父が亡くなるまではそこに住んでいたという、なにか複雑でよくわからないけれど、21世紀の日本の、こんな地方で、生きることがつらくて難しい。

 

いつでも問題になって久しくて、もう日常そういうもんだと割り切るほどに悲しい学校でのいじめの問題。先日から、高校生の女子を橋から落として殺したリンチのニュース。

 

 闇バイトで高校生らが家に押し入って、そこに住む一家に暴行、母が殺されたという、ニュース。そして闇バイトを統括していたとみられる夫婦の逮捕、さらにその上の人物。

 

  と言うような誇り高き日本の国の国旗を損壊すると罪に問うという、どうでもいいことで人を逮捕する法律を作るために日夜ああでもない、こうでもないと、議論を重ねて給料をもらっている人たちもいるということなのだが、他にもっと人を幸せにできそうなことをとっとやってもらってもいいのかなというふうに思いますが、こんなことを書いていると僕は逮捕されるかな? なんかやな国だな。

と母が晩年にたまには言った。そして最晩年には、故郷を去って、僕のこの家にくらして、たくさんの話をを僕とした。

そしてここにつれてきて、だいたい一年ちょっとて逝ってしまいました。

 

 人生とはいったいなんの意味があるんじゃろのう

 

 と叔父も言ったことがあった。脳梗塞で生死をさまよったあとで、そういった。それから10年たったくらいで、叔父は逝ったのではなかったかと思う。

 

  何の意味があるのかということを、僕らはわからないだろう。自分が原因で来ているのではないから。この世界に。だから勝手に好きな意味を描くが、トランプ大統領は、人生の中でやりたかったから、やっているのだろう。戦争を。正義とか悪とははわからない。ハイゼンベルグは、理念ではなく、やっていることを見て、判断するしかない。といった。そういう基準なら、トランプは悪ということになる。もうずいぶん殺してしまった。好きでやっているのだろうか。いたしかたない。好きなんだろう、人を殺すのが。おれにはよくわからぬ。イラン人の友達とかいないのかな、顔が広そうだだ。僕なんかよりも一億倍くらいは。

 

  ローマ法王は言ってくれなかったが、イランが核兵器をもつのが悪だというなら、アメリカがもっているのも悪である。そういって人の盾になるといって命を投げ出してくれなければ、ぼくらはもうキリスト教など信じないだろう。カトリックの最高用いに上り詰めるために生きてきたとかいうどうでもいい実績は、だれも救わない。核を持つとは、他人が持っているので、私ももつ、という比較の中で、人間が苦しんでいると言っている。だから日本はそんなに軍備してほしくない。僕の夢のような幻想として。

 

 続猿の惑星では、ケロイドの顔をしたミュータントとかいう人たちが、水爆を崇めるミサをしたが、テイラーのチャールトンヘストンは、最後にそのボタンを押して、地球を破壊した。あれが70年代のメッセージというものだ。アメリカ人が戦争に反対だったんだ。今はトランプ大統領はときどきスピーチするとき後ろになぜか意味不明の喜び組みたいな女性が数名立っている。あれは何のメッセージだろう。金持ちは善という変な哲学があるのかな。バットマンとかサンダーバードは富豪が主人公だ。

 

  こないだから、僕が住んでいるこの地域で殺人事件があって、全国のニュースになっている。犯人はつかまっていないい、彼はお金をもってなくて、遠くに逃げれないので、このあたりに潜伏しているのかもしれない。彼はなぜそうなった、という背景はわからないが、報道を信じれば貧困ということがあったと思う。貧困が悪なら、なぜひとは助け合わないのだろう、自己責任という冷たい考えは、ケチで差別でありケガレの思想であり、実にそこに悪、サタンが住み、そして僕らは怖いから、そんなに愛を持てない。道を踏み外した人は勝手に死んでってくれ。それが日本人というものだ。それが日本人のもつ差別とケガレの構造である。それは宗教を汚いものと感じる感性であり、人間はそもそも悪いものだという性悪説であり、愛とかいう絶対笑えて来る、損しないようにかかわらないようにしようという、人を決して許さない善の持っている残酷である。だから僕は日本人は冷たいと思っている。

 

 人間は力を発揮し、社会にみとめられて、金もかせいでいくことができる。何もできなかれば、くいっぱぐれるけれど、僕自身はそんなに能力があって生きてこれたとはおもえなっから、その逃げている容疑者の状況が僕と交換されないでいることは、たまたまにしかおもえない。そうかんがえると、僕は犯罪をおかさないうちに実はとっととこの世を去りたかったりもする。

 

 

 

 

  

 

 

大人になって、仕事するような生活をして長くなると、なかなか友達と言える人もできにくくなるもんだな、と

僕は痛感しているけれど、みな同じようなことを感じているんだろうか。

 

結婚して、長い年月の子育てをやってる間に、なにかと若いころの友達などとも疎遠にもなり

ながい年月たっておっさんになってしまうと どうも気恥ずかしいというか

老朽化した自分をつれてって会わせてもなんか絶望だかあるような

 

といいながら、ここで長く仕事しているうちに、そういう過去の古い友達というより、ここでいくらか親しい友達ができたりもした。そうして、今度はそっちのほうが、気が付くと長い友達になってきていたりする。

 

そのうちのS君は、だいだいおんなじ歳なんですが、僕もS君も出世のようなもんと縁がない輩で、

なんとなく、親しくなったのだけれど、おかしなもんで、僕らのような非能率的な社会人にも

いくらもかかわってくれる人たちが、そのうちできて、一昨日 亡くなってしまったO沢さんなんかも

そうしたなかよくやってくれた ひとたちの一人で、僕らは何度も 実は科学ボランティアのようなことを

いろんなところでやったりもした

 

  面白い科学実験を考える会

 

っていうグループ名で素性を伏せてやっているけれど、実はSPring-8の人たちだってことはもちろんばれている。部活のようなもんだろうか、ある意味。O沢さんが亡くなったとき、面白い科学実験を考える会で花を出した。

 

  S君が中国人の女性と結婚したのはもうだいぶ前になる。S君の家にいくと、歓迎の文化だからだろうか、食べ物が次つぎに出てくるのであった。

 

  ところで、日中関係といったら、もう日本の軍国化を懸念する習近平の表明なんかが、いつもテレビでやっている昨今なんで、国際結婚ってむずかしいなあと思うのだけれど、S君の様子は、そんなでもない感じがする。政治のことは政治のこと。実物の人間どうしは違うんだよ、といっているようにも思う。

 

  そういう姿を見ていて、ああなんとか、このひとに幸あれと、思う。世界も、日本も、人類も、幸せであれと思う。

  

 

 

僕はカトリックですが、ローマ法王というものは人間がコンクラベをして選ぶものだから、とりたて神ではないわけで、そういうことで、法王と言えどもトランプ大統領の戦争を批判くらいはするけれど、

 

  ーー 私が人の盾になってあげよう

 

といってイランに出向するわけではないから、イエスの継承としては単なる出世した普通の人である。イランは神様も違うし、命をかけるほどの価値は彼にはないのだろう。ややこしいし、イランの政権は悪だとイラン人も言っているとかで、なにを信じればいいのかわからんから、よく検討いたします、なんていうとますます普通の人だ。

 

  ところで、トランプ大統領は

 

 ーーー ローマ法王はつまり、イランが核兵器を持っていいと言っているんだ

 

 というのだけれど、宗教者というものは、

 

 ーー いや、アメリカも核兵器を持ってはいけないし、どの国も核兵器を持ってはいけない

 

 という立場なはずなんだけど、ローマ法王はそんなことは言ってくれたんだろうか。それは非現実的であり、笑止千万とかいわれることになるのだろうけれど、宗教家とはそんなものであるし、気がふれたように戦争反対と叫んでいてくれよと思う。カトリックの歴史は悪にまみれてもるから、なにがどうともいえぬが。

 

 

 って書いて、ここはマイナーなサイトなので炎上とかしないでしょうが、それならお前が行け。人の盾に、っていわれても僕と法王では世間に与えるインパクトが違う。

 

  といろいろ考えていても、トランプさんはおおきな子供なのか、それとも僕らのような子供にはわからない論理が大人の世界にはあるのか、なぜこんなことで、世界が大騒ぎしているのか、トランプはあれをやらないでもよかったのか、やうべきだったのか、さっぱりわからない。こうなると、対等にものもうせる国がないというのは、なにか不健全な星になってしまったような。

 

 

 

 

ゴールデンウィーク談義をしようという連絡がO上君からあって、昨年同様 T橋さんと3人で、5/2の晩に9時から、だいたい3時半くらいまで、マイクロソフトチームスでいろんな話をした。ちなみに二人とも、大学の同級生である。

 

 フリープランだと1時間で切れるので、そのたびにつなぎ直して、延々と6時間半くらい。

 

 O上君は今年から東北大のほうで、おそらく産学連携のディレクター的なことをやっているんだという。T橋さんは一昨年に東京薬科大をやめて札幌に帰っている。T橋さんと、大学院のときに、ZELDAを見に行ったので、こないだちょうとストリートキングダムを見て懐かしがったところだった。

 

  世を徹して語り合うなんてのは、学生のころはよくやったもんだけれど、こういう年齢だと、もうだんだん厳しくなってもくる。とかいいながら、結構な時間まで語らったのであった。

 

  いろいろな話をしたので、けっこう忘れてしまうのだけれど、一つだけ、残っていることがある。最近、中国では、高齢化に対して介護の担い手としての人型ロボットの開発を急ピッチで進めている。日本はいつのまにか遅れてしまった言われている。しかし、介護をロボットがしてくれるというのは、一条の光というか、救いというか。

 

  僕が母に添い寝をしながら、すごした日々はそんなに長くなかったし、そのあと施設に入っても、ひっきりなしに誰か会いに行って、短い施設生活のあと、旅立ってしまったので、今思えばもう、過ぎ去ってしまったというしかないけれど、あのとき、これからどうなっていくんだろうという恐ろしさと、何も知らなさで、たぶんストレスフルな日々を僕は過ごしていた。

 

 「たぶん」というのは、ストレスフルではあれど、それは最期に母を愛した貴重な日々でもあり、母に、生んでくれてよかったよ、という、「らしくもない」言葉を僕が言えてしまった日々でもあった。

  

  あれは、心底そう思ったので僕はそう言った。それは僕が大金持ちになったからでも、超有名になったからでもなく(そんなもんに両方ともになれなかったわけで)、それでもこういう人生を生きたこと自体に感謝したのであった。あんまり大した業績もないけれども科学の徒として生き、キリスト教徒として生んでもらったおかげで、日本人が忌み嫌う宗教というものを、それから科学というものを、ずっと掘り下げて生きて来た。そのことが苦しくもあり、涙ぐましくもあり、そういうふうにしか生きれない人間として生んでもらったことを、僕は、

 

  -- よかったよ

 

 と言ったものだ。つまりそういう単純ではない「よかった」がそこにはある。誰とも比べることができない変な感じの「よかった」がある。それはしかし、認知症が進んでいく母から、「まあうれしいこと言うよ」という言葉を引き出した。それは、僕が心底それでよかったと思っているからである。こういうふうにしか生きれなった僕のこういう人生を母が与えれくれたってこと。さて、GW談義にもどる。

 

 僕は、こう言ったと思う。

 

   ------  あんまり長生きをしたくない。迷惑かかるらね。

 

  けれども、ロボットは介護してくれるというのなら、また違ってくる。たしかに、昔は飛脚がメールをマラソンして運んだのだ。今はパソコンでメールを打てば、ほとんど瞬間で外国にも届いてしまう。ロボットが介護っていうのも、あたりまえになるかもしれぬ。

 

   それでも、僕は長生きにあんまり興味がなかった。キリストが死んだ34歳くらいで、ちょうどノストラダムスの大予言があたってみんなで死ねないかなと、僕は少年のころ思っていたと思うし、もっと後になっても仕事しながら、定年くらいに、退職金もらったら、金を家族に渡して、とっとと消えたいとか、どこかそういう願望もあった。これを言うと妻が必ず嘆きますが、いや、金もかせいでこなくなった爺さんなんて、とっとと消えるのが美学では、と思ってしまうのである。そういう考えをする人間は、自分がじいさんのくせに、じいさんが嫌いだったりするかな、とかちょっと思ったりもしながら。

 

 O上は言った。

 

  ーーーー失踪すればいんじゃない?

 

  失踪はまた家族に迷惑かかるなあ。たとえば富士の樹海に失踪してやるとか。夜になったら怖いだろうなとか、そんなこを急に思って、沈黙したら彼は言った。

 

   ーーできないでしょ?

 

 そう、できない。俺はたぶん、生きていたい。ってことだ。生きれる命が与えられているうちは、結局生きることに感謝して、できるだけ、内奥の指示する道にむかって、やはりいきていたい。やっぱり生きよう。残念ながら、もう爺さんになってしまったけれど、しかたがない。まだ命がある。そしてまだ短いか長いかしらないが、時間が僕には与えられてしまっている。

 

 

   ひさしぶりにこの言葉を書こう。

 

  風立ちぬ、いざ生きめやも

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 たぶん1987年だったと思う。僕は医科学修士の学生だった。T橋君に誘われて、ゼルダのコンサートに、T橋君の車にのっけてもらって、はるばる筑波から、たしか浦和のホールに行った。

  道が混んでいて、途中トラックの側面にぶつけてしまって、おっさんに怒られたのだが、単にT橋君の車の側面に傷がついたのみで、事故の手続とかなんとかやっている場合ではなく(いんだろうか?)、おっさんに(おっさんというよりは黒メガネの兄ちゃんだった)すみませーんと叫んで終わりにして、先を急いだ。

  ホールはそんな大き目ではなく、しかしいわゆるオールスタンディングではない普通の席があった。チケットはちゃんと、席指定で買いそこに座ってゼルダを待つ。

  しばらくして主催者側かここのホールの人かなんかわからん、今から思えばわりと若い男性が出てきて言ったものだ。。

 

  ーーみなさんも、コンサートよく行ってるからわかってとおもいますが 、演奏中席を立ったりさわいだりしないでください、危険です。めいわくかかります。

 

  しかし、暗転して、ゼルダが出てきて、カウントとともに爆奏しはじめたら、もう終わりだった。席順のチケットは意味をなさなかった。はじまりとともに、一目散で全員、席をけっとばして、ゼルダの正面になだれこんだ、そして、ストリートキングダム↓の演奏シーンのように、みんな頭をふって飛びはねている。これをやるために来たんだよバカ、と瞬間トランス状態だ。僕は慣れてないので、最初ひいたんですが、やがてT橋君が、前に行こうぜもうと言い、前に出てった、いわゆるゼルダかぶりつき。

 

  1987くらいになると、ゼルダもう10年目にさしかかってくるくりまで演りこんでいたから、ストリートキングダムの中で、ヘタウマに吉岡里帆が演っているのとはもう違って進化をとげていて、演奏は上手い、ファッションもあか抜けている。ちゃんと美人になっている。歌う高橋佐代子は、映画ストリーロキングダムでは中学生です、って言っていたあの人であるが、僕は同い年なので、あの日1987だと、ちゃんと美人のボーカリストに進化していて、なぜかドラムのスティックを両手にもって、煽動するように歌う。ドラマーがそのちょっと前に変ったとかで、リズムがしっかりして、もはやアバンギャルドなヘタウマ路線から、ちょっとクロスオーバーイレブンでかけてもいいくらいになっている。

 

  しばらく、トランス状態でのりのりのコンサートが続いたが、冒頭に出て来た若い大人の人が、ストップをかけて、演奏は止まってしまう。彼は袖から出て来て言ったものだ。。。

 

  ーーー ちょっとみなさん。さっき言いましたよね。席を立たないでください。さあもどってもどって!!

 

 シーーーーーーン。。。

 

 高橋佐代子が言う

 

  ーー ええええええ? みんなで出てきておどってちゃだめなんですかああ? そんな殴らりあいとか、破壊とかしないしい。。

 

  大人の人たちはもめはじめる。どうしますこれ。とにかく、ストップがかかってしまったんで、いくらかの客は席にすごすごともどる。それで、シラーっとしながらも、どうにか演奏再開。そんでもって、だんだん時間がたつと、また盛り上がってくるし、それに、そもそも席にもどらなかったやつらがけっこういて、やっぱり前で頭をふって飛んでいる。アシュラがはじまると、もはやもとどおりの混乱状態で、さきほどの若い大人(わかいおとなは、ついこないだまでこっち側の人間だったんだぜとかなんとか思わせてくれるのであったけれども)のお説教はどこかに風の吹かれて消滅していった。

 

  というゼルダさんのライブであった、なつかし。。

 

  映画ストリートキングダムのメッセージはというと、やっぱり、カメラマン ユーイチが、薬で崩壊してしまったモモをゆすりながら、泣きながら、

 

 --- ちゃんとやれよ!!

 

  というところです。ユーイチのモデルはこの作品の原作者である地引雄一であって、1949生まれ。ゼルダのボーカルやら僕らよりも、だいぶ上で、ロバートフリップのような人よりも、まだちょい若い。だからパンクに魅かれたという、映画の冒頭のストーリーがよかった。学生運動をやって、終わったらしっかりみんな髪を切って就職して、そんなもん若気の至りでしたといって、社会に迎合していってしまう。遊びでやってたんかいなというように。地引はその流れについてゆけない。自分とはなんだ。なにをやりたいんだ。

 

  地方の農村で農作業を手伝いながら写真家としてやっていこうにも、なかなか現実は甘くもない。一体俺は、という毎日に、決定的な日がやってくる。ラジオをから流れる、Sex pistolsである。これだ、と彼の中でなにかが爆発する。パンクだ。日本のどこかに、このロンドンのパンクムーブメントに共鳴して、パンクロックムーブメンツがおきているはずだ。

 

  ああ、この流れは、なんと求道的なんだろう、ちゃんと求め続けた地引は、ついに見つける。日本のパンクムーブメンツ。トカゲ、軋轢。なぜかミニコミ誌を書いてそのムーブメンツのまわりで生息している女性。この女性は、後にゼルダを結成した小嶋さちほをモデルとしている(吉岡里帆が演じている)。趣味でコピーバンドしてますというのとは違う、メッセージとか、新しさとか、なんかわからない、なんかをやってやらねば気の済まないエネルギーのうずまいた、ムーブメンツ。プログレッシブロックが、マーケットの中で売れる音楽になってしまって久しく、それらのバンドの人たちも30代となって、もともとの彼等が作り出したメッセージのリアリティがなぜかなくなっていく時、やはり若者は、まだ始まってない人生の混沌の中で、結論を与えられることを避け、自分たち自身でなにかをやってみようという実験を開始しなくてはならなかった。そして70年代の終わりに産声を上げるパンクは、やっぱり若者にしかできない、おとなになってしまうと必然的にできなくなってしまう、危うい衝動の持つ美したに満ちていた。それは楽器がロバートフリップのように弾けなくても、なんかそのままがなっているだけで、若いからキレイという特権のようなものでもあり、大衆運動とか、伝統的な修行的な仏教から、易行、だれでも念仏を唱えれば救われますと言うライブを熱狂的に迎えた鎌倉時代の日本人の感じと、どこか似ているようにも思える。瞬間的には。

 

  しかしながら、そのつっぱしるエネルギーの根本は危うく、実家で母に頼っているモモ、メンバーと印税の件でもめるモモ、やがては薬の依存で逮捕されるモモ。ダメ人間としての、モモがスクリーンで描き出される。ユーイチはラリッタままゼルダの録音のスタジオにきたモモに、

 

 ーーー ちゃんとやれよ

 

と泣いて懇願する。俺のもとめたパンクを、つぶさないでくれ。ちゃんとやらないとできないんだよ。

 

  こうして、ちゃんとやらなきゃできないパンクという、奇妙な矛盾に満ちたそれでいでまっとうなこの映画の手段にいたりつくわけだった。

 

  僕らがみた1897のゼルダは、そうしてちゃんとやった人達が、ちゃんと演奏できるロックスターに進化をとげたあとのゼルダで、しかし、根底にある、小島さちほと高橋佐代子のもっていた文学少女的なスタンスは、ロックのバンド、という形だけをもとめていたわけではなかった、ということを証明するかのように、今 現在、ちゃんと生存している彼女らの活動は、ロックからは離れて、スポリチュアル系とかナチュラル系のジャンルの音楽活動、精神世界活動にシフトしていっているみたいだな。それもそれで、魅力的な進化だと思えた。若者は命が強いから、自分たちのできてしまうものに対する恐怖であるかのように、文学の装いでおののきながらメッセージを込めて歌い始める。やがて、幾年もの経験と道のけわしさ優しさとともに、死んでいかねばならないという共通の運命を背負った人間として、どういうふうでありたいかということを、目指すもの。それは宗教かもしれないけれど、おしつけではない、道を、みな探っていく。生きているかぎり。