ずっと考えてた。 葬式が人間にとっていらないのかいるのか?

 

  父が帰天した1983年から、38年もたち、たしかに父は生前にこう言ったのを思い出した。

 

   ”人間は死んでしまうけれど、キリスト教だと死なないから、あの世に行ってもみんな仲良く友達でいましょうよ、ということなんじゃよ”

 

 じゃよ、という言葉づかいをしたと思う。 聞いた僕は、なまいきな少年時代だったもので、何をレベルの低いことを言っているのだ、このおっさんはと考えた。

 

   今となって、あれほどの真理はない、という言葉に思える。父が亡くなった年齢が54だったので(昭和四年生まれという計算になる)、あの言葉を言った父は50になるかならないかくらいだった。今の僕より若い人が、そういうことを言ったのだ。そんな若い人が言うことだから、完成度が低くてもしようがない。その分粗削りなとこがあるけれど、あのとき、ようやく青年に達そうとして大人のようなことが話して聞けるようになった僕に、その後あんまり長く生きれないという運命をわかっていたかのように、その人生かけて得た数少ない言葉を 父は遺してくれた。

 

 つまりこういうことだ。 人間は哀しい。そして孤独だ。だから友達と出会い、仲良くしたらいい。そのために宗教もあったらいい。みんなに親切にしたらいい。愛することを学べばいい。人生かけて。そして最後の日がきたら、神のもとに帰ればいい。

 

 そういうシンプルなことを言っていたのだ。

 

  前の記事に、一つの罰当たり発言として 葬式はいらないと書いてみた。 

  葬式などしてもらうことも、することもできない貧困や悲惨がこの地上にあるから、そんな金もちしか幸せになれないようなものは、ないほうがいい、と思った。 それは本当に思う。けれど、僕が死ねば僕の葬式というものは、僕のものではない。誰か看取る人がいれば、その人のためのものだ。

 

  僕は、喪主を一つだけしたことがある。僕は父が死んだとき未成年だったので、母が喪主となり父の葬儀が行われた。その後、干支が一つ回った後、30歳の僕が、今度は妻の葬式の喪主をした。その時葬式はいらない、と露ほども思わなかった。大学病院からまだ暖かい遺体を筑波の教会に運び込んで、告解の部屋に寝せてもらい、その横で寝て、次の日に棺桶がとどいて遺体がそちらに寝かされた。あのときに、葬式をするために教会の人々がいろんなことをしてくれて、支えられて、生き抜いて、今生きて、ある。

 

  そういう日々を思い出すと、葬式があのときできたことが、やはり神の導きで奇跡だったと思えてしまう。僕はもう教会にも長く行っていないし、あのときも教会で葬式をしてもらうために、熱心に通っていたわけでもなかったのに、結果的にそうなった。もしも、あんなたくさんの人が集ってくれた葬式を、あの人にしてあげれなかったら、僕はその後、もっと苦しんだのではないか、というふうに、今、思えた。生きれなかったかもしれぬ。

 

 一つのサレンダーとして、あの日、葬式を、あの人のためではなく、僕のために、僕が生きるために、行ったのかもしれない。 1995年、一番寒いころの葬式だった。26年もたった。まだ僕は生きている。先に去った父と、妻の墓が新宮にあり、墓石の裏に名前が刻んである。

 

神を信じているから葬式なんかいらない。

 

世界のいろいろなろところで、葬式などしてもらえないで亡くなる人はたくさんいる。それは例えば身寄りもなかったから、その人が死んでも誰もなにも知らないような死だった。

 

それは例えば誘拐されて戦士にされた子供の爆弾テロでの死だった。 ナントカ師から、君は悪いアメリカ人をこらしめるために爆弾を抱いて走っていくんだよ神の子よ、かならず天国にいけるよと教えられ、祈ってもらって、その悪い師のかわりに破裂した誰も拾うこともない肉片だ。

 

最近、あまり聞かないけれど、以前に、家族が亡くなったのに、誰にも知らせずミイラ化したその人といっしょに住んでました、なぜといって葬式する金がないからと、いうニュースがいくつもあった。葬式の金を払えない。相談する人もいない。 孤立の無縁社会とミイラ。 

 

葬式しなかったから地獄にいくのか。うかばれないのか。成仏できないのか。無縁社会で友達いなくて誰にも知られず孤独死だから、成仏できないのか。金をもってて、坊さんにお布施わたして、葬儀屋さんに棺桶準備してもらって、ちゃんとやったから成仏できて、金なかったら だめだったのか。だいたい成仏てなんだ。仏になりたいのか。仏って何だ。 

 

そういうことがあると僕はもう葬式なんか無きゃいいと思う。

 

他人からどう思われるかという基準でする葬式の金が払えないからミイラになり、あなたは成仏できない。 坊さんにだまされている。そういう坊さんはいないほうが、いい。葬式なんかいらん。

 

どういう死にかたをしようが、坊さんが枕経しようがしまいが、名前がわからまいが、遺骨が出て来まいが、成仏だかなんだかしらんが、そんなもんどうでもよかったはずではないか、科学を信じている罰当たりの現代人なら。なぜ人生最後の日に、急に仏か?

 

日本の葬式は世界で一番費用が高いとも聞く。他人との比較で幸福や不幸になる文化ゆえの見栄のビジネスに群がって不幸な人から金をとる。

 

というようなことで僕自身は葬式なんていっこもしてほしくない。

 

 

一方、葬式は生きている側の人が納得するためのものだともいう。100%そうだと思う。

だから、母が亡くなれば、キリスト教徒としてのきっちりした葬式をしてやりたいと思う。誰のため?僕のため。

100%僕のため。 僕を生んで、そして僕が馬鹿なので、ずいぶんと苦労ばかりかけた人が

その苦労を終えて去ってしまって もう会えないという厳しい悲劇に 僕が向き合うため

そういう自分勝手な僕の思いを完結させるための形としての区切り。ずっとその人の不在を

背負わねばならないことの痛みへの贖罪。 

 

それでも、そういうことをしてあげる金がないからといって亡くなって何年も黙っていたミイラ事件が、たしかに日本という国にあったし、おそらく今もあるんだろう。辛すぎる。

 

だから僕自身の葬式は、そういう無数の無葬の死というものからなにか差別するような、自分だけが得するようなことが

そこが罪な感じがして、その贖罪として何もしたくない。人前式ですらやりたくない。

衛生の法律にしたがって焼いた骨は (いろいと調べるとややこしいらしい)一番簡単で安い方法で

処分してほしい。そういう遺言を正式に時期がきたら

したためておきたい。遺言できる人がいるという状況は一つのぜいたくなのかもしれぬとも

思うが。 

 

 だいぶ前に無縁社会というNHKかなにかの特集もあった

 人のつながり。それを求めていくことの豊かさと残酷さ(つながりたくともつながれないという人もありえる)。

 神がいて、宇宙と、いのちと、この時間を与えたなら、一番みじめな人生を与えられた終わりがきても 神が見捨て給うわけはないと思う

 たとえ葬式ができなくても。神がいてくれるなら葬式などいらない。

 

神を信じているから葬式なんかいらない。 

 

 

 

 

 

 地球の影のほうが月よりも大きいので、日食に比べれば月食が皆既になることは、ずっと多い。だから、その陰と陰でないところの間にちょうどすれすれで入って今回のようになるのが逆に珍しいのだ。

 

 ということで、こういう感じになるのは次は2086年だという。確実に死んでいる。

 

 

  月食はとても好きだ。3歳くらいのときに、なぜか今夜はみんなで月を見るというので、隣の先生夫婦の家の縁側で、うちの一家(教師の一家)も合流して、じっと見ていた。熊野本宮 下湯川の2戸並んだ教員住宅である。月がだんだん欠けていき、赤く暗くなって、またもどってくるまで見ていた。ゆっくり流れる時間だった。

 

 その印象のせいで、僕はけっこう大きくなるまで、月は毎日満ち欠けするのだと思っていた。それが28日もかけたゆっくりしたプロセスだということを理解してなかった。今から考えれば馬鹿である。あれは特別な夜だったのに、そのことを知らなかった。

 

  親の庇護のもとの幸せな時間。結婚して数年の父母もまた、幸せな時間を過ごしていたのだ。全体明るい。そして高度成長の日本。毎年生活が便利になっていく、自然にかこまれた小さな教員住宅の生活。昭和の文学のようだ。真空管のラジオからトランジスタラジオに変えて、真空管の白黒テレビが、カラーに代わって。

 

  次の皆既は来年また11月だが8日なので、すこしは暖かいかもしれない。

 

  

 

 

 グルジェフという人を高校生のとき知った。キングクリムゾンというロックバンドのリーダー、ロバートフリップが傾倒していたのがその発端だった。

 

 グルジェフの思想の集大成と言われた”ベルゼバブの孫への話”はまだ出版されていなかったが、高弟といわれたP.D.ウスペンスキーの”奇蹟を求めて”は既に出版されていた。

 

  大学にAOで入学が決まって、長めの春休みに入った。入試が終わったら読もうと決めていた、その分厚い”奇蹟を求めて”を買い求めた。そこに書かれた奇妙な”化学”に度肝を抜かれた。有機化学のように炭素や酸素や水素が出てくる。音楽のオクターブや、周波数が出てくる。量子力学がまだ始まってないのに、元素と波動が関連づけられている。自己想起、否定的な感情を表現しない努力、ストイックなようなドライなような、美しいような。極めつけは、人間に存在する”性センター”というものが、水素12という、化学で習う水素と同じ名前だが全然違うものによって動き、その力を多くの人間が誤用するので、気違いじみたことが多数起きているという。それは戦争であり、狂気であり、事件であっり、残酷である。

 

 それはキリスト教徒の自分に、即物的で、また魔術的で、触れてはいけない罰当たりだった。そして漫画チックでもあった。けれども、グルジェフは、奇妙な思想の持ち主でありながら、弟子たちを連れて革命の戦場ロシアからフランスに亡命し、生活の糧を稼ぎ出す超人的な生活力の持ち主としても語られる。

 

 グルジェフという男の生きる力のような部分が、魅力的に見えた。罰当たりついでに言えばグルジェフはセクシーであった。前述のグルジェフの信奉者ロバートフリップはというと、60年代から70年代に少年としてデビューした数あるロックミュージシャンの中で、80年代MTV時代を成功裏に走り抜けた一人として輝やかしいだけではなく、さすがにグルジェフの思想を実践してきただけのことはあり、今年も来日する御年75歳にして現役キングクリムゾンのリーダーであり、演奏のクオリティを絶対下げてこない神のような人物である。

 

  グルジェフの集大成、”ベルゼバブの孫への話”の翻訳が出版されたとき、僕は大阪の製薬会社を退職し、人生をやりなおすことにしたころだった。実は学生のときにも、英語版をとりよせて読破した。つらい読書ではありながら、印象的な読書でもあった。ウスペンスキーが”奇蹟をもとめて”で描き出したグルジェフとは違う、生き生きしたグルジェフがいた。

 

  僕は、2021年の今、”ベルゼバブ”を読み直している。

 

――― 「すべてを愛し、それがゆえに長い苦しみの中にある永遠の創造主」は「悲しみの粒子」を放射している

――― この「悲しみの粒子」が人間の中に集まるとき、”良心”という衝動が生まれる

――― 悲しみを持つ人は、「創造主の代理人」となる。

――― 宇宙に存在する精神を持つ生物”人間”は皆、神聖な衝動「良心」を生み出す結晶の種を持つ。

――― だから、すべて人間が生きていることは苦しみであり、またそうでなくてはならない

 

  27章に書かれている。長い人生を経て、グルジェフが言っていたことが本当としか思えない私になっている。高校卒業からもう40年たった。フリップはまだ生きていてギターを弾いている。僕は職を転々とした若者時代を過ぎて、青年が終わるころ、いまの研究所の職にありついて、ずっと科学(っぽい)の仕事をしてきた。

 

 人生は多くの悲しみを経験させてくれた。それらの意味を総括しないまま、今度はわが身の老いが迫る。その前に、老いた親の姿をみながら、別れを悲しむ経験の残酷が、もうリアルに今進んでいく。釈迦は一切皆苦と言った。

 

 高校の少林寺拳法の部活で、顧問の先生があるとき話してくれた言葉を僕は、そのときまで学んでいたつもりのいろんな知識を超える厳粛な真理としてうけとった。先生は言った。。

 

――― 少林寺拳法な宗門の行です。それはお釈迦様が、人間はいったい何なんだということをほんとうに深く苦しみ悩まれて、究極の真理をみつけたことからはじまるのです。その見つけた真理とは何かというと

 

    ”人間とは苦しみだ”というこです。。

 

 神父さんなら、神がいるからどんなときも喜んでいなさい(パウロの書簡 Ⅰテサロニケ5:16)という。あのとき、いつもとてもやさしい顧問の先生は、人間とは苦しみだと言った。その言葉に真理の響きを直観した。同時に大きな癒しを僕は受け取った。僕は死にたくなるほどに、苦しんでいる子供だったからであり、何故か理由を理らぬが、僕は苦しみたい、あるいは悲しみたい子どもだったからであった。

 

 40年の年月を経て読んでいるベルゼバブがやはり、この宇宙に住む心を持つものは、みな苦しんでいると、語りかけて来たときに、それは絶望であるように見えながら、究極の答えと本当の癒しが、その奥底にあるかもしれないという手がかりにも思えてならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

なんとなく、誤解を招く文章だったかなと思ったので、蛇足的補足を..

 

 

 ワクチン賛成派であり、マスク賛成派です。大前提として。

 

 僕がワクチン賛成派だといったら、職場のある人が

 

   —---へえ 意外!

 

 と言った。彼は、長年のつきあいの人であるが、僕が精神世界系だと知っているので、そういうあやしげな人物はみんなワクチン反対派なのだと思ったらしく、また彼自身は打たないつもりと言っていた。

 

  打たないんだ。へえ。

 

の世界である。実はこの職場で何人か身近に打たない派の人がいて、みんな副作用が怖いとかいうのだけど、僕自身はほとんどなんとなくの感じで、あんまり心配してないもんだから、かまわんさと打ってみた(エイやと)。ファイザーのはmRNAだ、mRNAはDNAとちがって安定性がないので、役割終われば代謝される。生産物は、スパイクタンパクだ。それも死んでいるようなもんだから、そのうち免疫細胞に食われてなくなってしまう。という理屈を鵜呑みに信じた。別にいい。ばたっと死ぬなら死のう。半殺しになったら嫌だけど、ひどすぎたらやっぱりなんとかして死のう。というほど考えぬいたわけではないが、究極そうだ。人類が滅ぶことがそんなに嫌かというとそれほどでもない。神を信じているので、またなんとかしてくれるだろう、という希望+半分どうでもいいというニヒル。

 

  マスクについてですが。

 

  昨年コロナが流行りだしたころ、まだみんなマスクしてないころに、職場のでっかい実験ホールというところを歩いていたら、向こうのほうから、マスクに身をかためた人物が近づいてきて、おじぎした。桐ちゃんだった。マスクしてたのでわからんかった。桐ちゃんは、もと同僚であったが期限付き研究員の期限がきてここを去って東海村に数年いて、ふたたび今度は原研の安全管理の技術者としてもどってきた。桐ちゃんは東海にいる間に2児の父になったが、その超絶美形の結婚相手を紹介したのは僕である。

 

―――――― なんでマスクなんかしてんだい。やっぱ安全管理の責任者だから率先ですか? マスクって、かかってる人が感染(うつ)さない効果のものですよ。

 

と僕は言った。すると桐ちゃんこういった。

 

―――― いやこれは。自分がもうすでにコロナに感染していると仮定して、それを他人にうつさないために、するらしいですよ。

 

 なんだそりゃ。マスク一つするのにそんな複雑な思考過程が必要なのか? とそのとき思ったものだが、今となってはその言葉どおり、

 

”自分がもう感染しているのだとデフォルトで疑ったうえで、人にうつさないために みんなマスクする”

 

というエチケットになったのであり、マスクしてない人の口からはきっとコロナウィルスがどばどば発射されているんだよ、という風に感じられるようになってしまった昨今なのである。 

 

 桐ちゃんが率先したように、マスクは他人のため。エチケットとしてするように、日本人は、出かける前には忘れずにマスクするのです。そういうエチケットが一般化したのであったよこの21世紀に。やるひとはこれまでもやってたのだろうけど。マスクって、僕は風邪ひいてるんで今日体育休みますとかと表明しているみたいでほんとはいやなんですが。しかし、とにかく僕は今は賛成派である。おかげでほんとかどうかしらんけど、2021/10末現代の日本のコロナはけっこう収まっている。

 

  これはいつまで続くのでしょうね。まったく。

 

 

 

 マスクをつけてないのはパンツを履いてないようなものだ。もはやマスクをつけ忘れて外に出ると、なんか変な感じがするという無意識の条件反射ができてしまった。

 

今時点2021/10の終わりごろで毎日4万の感染者を出しているイギリス人はしかしマスクしない人がとても多いという。

 

 

 上の記事では、日本人は他者の目を気にするからマスクするのだという。たしかに、誰かが そこらへんでマスクしないで嬉しそうに談笑しながら歩いていると、なんか嫌なかんじがする。マスク非着用に対する日本人的ヒンシュク感が、いつしか出来上がっている。変なことすると村八分という風習は、狭い国土で田畑を耕して共同生活してきた日本人の生存戦略だったのだろう。他人(ひと)様の目という基準を生きることは、窮屈さと安全を同時にもたらす。窮屈で安心。それが日本人なら、僕はまぎれもない日本人だ、と痛切に思う。それでいて、ほんとの自分って何?などと探求している。矛盾だ。

  

―――― アメリカから帰りたくないと今年のノーベル賞の真鍋先生が言う。

 

 人のために自分が窮屈でも耐えようという、優しさを遺伝子に組みこんできたのだ。そこが変だよ日本人と言われながら。赤信号みんなで渡れば怖くない(ビートタケシさんとキヨシさん)、というギャグも昔あった。

 

 長いこと、外出は必ずマスクという生活をした結果、僕の感覚の中から、マスクの特別感は抜け落ちてしまった。今日誰かに会い、その人が「マスクしてなかった」か、「していた」かと問われても、「覚えてない」と答えるしかない。視覚からいつしかマスクが抜け落ちている。マスクを認識しなくなっている。

 

 以前は誰かがマスクしていると、風邪ひいてるのか、花粉症なのか、過敏症なのか、神経質なのか、とその人の健康や心理状態のメッセージとして見ていた。 今は マスクしてることが普通にしか見えなくなってしまった。

 

 人間はパンツを履いているのが当然なのであって、風にあおられたスカートがめくれてノーパンが出てきたら度肝を抜くように、誰かがマスクをしないで歩いて来たら少しだけ度肝を抜き、そしてその人の口の周りからコロナウィルスが放射されいるように見えてくる。

 

 世界が逆さまに見える眼鏡をかけて一定期間生活をさせたところ、その人はいつしかその眼鏡をかけたままで普通の生活ができるようになったという実験がある。脳のシナプスの再結合なのか、情報処理の修正なのか、とにかく、その人は違和感なく生活をし、やがて実験が終わって今度は眼鏡を外したとき、その裸眼で世界が逆さまに見えてしまうという驚きを経験し、普通に生活できるまで再び日数を要したという。

 

 マスクをしている生活が長く続いたので、マスク社会に不思議がなくなってしまった。イギリス人はその不自然にがまんならないのだろう。日本人は最初は村八分が怖くてマスクしていても、そのうち世界はマスクしている人で構成されていなければ変であるという情報処理に順応してしまったのだ。

 

  そして今後未来永劫、コロナ社会が続いてしまった場合に、未来の日本人はもう、生まれたらパンツのようにマスクをするのであり、一定の年齢になって口を裸で見せて歩いていたら、ものすごいものに見えてしまうのかもしれない。

 

 

 いい歳になってしまったので、なりたい自分などという言葉は空しい響きに感じてしまう。なにしろなりたい自分になる時間がもう無い。

 

 若者はなぜパワフルなのか。春が来るたびに若芽をふく樹木を見れば一目瞭然で、あれはホルモンなのだ。植物は春が来るびに若者にもどって花を咲かす。

 

 秋に桜が咲いているのをみたことがある。一度冷え込んでから暖かい日々が続いたからか?桜は毎日の気温を足していってその値が一定の値を超すと開花する。気温を毎日蓄えていって、十分あったかい日々を経験した体になると、彼らはフロリゲンというホルモンを体中に行きわたらす。

 

 開花ホルモン。若者には花を咲かせるホルモンがある。そして僕にはもうない。しかし、なりたい自分を描くことくらいはできる。そしてそれはもはや、なりたかった自分でしかない。

 

 24歳、大学院の修士論文も提出し、就職も決まり、いつ筑波を去って郷里の紀州新宮にもどろうかなと、気楽なそして学生時代最後の春休みを送っていた。新宮に帰って、しばらくしたら今度は就職先の大阪の製薬会社に出発する。そういう時期だった。

 

 最後の春休み、音楽仲間だった数人と、アパートの自室をスタジオにして、曲つくりをした。音漏れのどひんしゅくで毎日、面白い曲が仕上がっていくのが果てしなく楽しかった。

 

 

  キーボードを弾いてくれた彼女は、今は農工大の教授になっている(昆虫の専門なのだ)。この人が、就職して筑波を去る僕のために、得意のタロットで将来を占ってくれた。なぜかタロット占いが得意で、とてもよく当たるという。(いわゆる不思議チャンだ。)

 

  言われるがままに、カードをシャッフルしたり並べたりした。結果のカードが出そろうと、将来国立の教授となる不思議チャンは言った。

 

――― ううむ。。。気を悪くしないでほしいのだけれど。。。。 まあこれは あそびだからね。ははは。

 

  恐るべき将来が待っていた。 彼女は言った。

 

――― このカード、賢者ね。そしてこれは 逆さ男(だったかな)。そしてこれ、法王。そしてこれ(忘れたが、なんか暗いやつ)。つまり。こう。

 

 "あなたは、何か叡智のようなものを求めている。だから、そういうものがあると思えるところに行くでしょう。けれども、そこには叡智は見つからず、がっかりして、また他のところに叡智を求めていくでしょう。けれども、そこにも叡智は見つからないでしょう。”

 

   彼女はそう言い、そして彼女の中でそれは恐ろしく悲劇の人生に見えたらしく、とても申し訳ないといった感じで話した。(やさしい人であった)。

 

  予言はずっと当たりっぱなしで、最初に就職して製薬会社の研究所には自分がもとめる叡智が無い(無いことなかったんだよほんとは)と思えた僕は、そこを数年後にやめて、やはり物理学だな、と考えてそういう勉強を独学しながら、筑波にもどって小さな電子回路の会社に入れてもらって働きし、いろんなことがあって、今 播磨の山中の研究所にいて、やはり、叡智はここに無いんだわ。という思いにとらわれている。日本を代表する先端科学の研究所にいて、叡智が無い。いやつまり俺自身に叡智が無いのである。たいした業績を上げれなかった。

 

  自身が叡智な者でない限り、どこに行っても叡智はなかった。 叡智とは、外にあるものではなかった。外の誰かよりもカシコイという証拠を求めて、そこを差別化として叡智の極みの外的な物証とする刃物のような格闘は孤独という終結点への一本道でしかなかった。つまりそれは実は何も無いことにすぎなかった。それでも、そういうことで頂点に登り詰めたような人が、実際のところ周りにたくさんいる。そんな神の恵みは僕にはなかったから、つまりは”求不得苦”をずっと感じながら生きてきた、という結果だけ残った。

 

    さがしものは何ですか? 見つけにくいものですか? (井上陽水 夢の中へ)

 

  依然、ぐるぐる回っている人生である。そして、叡智の幻を、いまだに捨てきれない変な老人になってしまいつつある。 叡智とはなんだろう。ソクラテスは無知の知と言った。季節が廻ればホルモンによってサクラが開花するのが叡智ならば、僕の中にはもともと叡智がめぐってここまで生きてきた。そんなことに驚きもできないほど、叡智が曇っている。この驚きが、神秘のように奇妙な感動で感じられたら、僕にとっての叡智の探求はもう完了したと言ってもいいのかもしれない。

 

--- 神の国は見える形で来るのではない。 ここにある、そこにある、とも言えない。神の国は実はあなたたちの中にあるのだ。

 ルカ 福音 17:20

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  たくさんコオロギが鳴いている。そういう季節である。コウロギは 美しく鳴くので ルックス的にゴキブリと似ているの(全然似てないよ。いまだかつて 似ていると言ったおじさんの感覚は 本音を言うとわからんです)に愛される と僕は 少し前の記事に書いたのだった。

 

  庭の隅にレンガがいくつかおいてある。車を置くコンクリートの上、隣との境の塀のところの下。

  そこらへんからコウロギが聞こえた。孫の手をひいて、そこにいるコウロギを見ようとと うながして

  二人でそばによる。

 

  声の主に近づいていく。 レンガに隠れて 鳴いている。 彼には こちらの姿も見えてない。無防備に鳴いている。

 

  このレンガをひとつどければいるよと言って、期待を込めてみつめる孫の無垢な顔をみる。

 

  どうれと 一つ とレンガを もちあげる。驚いて ぴょん ぴょん 逃げ去る コオロギは 一匹ではなく 数匹だ。

  声の主は 一匹だなと にらんでいたが そのレンガのラブホの壁をぶこわしてやると 数匹 あわてて 見つかってしまった秘密のやりとりの やばさに赤面しながら 大急ぎで 逃げ去っていった(ように僕が解釈したくらい人間の頭んなかは不純だ)。

 

   一匹の 鳴ける羽をもつ オスの 音声を使った メッセ―ジに、本能のよびかけに集まってきた、 鳴かない羽をもちなながらも 十二分に成熟発達した産卵する管を 露出させた 数匹のメスたち。

 

 時々、 孫を 庭につれだしては季節ごとに、 庭のレンガや 石や 植木鉢を はぐって(はぐる という方言が 僕の故郷にあった。それはメクルという意味だ)、その下にハサミムシや ダンゴムシや ほかいろいろ アリやをみつけて、 子供のころの自分がそうしたようなマニアックな昆虫観察をすると ぐずっていた孫さんの 気分が 回復するときがあるので ときどきそうやって子守りをしてあやしてきた。 だんだん大きくなってきた孫さんだが、まだそういうことを喜んでくれる。

 

  そのうち もうすぐ女の子だから”無理”って言いだすんだろうなと思い、逆にそうなってくれる日を待っている。 大人の女性にになっていくのだから。輝く美しい人生の中の時代が来るのだろうから。だいぶ先だけども。これから、僕が老いて消えていくのと 逆方向に向かって伸びていくように。

 

 レンガをはぐって 飛び去っていった コオロギは、歌声に酔いしれた女たちに 自分の命を注入しなくてはならない、どうしようもない生命の指令のままに、歌ったのだった。 

 

 これから寒くなって 秋深くなって、ライバルも やるだけの ことはやって、どんどん死に絶えて、歌声がだんだん減って、さびしくなって 最後には沈黙の冬が来るまでに、 産卵が終わらねばならない。 そういう 厳しすぎる 季節の坂道を 彼らの 頭脳は言葉で 語って恐れたり うろたえたりしないけれど、 いまを精一杯 鳴いて いるのだなと思う。 歌うことは戦いのようなものだった。

 

 歌声は 人間のためではなくて 雌のため、 いのちを 与えるための 必死のシャウトである。シャウトとして秋を彩る風流な音声を自然は彼らに与えた。

 

 レンガをはぐると いっせいに逃げだ姿に、 どことなく 見てはいけないものを見た感もあって、歌声は 美しいという よりエロスをともなう生命の残酷みたいなもんも感じるのです。そういう僕の感じがいかれているのかもしれんけど、 どっか中上健次の故郷新宮の熊野の 荒ぶる魂の 土着の強さを したたかさを ともなう 神秘というようなものと つながっている。

 

 そういう 自然の中の 営みは 今 播磨にいても同じように 同じ 生物の本能に仕組まれた意識の(ように見えるもの)の中に

行われている。 つまり 僕も彼らも同じ いのちを生きているし、すこし悲しいこの感じも 神が与えた 真実であることに間違いはない。

 

 

進撃の巨人の原作はもう完結してしまったのだけれど、アニメのほうは年明けからやるらしい。僕はマンガを読むのが不得意になってしまったので、たぶん年明けたら、あれの続きをテレビで見るのであろうなと思う。

 

 

ふと、前シーズンのOPを見たら、これはすごいことになってたなと思った。

 

 やたらと爆発し、やたらと北朝鮮の軍事パレードのような行進が映像化され、完全にイッテしまった

国の狂気と、それによってで引き起こされる暴力が、見事な数分間に凝縮されている。

 

  そのカタルシス(なせかカタルシス)を見ていると、ひょっとして人間はこれを望んでいるのではないかという、恐ろしい考えにとらわれる。

  全部壊してしまえば、競争もなにもない平等に死ねる、という地獄ユートピアに対する願望がそこにはある。僕はその感じが実感として痛切にわかる。その感じは、幼少のころにすでに芽生えたと思う。僕は従兄たちからひどくいじめられたのだ。けれども、あとでいろいろなことを聞いた。あの従兄は、家庭環境もろもろあって、もっともっとひどいいじめを学校でうけていたのだった。そんなことを、この歳になって学ぶ。

 

 結局のところ、それはどこではじまったかわからないじめの連鎖にすぎなかったかもしれない。

 

 僕はキリスト教徒だった、ということが忽然として6歳になって判明する。生まれたその子を、両親は本宮からわざわざバスでその当時遠かった新宮まで熊野川沿いを下って洗礼を受けさせたのだ。その赤子に。そして6歳になる年に、僕は両親に連れられて新宮に引越しし、そこでカトリックの幼稚園に入り、ばかばかしいほどのいじめにあい、孤独なたったひとりの半年をすごして小学校に入る。

 

 というような感じで、ずっとそのまんま今にいたった僕は、もちろん、長い年月でいい出会いとか悪い出会いとかを経て、なにかの意味をこの人生の時間に見出せなくもないな、とも思う。けれども、いや、なにもなくてもよかったんじゃないか、という気持ちも、やはりずっとある。神が居るならば、神はこの世界に残酷をあまりにもゆるしすぎた。 そうも思う。

 

 宗教が、教える神の慈愛にとびこんでいく幸せと、しかして残酷な戦争や事件をこの世界にありえることとして

ゆるした神の残酷のはざまで、結局どっちを信じますかという選択にいて生きている。

 

  この歳になると、もう鬼籍に入った知り合いも増えてくる。僕はまだ生きている。なにか重要な決着をつけねばならない。

  もうそこまで 死ということは 来ている。 僕、というもの。湯川流河という名の私。それが早晩終わる。まだなにも学んでない気がする。

 

 

  

  1992年8月に中上健次が亡くなったときだったか、その一周忌だったか、故郷の新宮市で、盛大なパレードのようなものがあったと、母が言っていたような気がするのだけれど、これを読んでいる新宮の人がひょっとしていたら、どんなだったかわかるだろうか。とはいえ、もう30年も前のことだ。

 

  中上健次のことは、新宮人ならだれでも知っていた。”枯れ木灘”とか”岬”という本がうちにも買ってあった。僕が中学生になったくらいのころに芥川賞をとったと思う。母が”岬”を読んだ感想を話してくれたが、

 

―――この人は、生い立ちが複雑で、そのことについて いろいろ書いとる

 

と言った。 僕の父は複雑な生い立ちだったが、僕自身ははいっこも複雑ではない家の子供だった。それは複雑な自分の哀しみを子には負わせたくない父の決意だったか、平凡な平和を、僕は甘受して大きくしてもらえた。好きなことは、休みの日の工作、卓球部、少林寺拳法を習っている、兄弟は4人、キリスト教徒、中上健次が書いた世界とは、自分は遠いと思えた。興味がもてず、ずっと、実家にある”岬””枯れ木灘”を手にとっても、それを読んでみようという気になれなかった。

 

  故郷熊野の新宮市は、熊野学が盛んで、ちょっと前に遺跡が見つかったとかで、そこは”神秘”の印象をどんどん深めている。新宮は、勝浦のようにマグロが上がるでもなし、太地のようにクジラがいるでもなし、なにやらわからない産業構造の狭い町である。それでいながら、急峻な階段のを駆け上ったところにある神倉神社にはゴトビキ岩という巨石があり、そこに上って松明をつけて駆け降りる勇壮な祭りが、いつのころからか全国的に知る人ぞ知るものになり、芸能人が上りに来るという。 新宮には、中上健次の書いたような”路地”の雰囲気が、なんとなく全体的な感じとして、ほんとうある、と思う。だいぶ前に親しくしていた故郷の教会の信者さんであった人に、新宮はいちばん羽振りがいいのは土建屋やで、と聞いた(その人も土建屋だった)と聞いた。熊野川を筏流しで下った材木が集積し、全国そして江戸に材木が売られていくことで潤った歴史がある。今は外材に押されてダメだ、と子供のころに聞いた。それでも潤ってきた歴史のまんま商業だけ盛んな形がのこされてきたので、新宮は商業の街と小学校で教えてもらい、そして、クラスの名簿の親の職業欄が本当に、店をやっている人が多かった。

 

  そういう故郷、そして、本宮の田舎からできてきた教師の子供の僕にとって違和感のような、はげしくいじめっ子にやられた思い出の新宮、その暴力性とか、不良性を もろ描いたような おっかない 本、なのではないか、と思って、どうにも興味がもてなかった。というのが正直なところである。 

 

  この一週間、その”岬”、”枯れ木灘”を続けて読んで、中上健次が、「」のセリフの中に書き込んだ新宮弁が、うまいことあの独特のイントネーションを文字に書き表せていることにまず感動する。 この感じ、この不良な感じの言葉を、新宮の人は使う。それは中上が路地とよんだ地域だけではなく、みんなが使うの方言なので、全体新宮はキツイ感じがする。読み進めるのがすこししんどい複雑な血縁で、僕が手にした全集には、表紙裏に系図が書いてあったので助けになった。系図なしでこれは、読むことはできない。それくらい複雑で、出てくる人がみな血がつながっている。肉体労働で鍛えられた主人公秋幸、彼はそのまんま中上健次の生い立ちをコピーした人物であり、またほかの登場人物も、名前だけ違うけれど、ほぼ全員存在し、書かれた当時実在していた人たちだ。しかもあの閉鎖性ゆえに、書かれた人たちは、自分たちのことだとはっきりわかる空間にいたわけで、よくこんな地域と一族の暴露本のようなものを書き表して世に問うたもんだと、その当時の大騒ぎがなんとなくわかる気もする。それはきっと  大騒ぎでもあり、また面白がりでもあり、もしかすると中上さんの、どこか血縁を愛しながら、その生い立ち故の憎しみとか哀しみゆえに発した 復讐というか、故郷にいどんだ戦いのようなものでもあったのではないかと思う。

 

  とりあえず、僕は、すこし中上さんにはまってしまった。新宮は神秘で、不良で、エロスで、悪の魅力みたいなものが充満している。それは一つの面として真実で、おかげさまで、東京から一人流れてきて、南紀のいろんな中学校を渡った教師だった父などは、晩年のころの勤め先の新宮の学校でひどい目にあいながら、短い生涯を終えた。あの人には、中上さんが描く、あの新宮の根強いエロスと暴力の血を受けた新宮人を相手に教師するのは不可能だったと思う。 山形の農民が新宿で八百屋を開いたある一家(そこも中上さんに負けず劣らず複雑な血縁であった)の複雑な事情の青年が東京で酒で失敗した(らしい)ために、全然知らない身寄りもない南紀で先生をし、若くして死んだ。その息子が僕である。

 

  そういう血縁の不思議というか、生物の遺伝子にこめられた、たんなる情報以上の呪いのようなものが、中上さんにもあれど、僕にもあって、それがいまとなって、こういう年齢になって、救い難く刻み込まれているもんだから、やっとすこし読んでみて、あじわってみようかなという気になった。

 

  実は昨日 9.11が父の命日だった。もう40年もたとうとしている。 墓碑には

 

  最後まで残るの 信仰 希望 愛です

 

 と母が刻んだ。父は55で亡くなり、母はそのとき48歳だった。中上さんが書いたいろんな苦労をした人たちと同様に、本宮に落ち延びた湯川氏の子孫でもあった母もあの”地域”に住み、あの地域のエネルギーの中で、苦労し、いまでもなんとか健在で、コロナになってから会いに行けなくてつらいが、いっしょに住んでくれている妹から、墓参りの写メがとどいた。

 

  ここに昭和58年に亡くなった父と、平成7年に亡くなった妻が眠っている。母は、すでに名前を刻んであって、ここに入れてくれ、というスタンバイを、20年くらい前にはしたのだけど、幸いその日はまだ来てなくて、刻んだ文字だけどんどん古くなっていく。海辺にある僕の実家の墓には先祖代々という概念がなく、こじんまりと、キリスト教徒として生きたということだけの墓であり、それで十分だというような感じがして、僕は故郷に帰る毎 墓参りするときに、この地域のエネルギーが好きなような 違和感なような 妙な感覚につつまれて、手をあわす。