たぶん1987年だったと思う。僕は医科学修士の学生だった。T橋君に誘われて、ゼルダのコンサートに、T橋君の車にのっけてもらって、はるばる筑波から、たしか浦和のホールに行った。
道が混んでいて、途中トラックの側面にぶつけてしまって、おっさんに怒られたのだが、単にT橋君の車の側面に傷がついたのみで、事故の手続とかなんとかやっている場合ではなく(いんだろうか?)、おっさんに(おっさんというよりは黒メガネの兄ちゃんだった)すみませーんと叫んで終わりにして、先を急いだ。
ホールはそんな大き目ではなく、しかしいわゆるオールスタンディングではない普通の席があった。チケットはちゃんと、席指定で買いそこに座ってゼルダを待つ。
しばらくして主催者側かここのホールの人かなんかわからん、今から思えばわりと若い男性が出てきて言ったものだ。。
ーーみなさんも、コンサートよく行ってるからわかってとおもいますが 、演奏中席を立ったりさわいだりしないでください、危険です。めいわくかかります。
しかし、暗転して、ゼルダが出てきて、カウントとともに爆奏しはじめたら、もう終わりだった。席順のチケットは意味をなさなかった。はじまりとともに、一目散で全員、席をけっとばして、ゼルダの正面になだれこんだ、そして、ストリートキングダム↓の演奏シーンのように、みんな頭をふって飛びはねている。これをやるために来たんだよバカ、と瞬間トランス状態だ。僕は慣れてないので、最初ひいたんですが、やがてT橋君が、前に行こうぜもうと言い、前に出てった、いわゆるゼルダかぶりつき。
1987くらいになると、ゼルダもう10年目にさしかかってくるくりまで演りこんでいたから、ストリートキングダムの中で、ヘタウマに吉岡里帆が演っているのとはもう違って進化をとげていて、演奏は上手い、ファッションもあか抜けている。ちゃんと美人になっている。歌う高橋佐代子は、映画ストリーロキングダムでは中学生です、って言っていたあの人であるが、僕は同い年なので、あの日1987だと、ちゃんと美人のボーカリストに進化していて、なぜかドラムのスティックを両手にもって、煽動するように歌う。ドラマーがそのちょっと前に変ったとかで、リズムがしっかりして、もはやアバンギャルドなヘタウマ路線から、ちょっとクロスオーバーイレブンでかけてもいいくらいになっている。
しばらく、トランス状態でのりのりのコンサートが続いたが、冒頭に出て来た若い大人の人が、ストップをかけて、演奏は止まってしまう。彼は袖から出て来て言ったものだ。。。
ーーー ちょっとみなさん。さっき言いましたよね。席を立たないでください。さあもどってもどって!!
シーーーーーーン。。。
高橋佐代子が言う
ーー ええええええ? みんなで出てきておどってちゃだめなんですかああ? そんな殴らりあいとか、破壊とかしないしい。。
大人の人たちはもめはじめる。どうしますこれ。とにかく、ストップがかかってしまったんで、いくらかの客は席にすごすごともどる。それで、シラーっとしながらも、どうにか演奏再開。そんでもって、だんだん時間がたつと、また盛り上がってくるし、それに、そもそも席にもどらなかったやつらがけっこういて、やっぱり前で頭をふって飛んでいる。アシュラがはじまると、もはやもとどおりの混乱状態で、さきほどの若い大人(わかいおとなは、ついこないだまでこっち側の人間だったんだぜとかなんとか思わせてくれるのであったけれども)のお説教はどこかに風の吹かれて消滅していった。
というゼルダさんのライブであった、なつかし。。
映画ストリートキングダムのメッセージはというと、やっぱり、カメラマン ユーイチが、薬で崩壊してしまったモモをゆすりながら、泣きながら、
--- ちゃんとやれよ!!
というところです。ユーイチのモデルはこの作品の原作者である地引雄一であって、1949生まれ。ゼルダのボーカルやら僕らよりも、だいぶ上で、ロバートフリップのような人よりも、まだちょい若い。だからパンクに魅かれたという、映画の冒頭のストーリーがよかった。学生運動をやって、終わったらしっかりみんな髪を切って就職して、そんなもん若気の至りでしたといって、社会に迎合していってしまう。遊びでやってたんかいなというように。地引はその流れについてゆけない。自分とはなんだ。なにをやりたいんだ。
地方の農村で農作業を手伝いながら写真家としてやっていこうにも、なかなか現実は甘くもない。一体俺は、という毎日に、決定的な日がやってくる。ラジオをから流れる、Sex pistolsである。これだ、と彼の中でなにかが爆発する。パンクだ。日本のどこかに、このロンドンのパンクムーブメントに共鳴して、パンクロックムーブメンツがおきているはずだ。
ああ、この流れは、なんと求道的なんだろう、ちゃんと求め続けた地引は、ついに見つける。日本のパンクムーブメンツ。トカゲ、軋轢。なぜかミニコミ誌を書いてそのムーブメンツのまわりで生息している女性。この女性は、後にゼルダを結成した小嶋さちほをモデルとしている(吉岡里帆が演じている)。趣味でコピーバンドしてますというのとは違う、メッセージとか、新しさとか、なんかわからない、なんかをやってやらねば気の済まないエネルギーのうずまいた、ムーブメンツ。プログレッシブロックが、マーケットの中で売れる音楽になってしまって久しく、それらのバンドの人たちも30代となって、もともとの彼等が作り出したメッセージのリアリティがなぜかなくなっていく時、やはり若者は、まだ始まってない人生の混沌の中で、結論を与えられることを避け、自分たち自身でなにかをやってみようという実験を開始しなくてはならなかった。そして70年代の終わりに産声を上げるパンクは、やっぱり若者にしかできない、おとなになってしまうと必然的にできなくなってしまう、危うい衝動の持つ美したに満ちていた。それは楽器がロバートフリップのように弾けなくても、なんかそのままがなっているだけで、若いからキレイという特権のようなものでもあり、大衆運動とか、伝統的な修行的な仏教から、易行、だれでも念仏を唱えれば救われますと言うライブを熱狂的に迎えた鎌倉時代の日本人の感じと、どこか似ているようにも思える。瞬間的には。
しかしながら、そのつっぱしるエネルギーの根本は危うく、実家で母に頼っているモモ、メンバーと印税の件でもめるモモ、やがては薬の依存で逮捕されるモモ。ダメ人間としての、モモがスクリーンで描き出される。ユーイチはラリッタままゼルダの録音のスタジオにきたモモに、
ーーー ちゃんとやれよ
と泣いて懇願する。俺のもとめたパンクを、つぶさないでくれ。ちゃんとやらないとできないんだよ。
こうして、ちゃんとやらなきゃできないパンクという、奇妙な矛盾に満ちたそれでいでまっとうなこの映画の手段にいたりつくわけだった。
僕らがみた1897のゼルダは、そうしてちゃんとやった人達が、ちゃんと演奏できるロックスターに進化をとげたあとのゼルダで、しかし、根底にある、小島さちほと高橋佐代子のもっていた文学少女的なスタンスは、ロックのバンド、という形だけをもとめていたわけではなかった、ということを証明するかのように、今 現在、ちゃんと生存している彼女らの活動は、ロックからは離れて、スポリチュアル系とかナチュラル系のジャンルの音楽活動、精神世界活動にシフトしていっているみたいだな。それもそれで、魅力的な進化だと思えた。若者は命が強いから、自分たちのできてしまうものに対する恐怖であるかのように、文学の装いでおののきながらメッセージを込めて歌い始める。やがて、幾年もの経験と道のけわしさ優しさとともに、死んでいかねばならないという共通の運命を背負った人間として、どういうふうでありたいかということを、目指すもの。それは宗教かもしれないけれど、おしつけではない、道を、みな探っていく。生きているかぎり。