葬儀を終えて 10日たった。

 

これでよかった。今朝そう思えた。相続のこともあって、母につかった金の領収書などまとめていたら、昨年つれてきてから、栗原病院に何度もつれていったことを思い出した。あそこに訪問看護ステーションの事務所もあってケアマネがいて。寒くなってきたころ風邪ひいて咳がとまらないので葛根湯が処方され。

 

  車いすにのせて、公園を散歩した。ひ孫と風呂にはいった。ひ孫を風呂にはいれたことに感動している母。ひまごに再会できた喜びの顔を写真にとったとき、写りがいいので、遺影に使えると思った。そのとおりになった。みな美しいいい写真だという。

 

  介護施設を無数に訪問して話をきいたこと。栗原にレスパイト入院をさせたときに、面会時間が制限されていてとてもつらかったこと。なんといってもしかし、新宮から朝2時半に起こして、こちらに連れてくる長い運転。命がけのような運転。

 

  プレザンメゾンに何十回ももしかしたら百回以上かも、面会にいった10か月。たぶん百回以上だと思う。甥姪とこんなに話をしたことがなかったこと。母のことで兄弟とまたつながったこと。泊まり込んでの看取りの何日間。いろんなこと。母のために体力をくたくたになるまで使うこと。一番心配していた葬式が、神がしてくれたように、一番願っていたような形でできたこと。三人もの愛情ふかき神父がしてくれたこと。お通夜が明かるかったこと。母の呼吸が止まるまでをしっかりと見届けたこと。

 

  精一杯ということ。僕が結局、こうしたかったということをした。こちらにひきとって、よかった。

 

  母にもう一度 僕は時間をもらったと思う。

  風立ちぬの言葉が またぴったりした

 

   ーーーー 風立ちぬ、いざ生きめやも。という詩句が、それきりずっと忘れていたのに、又ひょっくりと私達に蘇よみがえってきたほどの、――云わば人生に先立った、人生そのものよりかもっと生き生きと、もっと切ないまでに愉たのしい日々であった。   堀辰雄 風立ちぬ

 

 

 

 

 

 

 

 

 仕事に復帰した 泊まり込み看取りのために休み、看取り、喪主をし、神父さんを新宮まで送り、三連休あけてからもいくらか手続きをし、昨日出て来た。職場に訃報メールが流されていて、香典とか参列は辞退と言ってあるけれども、何人かの人はなにか悔やみの言葉を言いに来てくれたり、香典やお供えをもってきてくれた。

 

  この世界はしかし、休み前と異なる新しい世界、”肉体をもって生きている母”のいない世界となった。僕は生まれから一度も母のいない世界を経験したことがなかった。(考えてみれば物心ついたたと同時に母がいない世界を生きる人もいるのだ。)僕は母の愛とかを、普通に受けて育ち、いつしか年老いて僕を頼りにすることになった母の最期を看取った。

 

 夢のように思えた。母が呼吸を止めたとき、僕は手を握っていただろうか。記憶がない。しかし目のまえでちゃんと最後の命の消えるとこを見届けたのはたしかなのだ。

 

 ホルヘ神父との出会い、田中神父(ヒロト君)との再会、くたくたになって駆け付けてくれた老カレン神父。

 こうして、僕は家族を見送るたびに、何か奇跡のような出会いがあって、キリスト教の神父さんたちにお世話になりつづけている。

 

 葬儀も終わり、親族もそれぞれの日常にもどり、僕は自宅の床の間(ちっくなところが一応ある)にキリスト教的仏壇(どういえばいいのか、そういうものがある)と遺影、マリア様の像を置き、たくさんの花を妻が美しく並べた。ここは母が昨年寝泊まりして暮らした部屋だ。この部屋に、昨年の盆の前に母を呼んで暮らさせ、デイサービスに通わせ、11月半ば、あまり寒くならないうちにと言って新設の綺麗で豪華(見学してきたなかでは)な施設に入ってもらった。

 

 介護する側として、自宅での介護に不安を感じてきたときは、施設を考えたほうがいいと言う話をいろいろ聞いていた。そういうふうになりつつあった。だから母に正直に施設に入ってくださいと言ったものだ。

 

  ---  ええよ。入るよ。

 

と答えたものだ。緒形拳の楢山節考のような会話であった。(楢山節考のように、そこで死ぬという覚悟を決めた、ええよ、はいるよ。)。

 

  ーーどんなとこでもええ、

 

 と母は言った。

 

  ーーーどんなとこでも、ご飯食べさせてくれて、生きっとらせてくれたらええ

 

と言った。それは思い出すだけで哀しい言葉すぎて、だからどんなとこでもええわけがなかった。僕はおそらく20 箇所くらいもの施設の見学をした。どこに入れば幸せなのだろう。最大プライオリティは面会の自由だった。コロナ以降介護施設は面会させてくれない。こちらにつれてきた理由は故郷の施設はほぼ面会不可だったからだ。僕は、まったく制限なしのところを探しまわった。施設探しは難航を極め、結局、新設のそれなりの高価な施設に入ってもらった。スタッフも明るく、きれいなところで、新設だから人間関係が作りやすいと言われて、それを信じた。wifiが使え、面会完全フリーだった。入居後何度も何度も面会に行ったので、施設に人から、なんて優しい息子さんと言われたが、それは故郷から連れ去って来て最期をむかえさせようとしているしかなかった罪滅ぼしとしての息子さんなのである。いつまで時間が残されているのかわからない。僕は暇があったら会いに行った。

 

  今年に入って7月からこっち、寝た切りになるまで、半年以上の間、ここで母は、名古屋からよく面会にくる妹、仙台から面会にくる弟、千葉から面会にくる姉、それにもう大人になって仕事している孫が全部で5人、さらに曾孫、そんなものたちが入れ替わり立ち代わり母に面会し、看取りになると最後の一週間は全員が姫路のどこかのホテルに滞在して、かわりばんこで付き添った。そういうことを職場の同僚に言ったら、仲良いい親戚ですねとかいうのだけれど、そんなこと考えたこともなく、ただ、そうなった。母が彼らを愛したからだと思う。

 

 プレザンメゾンから最後のおたよりが昨日、届いた。毎月、利用者の様子を写真つきで家族に知らせてくれるやつだが、退去したあとでも最後のが届いた。最後のおたよりは、母の元気なときの写真などが沢山貼ってあり、

 

  ーー 職員のことを、いたわって気にかけてくれました

 

とも書かれていた。そういう人だったらしく、なにか介護士さんにしたもらうたびに、もうしわけありませんねえ こんなことしてもらって と言っていた。

 

 あとでいろんな人から話をきく。僕の母は、たくさんの人を大切にして生きて来た、ということがわかる。綺麗な人やったとか上品やったとか、僕がまったくそうは思ったことがなかったようなことを言ってくれる方がけっこういた。マリア様の歌、あめのきさき で送り出した母は、ほんとうにマリア様のようで、洗礼名もマリアだった。送り出してしまって、遺影をながめていると、綺麗な人やったり上品やったりすることが、当たっていたように思えてきた。


  

 

  

 

 

湯灌の専門の女性が二人来て、なにかモックンの”おくりびと”みたいに、丁寧に、母の遺体を隠しながら洗ってくれたりしている間、こころなしか母の顔が気持ちいいと言っているように見えた。

 

  メークがほどこされると、やっぱりモックンの映画みたいに、20年くらい若返った美しき母が、そこに眠っていた。

 

  前の晩、甥姪に兄弟が施設施錠の時間がきて去ったあと、泊まり込みは妹と私でついていた。昼間のうちに、看護師長が、おわかれの時間を大切にするように言った。だから昼間は甥姪に子供らが、母を囲んでずっと声をかけながらついていた。看護師長さんが、やっぱりみんながいうように、「聞こえてますから」と言ったからだ。夕方ホルヘ神父がきて、祈った。御聖体の小さなかけらを唇のわきにつけた。僕と姉と弟と妹と妹の息子がいっしょに聖体拝領した。

 

 --- キリストの体

 --  アーメン

 

 ホルヘ神父が言った。

 

  ーーー マリア様の歌なにか歌える?

 

 パソコンに”あめのきさき”が入れてあった。鳴らして、みんなで歌った。母がまるで意識が起きたように目をみひらいて、あたりのみんなを見ながら、アヴェマリアとともに歌おうと努力していることがわかった。口を開こうと努力してる。 妻が感動している。

 

  その晩に、母の呼吸がとまった。医師が呼ばれた。診断をもらった。大和会館に電話し、自宅への搬送を手配した。プレザンメゾンの夜勤スタッフに見送られ、僕の家に母が帰ってきた。すぐに大和の職員がきて深夜までうちあわせた。

 

  すでにホルヘ神父に母が亡くなったことは伝えた。

  あわただしく、葬儀の準備をした。ホルヘ神父が、田中ヒロト神父を呼んでくれた。ヒロトくんが将来神父になる前の子供のころから、母は知っている。そして、故郷の教会から、母のことをずっといつくしんでくれたカレン神父が、老体にむちうって、車を運転して通夜の晩にきてくれた。カレン神父は、昨年の夏に、母をこちらに引き取る決心をしたときに最後に会いに来てくれて、僕と母のために祈りをしてくれた。そして母が新宮にいて、病んでいたときも見舞いにきてくれた。その神父が、やはりまた、母の最期に遠い道のりを、ナビをたよりに、しかもナビが言う名古屋回りというおそろしく遠回りな道を信じて、疲れ果てて、夜に大和会館(というセレモニーホール)にたどりついた。

 

 

  車から出てきたカレン神父は、足がおぼつかないが、なんとか立って歩いてくる。妹が神父様と叫んで、走り寄り、大柄な白熊か本物のサンタクローズのようなカレン神父が抱き留めた。僕が近寄ると、その兄妹を両サイドにだきかかえて、祝福した。

 

  カレン神父は通夜の席に来て、母の棺に対面したあと、遅い食事をした。

 

  告別式に、三人の神父がそろった。一人は、飾磨の教会のホルヘ神父であり、何度も母を見舞い、看取り、納棺の祈りをささげ、最初の出会いから、私たちは兄弟ですと言ってくれた。もう一人は、河内長野から田中神父であり、彼が子供のころから母は彼を知り、また彼の家族にもずいぶんとお世話になった若き神父様であり、奇跡のようにホルヘ神父の神学校の後輩なのだった。それに田中さんのお父さんは、実家を建て直してくれた三和建設の担当の人だった。そしてもう一人は故郷の新宮からいつくしみふかきカレン神父様。カレン神父は、この葬儀ミサのお礼をわたそうとしたとき、「私の愛している人のためにきただけ」と言って受け取らなかった。(清貧の誓いをたて、家族を持つことのないカトリックの神父さんはしかし受け取ったとして教会に献金する)。

 

 大和会館の人が見たことないと驚くほど、立派な儀式用の品々を田中神父がたくさんもってきたので、もしかしたら教会でするよりも見事な式になっていた。歌は、親族一同がカトリックというわけではなく、みなが歌えないと思って、三つ、youtube premiumから流して、歌詞カードを配った。ホルヘ神父は、昨晩を徹して母の顔写真までついた式次第を作ってきてくれた。式次第には僕が選んだ三つの聖歌を歌うタイミングもちゃんと書かれてあった。

 

 

 

 

 

  花をたくさん棺にいれてもらい、美しく化粧されて若返った母は、子供たち孫たち曾孫たち、そして私の妻とその家族、こころから母のことを大切にしてくれた三人の神父さんに見送られた。  

 

 

昨夜、二日連続で母について施設に泊まった

 

昼間になると、また甥や姪、姉に妹、弟、それに息子に孫、妻が集まって来た

看護師さんが(施設の往診医は日が決まっているので、ここは本当にこの頼りがいのあるベテランの看護師さんが、

実質的にお爺さんお婆さんを守り抜いている)、今朝の様子を見てもう、時間がないことを教えてくれた

 

ホルヘ神父を呼んだ

今日は日曜主日、かけもち三つの教会のミサのちょうど間の時間にかけつけてくれた

 

聖書と典礼の3つの朗読を、僕と息子が読み、神父さんは

今日の福音の、イエスの奇跡のことを話した

 

そして、天使祝詞を5回祈ったあと

マリア様の聖歌をなにか歌えますか? と言った。

 

僕は、ノートPCにYoutube premiumでダウンロードしてあった

 

 

あめのきさき天の門

うみの星と輝きます

アヴェ アヴェ アヴェマリア

アヴェ アヴェ アヴェマリア

 

をかけ、みなで歌った。

 

  母が急に、目をはっきり開き、口をあけて、いっしょに歌おうとしていることがわかり

  妻が感動している。

 

百合の花と気高くも 

咲き出でにし清きまりあ

アヴェ アヴェ アヴェマリア
アヴェ アヴェ アヴェマリア

 

 聞こえています。と看護師さんが言ったとおり、本当に聞こえている。

 

 

 

僕は姪たちの叔父で甥の伯父である。と書き下して、僕のなかで伯父と叔父の定義がクリアになる。ネットでググって確認したうえで書いたので、これで間違いない。

 

  妹と妹の息子、姉と姉の娘3人、弟。はるばる千葉に東京に神奈川に名古屋に仙台から、休みもとって、おばあちゃんに会いにきた。先週も来ていた。このいとこたちが、なにかすこぶる仲良しで、もう社会人だから、歳もアラサーになってきている。社会の中核を担うような年齢にさしかかるこの子ら。

 

  僕は兄弟の中で、一人だけ疎遠にして勝手に生きていたので(だからなぞのおじさんと言われていた。甥や姪が会ったことがないおじさん。)、母が嘆いたものだが、こうして、母が自分の生命をつかって、なんとか親戚を集めて、かかわらせてくれる。長男らしくない長男として僕は、そういう長男の定義を無視して生きてしまった。そのぶん、昔の日本の長男のような高圧はしないけれど、そういう責任のようなものから、逃走していたいという無理な願望を持ってきたのは確かであって、けれどもそういうのも母が元気な間の幻だということを、いつのころからか、たぶんもう10年以上まえから、わかり始めていた。

 

  昨夜は、かけつけた甥に妹は宿がなくて、たつのの私の家に泊まり、孫といっしょにポケモンゲームでもりあがったらしい。妻はよく、彼らのためにもてなしというか、気をつかってくれた。僕は施設に泊まった。

 

  さっき夕方ホルヘ神父に電話した。母の様子を伝えた。兄弟や甥姪がきているから会わせたいといった。甥と僕の息子はカトリックの幼時洗礼を受けている。ホルヘ神父さんは、母のことも、しかし僕のことも気にかけてくれる。

 

  疎遠だったこれらの親類と、母を囲みながら、どこかでだんだんとなじんでいくのを感じていた。母が、そういうふうに強く望んでいた。そのとおりの夢を、母は夢の世界に眠りながら実現していく。

 

  みながさっきホテルに帰った。僕が残ってまたここに泊まる。母と話す。僕が独白するだけの会話だけれど、聞こえていますと看護師さんが確信をもって言うから。

 

   ーーーーおかあちゃん あの子ら 仲ええね

 

 そう言ってみて、僕自身がもう、世代をゆずりつつある人間になっていっているのも感じる。あの子らが仲良く、ほうぼうから集まってきて、祖母を囲んで、なぜか楽しく(重苦しさよりも、みなで囲めば心が助け合っているのか、あるいは若さゆえのパワーの生命のゆえか)、すごしていってくれること。ただ、寝たっきりのおばあさんの顔をさすったり、腕をさすったりして、ときどき好きなことをしゃべって過ごしている。

 

  そんなものを見ていて、そうだよ、そういう幸せもある。母の顔は安らいでいる。昨日あたりから目をしっかり見開いていという時間よりも、まどろんでいたり瞑目している時間は増えているけれど。母はこの歳なのに、美しい前歯(これは知らんまに、昔の昭和のかっこわるい金歯をおしゃれなインプラントに母が変えてもらっている。まったくいつの間に、といってこの囲む人たちが、笑う)を見せて寝ているので、なにか恍惚に幸せにも見えている。本当に幸せかもしてない。

 

  

 

 

姉が次女をつれて千葉から、弟が仙台から 母に会いに来た。

LINEでずっと様子を知らせてあった。もう近いとわかっているので。妹が昨日からきて施設に泊まった。

 

夕方、彼らとともに施設を出てスタッフにまかせてくる

 

言葉を話さない母なのに、その横向けにねかされている視線と目が合うとき

顎をなぜてやっていると 独特の可愛い目でみつめてくる なにか恋人を見ているような目だ

とても88歳の老婆に見えない 施設でもスタッフからやたらと可愛いといわれていた

家でみていたときも、デイサービスの人が最初に面談にきたときに

 

 ーー あら かわいいおばあちゃん

 

と言った。母はかわいく見えるのか? デイサービスのスタッフの人は、やっぱりお婆さんばかり相手にしているので

お婆ちゃんが可愛くみえたりするのだろうか と思ったものだ

 

 ここ最近のこと、自分を生んで育てて、やせ衰えた母の視線の中に、ついに可愛いを見つけた。

 あした、あの瞳が見えなかったらどうしよう と心配になる けれどもその日は来る それもわかっている。

 はやく朝が来て、また施設に行こう。明日は午前休とする。

 

父が若きころの母と結婚することにしたときに

この目をみて、そう決めたのだということ なぜかこの人自身の年齢の最高を更新している現在という瞬間のこの

人の人生で一番老いさらばえたその顔のなかに 僕の記憶がはじまった3歳くらいの頃の、30代なりたての母よりももっと

もっと若かった母のことがわかるような気がする 人生をかたずけていこうとしている命のなかで

僕の目にうつる母はどの時代の母よりも美しくみえる

 

そんなことをやっと発見した この母が好きで この好きな母から育てられたころ そういう幸福に僕がつつまれて

子供時代をすごしてこれたこと

 

やがてその日が来ても 僕は今度はもらった愛情を まだ僕がすこし生きて行かねばならない

この身体をもつ世界の中に、すこしでも できるだけ しかし ゆっくりと還元していきたいとか

そうでなければ なにかバランスが悪いということを 思っている

世界には 母の愛を知らずに育つしかなかった 子供たちがたくさんいる

 

 僕は母を大切にできただろうか

 父が病床に死んだ日に、母が18の僕にすがり できるだけのことをしたよねと 同意をもとめて泣いた

 42年もたった。もうすぐ父の命日がくる。 

といっても瀬戸内はもう、おだやかなものだ。新宮にも、大浜に見事な虹かかかったらしい。(写真は妹が新宮の友達から送ってもらった。)

 瀬戸内に来て、そして中国山地にさしかかる光都の職場だと、雨上がりに見事な虹がよくかかった。

 けれども故郷新宮ではこんな美しいのは見たことが無かった。(新宮に僕はしかし13年しか住まなかった。本宮から5歳で出てきて、18で筑波に出た。)

 

 台風が不思議な動きをしたからなのだろうか。普通、写真に撮ってしまうよりも現物のほうが比べ物にならないくらいすごいのだ、虹というものは。だからこの大浜にかかった虹はきっと想像を絶するものだったにちがいない。

 

 まるで神でも来たかのような。美しい物理現象は、もうそれだけで神の存在を予感させる。そういう感性は圧倒的で、仕事の手を止めてしばらく、あるいは虹が消えてしまうまで、見ていたくなる。限られた時間の中の生き物のようにはかなく、それゆえに貴重な、確かにこれは生き物のようだ。生命を表現しているかのようだ。

 

  来週姫路市民会館に、横田南嶺老師が講演に来る。次の日に宝林寺に来られるとのことで、宝林寺でお会いできる予定だったのだけれども、母のこともあり、欠席と宝林寺さんに連絡しておいた。前にY君に会ったのは10年くらい前だった。もう10年たってしまった。その間に、Y君はは花園大学の総長にもなって、更に忙しいらしく、いよいよ遠くの人になってゆく。それで、今回、本当に貴重な時間となるかなと思っていたのだけれど、いたしかたない。

 

  今日は日曜で、やはり昨夜も施設で過ごした。今はホルヘ神父が網干の教会でミサをしているころの時間だ。昨夜は、夜の痰吸引問題は問題にならなく過ごせた。時間が来る。母はまだ、見えるし、聞ける。ときどきは言葉を言う。体には、まだ母が住んでいる。朝、妹にLINE通話した。足しげく、兄妹で施設にくる。姉も弟も、姪や甥や、曾孫に孫。遠くから。

 

  見つめている母の目、握り返す手。言葉で伝えてこないけれど、すべてわかっていて、すべて聞こえているという。だからいろいろ話をした。四村の教員住宅のこと。新宮に来てからのこと。生んでくれてありがというということ。Y君に会えたので、僕は神がなんなのかわかるようになった(なったと母に言葉でいう。どれだけわかったかなんて関係ない、誰とも比べない)、だからそれだけで生んでもらった意味がすべて満たされた。母がいつも僕や姉や妹や弟を命がけで守ってきたことを、僕はたくさん思い出す。もうちょっと元気でしっかりしていた昨年 たつのの自宅で介護していたときに、

 

  ーーー生んでくれれありがとう

 

と、それまで一度も言ってあげられなかった言葉を言ったら、母は、驚いたように

 

  ーーー まあよ。うれしいことを言ってくれるのう。

 

 といったものだ(笑いながら、意表をつかれたように)。今まで何度も母は神のもとに召される可能性があるときがあった。

けれども、この一番言いたかった言葉が何なのか僕が自分で気がつくまでの時間を神は与えてくれた。

   宗教のこと科学のことあらゆること。母が産んでくれて、僕という精神がたくさんの経験をした。すべて誰とも比べない僕の僕にとって宝もの、それを母が与えてくれた。

 

 

 

今日、施設に泊まった。看取りになっているので、一時間おきに介護士さんが来る。

 

夕方ホルヘ神父を呼んだ。もう一度病者塗油の秘蹟をさずけてくれた。

ロザリオを一連唱えた。

福音を読んでいたら、泣けた来たので、神父が僕の背中に手をあてた

その箇所はこういうところだったとおもう

 

   ----  私の父の家には住むところがたくさんある。もしなければあなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろう。行ってあなた方のために場所を用意したら、戻ってきてあなたがたを私のもとへ迎える (ヨハネ 14 2)

 

  神父さんは、部屋にはいってくるなりこういったのだった

 

  --- いまここに 天使が 見えないけれども たくさんいるんですよ

 

  本当にそうなのだろう。そんなことが見える人の本を読んだことがある。信じられないほど愛されているのかもしれない。人間は。一人ひとり。

 

  神父さんは、詩編をいくつか読み、そして母に、母の愛がいかに大きく、いかにたくさんのはぐくみをこの世界にもたらしたかと言い、母の手を握った。答える言葉のない母が、はっきり目を開いてみている。神父さんは、なんてやすらかな顔のお母さんなのかと言い

 

  --- お母さんが目で会話している

 

といった。神父さんは、しばらく母と目で会話していた。僕がもってきた聖書は、神父さんと同じ神学校で学んだ、田中神父が少年だったころに、僕の息子の洗礼を祝ってプレゼントしてくれたものだった。ホルヘ神父はそのことに感動していた。

 

  神父さんを見送ってから、今日は泊まることにしたので、なにか食料を買ってきて、母のベッドわきに座った。

  痰の吸引のことを心配していた。痰吸引は、看護師のいる昼間だけということになっている。
今日は昼間に何回も痰吸引したので、夜に痰吸引できないと、そのまま逝ってしまうことを覚悟して、母のベッドのそばに張り付いていた。
淡はだんだんたまってきて、呼吸困難になっても、顔が安らかなままなので、
これはこういうことなのかと思おうとしていた。

そのうち、母はあきらかに苦しがったので、妹の言ったことを思い出し、横に向けて寝かせて、口をあけてみたら、口のなかに大量の痰がたまっていた。それをティッシュでふき取ろうと格闘していたら、一番若い介護士さんが入ってきて手伝ってくれた。介護用のスポンジ歯ブラシで出してやることができることが編み出された。そのあと、それをまねて、何回かやっているうちに熟練してきたので、けっこううまく痰が出せてしまった。

 

  けれども実は熱がある。座薬をいれた。誤嚥性肺炎がおきているのだろうという。今は坐薬がきいてか、眠っている。今宵はどういう夜になるのだろうか。台風が来ている。

  

 

 

 10年以上前に、読書のやりかたを変えた。そのとき、こう思った。僕は、あんまり大した人生を生きないであろうから、経験の量がなにしろしょぼくなるだろうなあ。そうだ、それなら小説の読書でもしてみようか。リスクも金もかからん。僕はhow to本か、宗教か、科学か、ばっかり読んでいたので、そういう読んだこともきいたこともない世界を本の中でだけでももっと体験したほうがいいではないか

 

 そう思って、図書館にいって、まったく知らない作家の本を適当にとって借りて来ては次々と読んでみるということを開始した。すると、時々なかなか面白い作品と作家に会う。はまった作家の作品は続けて読んでみる。そうやって、この15年くらいに、どっさり、知らなかった世界を読んで知った。こういうことをもっとわかいうちにやっときゃよかった。。

 

 

 こないだ、これを御津の図書で借り、一気読みした。施設にいっても、母はもう寝てばかりだから、意外とこの時間は読めるということもあって。いつ終わるともつかない母の床のそばで、すやすやと寝る母の顔を見ながら、けれども、この本は極めてヘヴィーな読書となった。

 

  母も、そして僕も兄弟も、キリスト教徒で、そして母はもうすぐ逝こうとしてる。だからこの薬丸岳の新しい作品を読んで、生きるとはというようなことを考えざるを得なかった。この作品はしかし、死刑囚の教誨師をする牧師の話。設定は非常に重く、しかもこの牧師は、犯罪被害者の家族であり、その犯人の教誨師をする。不可能な設定だけれども、小説なら書けた。

 

  罪の赦し、というキリスト教のテーマを極限で描いて見せた。これはしかしフィクションではあれど、この世界には戦争で人を殺し殺されてきた経験のトラウマに苦しむ人がたくさんいる。いろんな罪(犯罪といえるものから、犯罪と問われないものもふくめ)が、やはりこの世界にはある。アダムが善悪のリンゴを食べたのが原罪というが、今にいたってしまったこの世界には、アダムの原罪が分岐進化複雑化して、そこそこに罪はあふれている。この薬丸岳の”最後の祈り”を読むと、それがありありとわかる。とても、悲しくて救われねばならない世界に僕らは住んでいる。自分がたとえ幸せでも、どこかに悲しみ、貧困、差別、戦争、パワハラ、etc それらがあるならば、僕ら自身も幸せではない、と思った。

 

  それでも信仰は、あるいは宗教が人を救うとすれば、やっぱり自分自身の内側の中心に、神に愛されているという真実を見出すことだけが、そのはじまりになるだろうという思いもまた強めた。罪を赦し、人を救うことは人間には不可能だと、福音書の中で、ユダヤ人たちが言うシーンがある。彼らは、神以外に人の罪を許せるものはいないはずだと言って、イエスを責める(マルコ 2:7)。一理あるといつも思う。イエスはある病者を癒そうとして、

  

  ーーあなたの罪は許された

 

  と言ったのだ。それをユダヤ人たちが責めた。

 

  イエスは、彼らに

 

  ---この人に立ち上って 歩け というのと 罪は許された というのと どちらか 難しいと思うのだ?

 

と言った。この問いかけを、僕が高校生のときに、ケルソ神父が、みんなにしたのを覚えていて、みないろんな意見を言った。

 

  今は僕は、この二つは同じことだということだと思う。自分を許してないなら、人生を歩けない。しかし、僕らはみな自分を許してないから、根本的には本当の人生を歩んでいない。だから、いつも深くで苦しんでいる。自分は罪人だと思うこと。神は許してないと思うこと。だから、余計に罪を犯すこと。我欲を満たして、神のことを忘れ去ろうとすること。

 

薬丸岳の本を読んで、そういう人間の罪の重さと、神の存在と、自分の位置、みたいなものを、考えさせられた。

 

強さと 優しさ

強さはなぜ必要なのか それはこの世界はあまくはないからである

 

なぜあまくはないか

けっこうみんなひどいからである

 

そんなふうに みんなにたいする ”ひどさ”の仮定を僕がもっている

世界のデフォルトは ひどさである という深くにある核心

 

もしもみんなにたいする”ひどさ”の仮定がかけらもない ぼくだったら

ひどさの核の中にもういっこ”無”があって なにも無いなら

 

強さは必要はなくて 弱くて弱くて 子羊のようであって

それでよかった

 

 

  クラーク神父が言った ”誰のことも責めることができません。なぜなら私たちはみな罪人だからです。”

 

  ---誰のことも”ひどい”と仮定することができません 私たちはみな同じだからです。

 

 

強い人が我欲を満たす  弱い人がおびえて逃げる  ふつうの世界

強い 弱い なんのことだ。なにやってんだ。ここは。善悪のりんごを食べた後のこの世界。