葬儀を終えて 10日たった。
これでよかった。今朝そう思えた。相続のこともあって、母につかった金の領収書などまとめていたら、昨年つれてきてから、栗原病院に何度もつれていったことを思い出した。あそこに訪問看護ステーションの事務所もあってケアマネがいて。寒くなってきたころ風邪ひいて咳がとまらないので葛根湯が処方され。
車いすにのせて、公園を散歩した。ひ孫と風呂にはいった。ひ孫を風呂にはいれたことに感動している母。ひまごに再会できた喜びの顔を写真にとったとき、写りがいいので、遺影に使えると思った。そのとおりになった。みな美しいいい写真だという。
介護施設を無数に訪問して話をきいたこと。栗原にレスパイト入院をさせたときに、面会時間が制限されていてとてもつらかったこと。なんといってもしかし、新宮から朝2時半に起こして、こちらに連れてくる長い運転。命がけのような運転。
プレザンメゾンに何十回ももしかしたら百回以上かも、面会にいった10か月。たぶん百回以上だと思う。甥姪とこんなに話をしたことがなかったこと。母のことで兄弟とまたつながったこと。泊まり込んでの看取りの何日間。いろんなこと。母のために体力をくたくたになるまで使うこと。一番心配していた葬式が、神がしてくれたように、一番願っていたような形でできたこと。三人もの愛情ふかき神父がしてくれたこと。お通夜が明かるかったこと。母の呼吸が止まるまでをしっかりと見届けたこと。
精一杯ということ。僕が結局、こうしたかったということをした。こちらにひきとって、よかった。
母にもう一度 僕は時間をもらったと思う。
風立ちぬの言葉が またぴったりした
ーーーー 風立ちぬ、いざ生きめやも。という詩句が、それきりずっと忘れていたのに、又ひょっくりと私達に蘇よみがえってきたほどの、――云わば人生に先立った、人生そのものよりかもっと生き生きと、もっと切ないまでに愉たのしい日々であった。 堀辰雄 風立ちぬ