13日 今日は 新宮の花火大会で、熊野川の巨大な河原で行われるこれの名物は、なんといっても、1kmある熊野川を横断してかかるナイアガラだ。ナイアガラをやる花火大会はたくさんあけれど、ここのはほかに類を見ないくらいでかい。スマホ撮りだと迫力は数パーセントも再現できない。

 

 

  今日、父が亡くなって34年、妻が亡くなって22年、はじめて兄弟と母で集まって、カトリック教会でミサをしてもらった。

 

  神父は、私が小学生のころに主任司祭の留守中のサポートで半年きていた青年ジョー神父で、その青年が老人になって、新宮の主任司祭となっている。ミサが終わって、神父と食事をし花火を見に行った。母は、子供らが集まって父のミサをすることを長年願っていたが、その機会を得ぬまま時は34年流れた。キリスト教には何回忌といった決め事はない。もはや天国に行っているのだから、と考える。神父さんもあとで食事しながらそれを言い、キリスト教のそういうところは自分はすきだと思った。

 

  特別にやってもらう短いミサは、普通は説教はないのだけれど、ジョー神父は、今日読まれた福音から、熱のこもった説教をした。今日読んだ福音は、嵐の湖の漁船で、弟子たちが難破しそうになってうろたえるというあの部分だ。イエスは水を歩いて彼らのもとにきて嵐を沈める。この話は、人生においてあらわれる、自分ではどしようもないできごとの中でも、かならずキリストの救いがあるというメッセージで、あなたがたのお父さんが亡くなった時、まだ若かった母が、これからどうやって4人の子供を育てていけばいいのかという嵐に出会い、そのあと34年の時を生き抜くなかにキリストは居たということを、神父は熱心に語ってくれた。

 

  明日 兵庫に帰る。また母を一人ここに置いていかねばなない。連れて行きたいけれど、来ない、と神父に言うと、お母さんのその気持ちわかります、と花火に向かって歩きながら言った。