みなさま、こんばんわ
さくらゆかりです。
東京湾記念船シリーズの第2回は、あの有名な「南極観測船宗谷」です
樺太犬「タロ」と「ジロ」で有名な「宗谷」
昭和54年から、お台場の船の科学館に繋留されています
ただ、本館の船の科学館の方は、建物の老朽化で閉館になってしまい
現在は「宗谷」の一般公開だけが船の科学館の展示になっています
交通アクセスは、都営交通「ゆりかもめ」の東京国際クルーズターミナル駅から徒歩…
この船は、昭和31年、戦後初 日本の南極観測船として南極に向った歴史的な船です
「しーろーがーね けーむーる なんーきょーくーのー」
当時、藤山一郎の歌う南極観測隊の歌♪が大ヒット
日本中を興奮のるつぼに巻き込んだ船です
あ、ちなみにワタシはまだ生まれていませんよー
そのプロジェクトは、NHKのプロジェクトX(今の番組でなく、初代のプロジェクトX)
第40回の放送で、くわしく紹介されました。ただ…内容をここですべて紹介すると、それだけでブログが終わってしまうので、ほんと縮めてお話しすると
日本が戦後国際社会に復帰して、昭和30年、南極観測に参加しようと、パリで開催された第3回国際地球観測年に出席します。
しかし当時は敗戦国の日本に対する世界の風当たりは強く、参加の道も閉ざされそうになりますが、戦前、あの白瀬中尉が南極の極地探検をした功績が認められて、なんとか日本は各国が共同で行う南極観測に道を開くことができます。
(日本は他国からいじわるされ、一番条件の悪い南極の上陸地点を選ばされた💦)
資金も技術力もなにもかも足りなかった日本は、観測船も機器も南極で使う運搬手段も何もなく、すべてがゼロの状態
そのとき、朝日新聞の一記者が新聞で国民に向け南極観測の意義と窮乏を訴えかけ、それがきっかけで、国民からの寄付がはじまり、多くの企業の協力・研究・開発も進みました。
その中で、当時通常の船であったにも関わらず、1億4000万円以上の寄付を集めて南極用に改造された船がこの宗谷だったのです。
改造は多大の困難が伴いました。大手の造船所が手を引く中、横浜の小さな船舶修理会社が手を挙げて、全て手作業による突貫工事が進められ、なんとか出発までに改装が完成したのでした。
この船は乗組員130人 資材400トンを積み、ヘリコプターやセスナ2機以上を搭載できる性能を備えていました。
入館料は、無料
普段は訪れる人も少なく、空いています
操舵室
さっそく船内を先へ進み、いちばん上へたどりついたのは操舵室。
航海用の計器類がたくさん配置されています。
中央に舵輪
船長室
ヘリコプター発着甲板
船の後方にあって、大型ヘリ2機 小型ヘリ2機 小型機1機を搭載できました
マスト(荷役装置)
荷物の積み下ろしをする装置
船内の通路 とっても狭かった
第2科員室
一般の船員の部屋で、ふたりの人形がくつろいでいました
科員室
士官食堂
乗組員と士官の食堂は別々でした。この食堂は船の会議室としても使われています
第5準士官寝室
この隊員は防寒着を着ています
第5士官室
士官の部屋は広いですね
第4士官室生物室
この第4士官室は南極観測時は生物室として使用されていました
通信室
計器類がたくさん
通信室居室
船員食堂
一般の船員の食堂は、資料展示室の一部になっていました
展示室
正面の小窓には実物の南極の氷が展示されてます
宗谷丸発注契約書
宗谷竣工記念絵葉書
昭和31年10月
第3次観測隊絵葉書
昭和34年
しばらく進むと、ありました タロとジロの複製
タロとジロの悲劇の物語は
第2回南極観測の時に起こりました
この年の南極は気象条件が極めて悪く、当初越冬観測の予定でしたが、断念して帰国。その際に連れて帰れない樺太犬19頭をつないでのこしたまま、隊員は帰国したのでした。
ギリギリの苦渋の決断だったとはいえ、このことに批判が殺到
しかし、次回の第3次南極観測隊が基地に到着した時、2頭の樺太犬「タロ」「ジロ」だけが生存してるのを発見 奇跡の物語として後世に残る物語となりました
調理場
第3科員寝室(乗組員室)
第4準士官寝室(観測員室)
第9科員寝室(観測隊長室)
医務室
写っているのは医師と患者のモデルです
エンジンルームを覗く…
エンジン
巨大なスクリュー 後甲板に展示されていました
船の後甲板
この絵は、漫画家クボミツロウさんの色紙
あまり大きな船ではなく、実際はごく短時間で見学が終わってしまう記念船ですが、訪れる人も少なく、入館料も無料なので、お台場近辺に時間のゆとりのある時に出かけるときは、覗かれてみてはいかがでしょうか
それでは皆さん、明日も皆さまにとって良い日でありますように~