辞めた会社は30社以上!? | 乳がん治療中でも暑苦しくてすみません。

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2017年~乳がん手術・治療を経験してひと皮むけました。
思い込みを外してもっと軽やかに自由に生きたい人のサポートをしています

今までこの人以上に
変わった人を見たことがない
そんな破天荒な父のエピソードを
書いてます。


貝塚ゆかです、こんにちは。
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前回までの記事はこちら



父は事業を失敗して
京都から群馬に逃げたわけですが



そもそも
とにかく人に使われるのが嫌いすぎて
会社を興したそうで。



だけど残念なことに、
お人好しすぎて商売に向いておらず
さらに商売に向いてない弟に会社を任せ
気づいたら借金背負って火の車
だったそうです(合掌)



ま、
お勤めができないだろうというのは
小さい頃の私が見てもわかるくらい
わたしが今まで出会った人の中で
ダントツのフリーダム(笑)



誰かに指図されるのが大嫌いで、
やりたくない指示は聞き流す(笑)
叱られたら逆ギレでやめる(笑)
ほんと、今まで見たことないような
キョーレツさです、、



そんな父も
桐生に来てすぐは
母と一緒に請け負いで
在宅でミシンの仕事をしていたので
自営業で良かったのですが


花嫁衣装が簡易化され
ミシンの仕事が徐々に減って
このままではまずい、となり


母だけミシンの仕事を引き継ぎやり
父は、慌てて勤め口を探しました。
まず、人形屋さんに就職。



愛想が良く口が上手いので
働き口はすぐ見つかるのが
すごいところ(笑)



さっそく
ぬいぐるみを営業車で
売る会社で仕事を始めました。



しかしうちの父は
真面目にそれを売る人ではありません。
自由をこよなく愛する父は
地方営業に行くと言っては
売れないぬいぐるみを積んで
地方で遊んでたようで



歩合制のため
クビにはなりませんが
給料はほぼゼロ、
いや、地方で遊んだ分マイナス、、


もちろん我が家は火の車(笑)



母はまだ
少ないミシンの仕事を
必死でやっていたかな。


携帯もない時代
遊び呆けすぎて
いつ帰るかの連絡もなくなり


大晦日に帰るという父を
夜中まで待っても帰って来ず
翌朝起きてもいなくて
忘れた頃にフラリと帰宅したという
ちょっと寂しい記憶もあるなぁ


ま、
これを書いているだけでも



ヲイ

と、特大の突っ込みを
入れたくなりますね。



なんというか
自由すぎて閉口(笑)
とりあえず、結婚とか人の親には
あまり向いてなかったのだと思います(笑)



※この後も、何十社も
会社を変わることになりますが
口が上手く調子がよいので
すぐ社員で就職出来るのが
これまたビックリ(笑)


知ってるだけで30社は就職して
すぐやめてる(笑)



そんな父の姿を見て
一番の教訓は



あれではいけない(爆)



父の遺伝子を受け継いだ私も
自由はこよなく愛してますが



真面目に働く母の姿も見てたせいか
一応社会人、10年できました(笑)
はぁ、良かった(笑)



でも、こう振り返ってみると
ほかにもフリーダムな父の影響かなと
思う部分がチラホラ。



わたし、
妙なとこにハラが据わってます。



あれだけめちゃくちゃでも
社員で雇う会社があるんだから
若い私は何とでもなる、という確信があって
不況でどしゃ降り就職といわれた時代に
就職活動をマトモにやらなかったり(笑)
※最終的にすごい縁で上場企業に入社できた



入社して配属された先が
内勤オンリーの事務職で退屈すぎ
外に出たくて営業職に目をつけ
上司に直談判して異動したり



いきなり海外に
バッグパックで一人で出かけ
英語も通じない場所に飛び込み
歓迎を受けたり



はちゃめちゃな父を見ていて
どーにかすれば、どうにかなる
と、思っていたフシがあるのかな(笑)



うん、父は私に度胸をくれたのね。




亡くなってからもかなり長い間
父のことが大嫌いだったけど
こうやってきちんと振り返ると
残してくれたものがたくさんあるって
分かったし、



お勤め出来ない人なのに
なんとかしようとして
就職してくれたんだな、


ただのちゃらんぽらんで
ダメな人だと思っていた父も
必死で頑張ったのかも、と
新しい発見があるわ。



振り返ること、
そこから学んだことに
光をあてることで
こんなにも過去の宝が
見つかるもんなのね。


振り返り、
改めて大事だなと思います。



何か嫌な思い出がある人は
改めて振り返ってみると
新しい発見があるかもしれないね。