近辺の「桜」もほとんど散ってしまった。ここ一ヶ月、ほとんど花木の花を取り上げてきたが、目を地表に向ければ、様々な春の草花も盛りを迎えていることに気づく。今日はその一つである「菫(すみれ)」を取り上げたい。
「菫」といえば、外来種の「三色菫(パンジー、ビオラ)」が、花壇を賑わしているが、道端や野辺では、やはり在来種の「菫」でないと様にならない。 以下には、その「菫」を詠んだ俳人の句をいくつか選び、解説と感想を記したい。
尚、「菫」を詠んだ自作句と概説については、昨年4月に投稿した「春季:菫」という記事にまとめているので、合わせてご覧いただきたい。
山路きてなにやらゆかし菫草
やまじきて なにやらゆかし すみれぐさ
松尾芭蕉(まつお ばしょう)
芭蕉が生きた時代の旅は、日に何キロも野道や山道を歩くのが普通だった。険しい山道を歩き心身ともに疲れ始めた頃、ふと足元に目をやった時に出会ったのが小さな「菫」。どういう訳か、その花にたまらなく心が惹かれたというのが上句の句意。「ゆかし」には、他に「慕わしい、懐かしい」「奥ゆかしい、気品がある」という意味があるが、旅人・芭蕉の孤独や疲れを、束の間ながら癒やしてくれたことだろう。
松尾芭蕉(1644年-1694年)、伊賀国(現在の三重県伊賀市)に生まれる。29歳の時、江戸に移り住み、俳諧師として活動を開始。当時流行の談林風から離れ、蕉風と呼ばれる芸術性の高い俳諧を追求する。40歳を過ぎた頃から、度々旅に出るようになり多くの紀行文を残す。中でも「奥の細道」は、旅の様子や風景、心情を美しい文章と俳句(俳諧発句)で綴った作品として広く知られている。
かたまつて薄き光の菫かな
かたまって うすきひかりの すみれかな
渡辺水巴(わたなべ すいは)
「菫」が群生して咲いている様子を写生した句で、一読して誰もが詠めるような何の変哲もない句のように思える。しかし、何度も読み返してみると簡明にして味わい深い句だと思えてくる。上五の「かたまつて」からは、小さき花たちが互いに寄り添って咲いている小景が見え、中七の「薄き光の」からは、控えめながら健気に生きる「菫」の姿が浮かんでくる。上句は、写生の中に主観的な美意識を詠みこんだ水巴ならではの句といえる。
渡辺水巴(1882年- 1946年)は、東京出身の俳人。父は近代画家の渡辺省亭で、裕福な家庭の中で悠悠自適の少年時代を送る。1899年、日本中学第三学年修業後退学。1900年、俳句で身を立てることを志し、翌年内藤鳴雪を訪れ門下生となる。終生俳句以外に職を求めなかった。大正初期の「ホトトギス」中興を支えた俳人の一人で、江戸趣味を湛え繊細で唯美的な作風が特徴。
菫程な小さき人に生れたし
すみれほどな ちいさきひとに うまれたし
夏目漱石(なつめ そうせき)
上句の作者が、夏目漱石だと初めて知った時は少々驚いた。この句は、漱石が30歳の時に詠まれたもので、大層自虐的な句に見えるが、彼は大の草花好きで、清らかで、慎ましく、俗塵に汚されない、小さな菫に理想を見出したのではないかと考えられている。皮肉にも、後に日本を代表する文豪になるが、それは必ずしも自分の理想とする生き方ではなかったようだ。結局、神経衰弱(鬱病)などの病気を患いながら小説を書き、49歳という若さで亡くなった。
夏目漱石(1867年- 1916年)は、武蔵国(現東京都)出身の小説家、英文学者。1884年、大学予備門予科に入学。1889年、俳人・正岡子規と出会う。1893年、東京帝国大学英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めた後、1900年、イギリスへ留学。帰国後は東京帝国大学講師となる。1904年、高浜虚子に勧められ『吾輩は猫である』を執筆、これが人気を博し作家としての道を歩み始めた。




