冷たい海戦 ~昭和35年の雑誌『丸』~ | 紙業新報のブログ

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先日、銀行で用事があって神保町まで歩いて行って、用事済ませたついでに古本屋のぞこうと思って、いつもどおり文華堂に立ち寄ったら、店先に積まれてました。昭和35年の雑誌『丸』。
 
200円でした。特集で戦艦大和・武蔵を特集してるんですけど、表紙がなぜか戦艦陸奥という不思議な感じ。
 
パラパラ読んでると、大和型の写真が少ないのに気づいて、よく読むと、どうも昭和35年の時点ではまだ大和型の写真は市中にそんなに出回っていなかったらしいですね。
 
阿川浩之が書いた『軍艦長門の生涯』はかなり面白かった。ただ著者が海軍が好きすぎてそこが少し押しつけがましいところもあった(笑)。陸軍に召集されてミンドロで捕虜になった大岡昇平は、基本的に軍部が嫌いだけども、海軍か陸軍かどっちか?ていえばたぶん陸式なんでしょうね。『レイテ戦記』の中で海軍のことを陸軍のときよりもかなり気持ち乗せてディスってるところがあるし(笑)大岡と阿川が戦争について対談してるの読んだことあるけど、お互いの体験や著作を褒めあってて、それはもう阿川が陸軍を褒め、大岡昇平が海軍を褒める感じでもあり、最終的には「軍部はおかしかった」というところに落ちをもっていって、なんかもう別の意味で興味深く読みました。
 
阿川の本には「陸奥長門は日本の誇り」なんてカルタが昔は売られていたと書いてある。大和とかそういう艦は存在しないことに長い間なってたから、戦時中にたとえば「無敵のくろがね武蔵大和」なんてカルタ札は作られることはなかったんでしょう。
 
戦争終わって15年だと、まだそういうのの空気感がバリバリ残ってるのが、この号の読み物からもうかがえて、
 
武蔵撃沈の瞬間を砲術士官的な立場のかたが回想して書いていて、そこには「多くの遺族の方が、自分の子息やご主人の最後にかかわる場面の様子を、一言でも多く読みたいと思っておられるだろうから、すでに多くの回想が出ているけれども、ここに私が見たものを改めて書いておきたいと思う」という感じのことを書いていて。
 
体験を文に残すことの重さは、すごく重く読みました。
 
 
大和武蔵の特集よりも、最初は広告に目が行って
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製鉄所の広告とか丸にふさわしいですね。八幡製鉄所の広告もありました。
 
長門型は、国民にも広く知られたし、世界もこの二大巨艦を脅威に感じていた。シーパワー、パワーバランス。そこに浮かんでいることだけで抑止力を持っている。大戦間の建艦競争と軍縮条約という、いわば冷戦、冷たい海戦とでも言いましょうか。そういうのの象徴が陸奥長門だったと思います。
彼女らはその後ホットウォーも経験し、陸奥は爆沈事故、長門は最後まで生き残り、周知のように原爆実験の標的艦になった。
 
武蔵を仕留めるのに米の飛行隊は航空魚雷を確か24本。大和のときは10本だった。子どもの頃は単純に被雷本数で行くと武蔵のほうがすげーとかクラスで友だちと話してて、でも開戦劈頭にマレー沖で沈められた英国のレパルスが20本受けていたと知るに及び、レパルス恐るべし、などと、やっぱり数が多いほうがすごいという感じでいた子どもの頃。でも今もその感覚にさして変わりはなく、いまだにほにゃららの国内出荷が前年比で上回ったか下回ったかみたいな記事ばっかり書いてます。