日本100名城 51.安土城 再訪【中編】はコチラ
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目次
※過去訪問重複箇所は赤字
二の丸跡
伝長谷川竹秀一邸跡
織田信雄公四代供養塔
仏足石
信長公廟
本丸西溜り
本丸跡
三の丸跡
天主台跡
二の丸跡
天主台の西下にあたる位置が二の丸(西の丸)跡。
ここから「二の丸下段郭」エリア。
「黒金門跡」を抜けると、大きな石垣が正面に現れる。
現在の石垣の高さは6メートル程だが、かつては9メートルあったという。
安土城が焼失した時の跡とうかがえるような赤くこげた石垣がみられる。
伝長谷川竹秀一邸跡
「二の丸下段郭」は二の丸の西と南を囲んでおり、狭い範囲に「二の御門」、「三の御門」が連続して建てられていた。
これらの門の周辺には三棟の二重櫓が建てられていた。
復元整備された石垣が多い安土城だが、二の丸石垣は信長築城時のもので、当時の様子を今に伝える貴重なもの。
復元イメージ
仏足石
「三の御門跡」手前にある。
仏足石は大手道などに見られる石仏と同様に築城当時単なる石材として集められ石垣に使われていたようで、昭和の初期登山道整備の時、この付近の崩れた石垣の中から発見された。
仏足跡はお釈迦さまの足跡を表現したもので古代インドでは仏像に先立ち崇拝の対象にされていた。
我が国では奈良の薬師寺のものが現存する最古(奈良時代、国宝)のものとして有名だが、この仏足石は中世の数少ない遺物として大変貴重。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240526/17/yucchi87/96/72/j/o2000150015443642545.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240526/17/yucchi87/c9/15/j/o2000150015443642952.jpg?caw=800)
仏足石は大手道などに見られる石仏と同様に築城当時単なる石材として集められ石垣に使われていたようで、昭和の初期登山道整備の時、この付近の崩れた石垣の中から発見された。
仏足跡はお釈迦さまの足跡を表現したもので古代インドでは仏像に先立ち崇拝の対象にされていた。
我が国では奈良の薬師寺のものが現存する最古(奈良時代、国宝)のものとして有名だが、この仏足石は中世の数少ない遺物として大変貴重。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240526/17/yucchi87/96/72/j/o2000150015443642545.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240526/17/yucchi87/c9/15/j/o2000150015443642952.jpg?caw=800)
「三の御門跡」
信長公廟
本丸西溜り
「本丸跡」へ。
左側石垣は「天主台石垣」、右側は「櫓台石垣」。
写真は「本丸西虎口」。
本丸跡
天主台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきた。
東西約50メートル、南北約34メートルの東西に細長い敷地は、三方を天主台・本丸帯郭・三の丸の各石垣で囲まれ、南北に向かってのみ展望が開けている。
昭和16年と平成11年の二度にわたる発掘調査の結果、東西約34メートルx南北約24メートルの範囲で碁盤目状に配置された119個の建物礎石が発見された。
7尺2寸(約2.18メートル)の間隔で整然と配置された自然石の大きな礎石には焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸(約36センチ)の柱跡が残るものもあった。
4~6寸(12~18センチ)の柱を6尺5寸(約1.97メートル)間隔で立てる当時の武家住宅に比べて、本丸建物の規模と構造の特異性がうかがえる。
礎石の配列状況から、中庭をはさんで3棟に分かれると考えられるこの建物は、天皇の住まいである内裏清涼殿と非常によく似ていることが分かった。
西方の清涼殿風の建物は、密に建ち並んだ太くて高い床束が一階の床を支える高床構造の建物であったと考えられる。
東西約50メートル、南北約34メートルの東西に細長い敷地は、三方を天主台・本丸帯郭・三の丸の各石垣で囲まれ、南北に向かってのみ展望が開けている。
昭和16年と平成11年の二度にわたる発掘調査の結果、東西約34メートルx南北約24メートルの範囲で碁盤目状に配置された119個の建物礎石が発見された。
7尺2寸(約2.18メートル)の間隔で整然と配置された自然石の大きな礎石には焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸(約36センチ)の柱跡が残るものもあった。
4~6寸(12~18センチ)の柱を6尺5寸(約1.97メートル)間隔で立てる当時の武家住宅に比べて、本丸建物の規模と構造の特異性がうかがえる。
礎石の配列状況から、中庭をはさんで3棟に分かれると考えられるこの建物は、天皇の住まいである内裏清涼殿と非常によく似ていることが分かった。
西方の清涼殿風の建物は、密に建ち並んだ太くて高い床束が一階の床を支える高床構造の建物であったと考えられる。
豊臣秀吉が天正19年(1591)に造営した内裏の清涼殿等を参考にして復原した図
「本丸東虎口」
この先には「台所跡」、「米蔵跡」、「硝煙蔵跡」、「搦手道」がある。
進入禁止。
「本丸南虎口」
「多門櫓跡」
「本丸取付台」へ登る石段
北側には「八角平」へ続く道があるが現在立ち入り禁止になっている。
更に進むと「天守台石段」が見えてくる。
傾斜はかなり急。
登った先が「天守台跡」。
三の丸跡
三の丸については、安土城を伝える最古の地図(1687年)には、三の丸ではなく、名坂屋敷と記されている。
信長の死後105年後に作成されているので信頼性は高く評価されている。
この三の丸が信長公記に記載されている江雲寺御殿ではないかと想定されている。
金箔瓦が見つかったのもここと天主だけであるので非常に重要な拠点と推測されている。
信長の死後105年後に作成されているので信頼性は高く評価されている。
この三の丸が信長公記に記載されている江雲寺御殿ではないかと想定されている。
金箔瓦が見つかったのもここと天主だけであるので非常に重要な拠点と推測されている。
石垣の上が「名坂邸跡」
天主台跡
安土城の天主は、完成してからわずか3年後の天正10年(1582)6月に焼失する。
その後、永い年月の間に瓦礫と草木の下に埋もれていたが、昭和15年(1940)はじめて調査の手が入る。
厚い堆積土を除くと、往時そのままの礎石が見事に現れた。
この時に石垣の崩壊を防止するために若干の補強が加えられた他は、検出した当時のまま現在にいたっている。
安土城天主は、記録から地上六階、地下一階の、当時としては傑出した高層の大建築であったことがわかる。
その後、永い年月の間に瓦礫と草木の下に埋もれていたが、昭和15年(1940)はじめて調査の手が入る。
厚い堆積土を除くと、往時そのままの礎石が見事に現れた。
この時に石垣の崩壊を防止するために若干の補強が加えられた他は、検出した当時のまま現在にいたっている。
安土城天主は、記録から地上六階、地下一階の、当時としては傑出した高層の大建築であったことがわかる。
安土城の天主台跡は現在、背丈ほどの高さの石垣に囲まれた、東西、南北それぞれ約28メートルの台地となっている。
ここには礎石が1〜2メートルおきに整然と並べられており、かつての穴蔵(天主の地階)にあたる。
ここには礎石が1〜2メートルおきに整然と並べられており、かつての穴蔵(天主の地階)にあたる。
「天主台跡」北側