日本100名城 51.安土城 再訪【前編】はコチラ

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 目次

※過去訪問重複箇所は赤字

 

 伝前田利家邸跡

 

 伝羽柴秀吉邸跡

櫓門跡の発掘調査

羽柴秀吉邸主殿

 

 摠見寺(伝徳川家康邸跡)

 

 伝武井夕庵邸跡

 

 摠見寺墓地

 

 伝織田信忠邸跡

 

 伝織田信澄邸跡

 

 伝森蘭丸邸跡

 

 黒金門跡

 

 

 


 

 

 

伝前田利家邸跡
織田信長の家臣であった前田利家が住んでいたと伝える屋敷の跡。

大手道に面したこの屋敷は、向かいの伝羽柴秀吉邸とともに大手道正面の守りを固める重要な位置を占めている。

急な傾斜地を造成して造られた屋敷地は、数段の郭に分かれた複雑な構成となっている。

敷地の西南隅には大手道を防備する隅櫓が建っていたものと思われるが、後世に大きく破壊されたため詳細は不明。

隅櫓の北には大手道に面して門が建てられていたが、礎石が失われその形式は分からない。

門を入ったこの場所は枡形と呼ばれる小さな広場となり、その東と北をL字型に多聞櫓が囲んでいる。

北方部分は上段郭から張り出した懸造り構造、東方部分は二階建てとし、その下階には長家門風の門が開いている。

この枡形から先は道が三方に分かれる。  

右手の道は最下段の郭に通じている。

ここには馬三頭を飼うことのできる厩が建っていた。

この厩は、江戸時代初期に書かれた有名な大工技術書「匠明」に載っている「三間厩之図」と平面が一致する貴重な遺構。

厩の脇を通り抜けると中段郭に通じる急な石階段があり、その先に奥座敷が建っていた。  

正面と左手の石階段は、この屋敷地で最も広い中段郭に上るもの。

正面階段は正客のためのもので、左手階段は勝手口として使われたものであろう。

前方と右手を多聞櫓で守られた左手階段の先には、木桶を備えた排水施設がある。

多聞櫓下段の右手の門を潜ると、寺の庫裏に似た大きな建物の前に出る。

広い土間の台所と、田の字型に並ぶ四室の遠侍が一体となった建物。

遠侍の東北隅から廊下が東に延びており、そこに当屋敷の中心殿舎が建っていたと思われるが、現在竹薮となっており調査が進んでいない。

さらにその東にある奥座敷は特異な平面を持つ書院造り建物。

東南部に突出した中門を備えているものの、部屋が一列しかない。

あるいは他所から移築されたもので、移築の際に狭い敷地に合わせて後半部の部屋を撤去したのかもしれない。  

伝前田利家邸は、伝羽柴秀吉邸とほぼ共通した建物で構成されているが、その配置には大きな相違が見られる。






「枡形」





残念ながら入ることが出来ず、「大手道」からの景色。





 

 

 

伝羽柴秀吉邸跡
織田信長の家臣であった羽柴(豊臣)秀吉が住んでいたと伝える屋敷の跡。

大手道に面したこの屋敷は、上下2段に別れた郭で構成されている。

下段郭の入口となるこの場所には壮大な櫓門が建っていた。

1階を門、2階を渡櫓とする櫓門は、近世の城郭に多く見られるものだが、秀吉邸の櫓門はその最古の例として貴重。

門内の石段を上がると、馬6頭を飼うことのできる大きな厩が建っている。

武士が控える遠侍と呼ばれる部屋が設けられている厩は、武士の生活に欠かせない施設。

下段郭には厩が1棟あるだけで、それ以外は広場となっている。

背面の石垣裾に設けられた幅2メートル程の石段は、上段郭の裏手に通じている。  

上段郭は、この屋敷の主人が生活する場所。

正面の入口は大手門に面して建てられた高麗門。

その脇には重層の隅櫓が建ち、防備を固めている。

門を入ると右手に台所があり、さらに進むと主屋の玄関に達する。

玄関を入ると式台や遠侍の間があり、その奥に主人が常住する主殿が建っている。

さらにその奥には内台所や遠侍がある。

3棟の建物を接続したこの建物群の平面積は366平方メートルあり、この屋敷では最大の規模を持っている。  

戦国の世が終わりを迎えようとする16世紀末の武家住宅の全容を明らかにした伝羽柴秀吉邸跡の遺構は、当時の武士の生活をうかがい知ることのできる、誠に貴重なもの。  





 





「下段郭」へ。


 

櫓門跡の発掘調査
伝羽柴秀吉邸跡の発掘調査は平成2年と4年に実施。

調査前は草木の生い茂った湿潤な斜面地だったが、大手道に面した調査区からは門の礎石と考えられる大きな石や溝、階段を発見した。

これらは厚さ数センチの表土の下から見つかったが、その保存状態は大変良好で今後の安土城跡の調査に大きな期待を抱かせることとなった。  

礎石は鏡柱を置く巨大な礎石や添柱用の小さな礎石など、大小あわせて9個発見しており、最大のものでは0.8メートル×1.4メートルの大きさがある。

これらの礎石の配列と両側の石垣の様子から、この建物は脇戸付の櫓門であることがわかった。  

櫓門の内側には、屋敷に通じる石段とこれに伴う石組みの排水路があり、水路の縁石には石仏が使用されていた。

門の前では大手道から櫓門へ入るための橋を支えたと考えられる3本の長い花崗岩製の転用石を発見した。  

また、周辺からは櫓門の屋根を飾っていたと考えられる金箔軒平瓦や丸瓦の破片が出土している。



「櫓門」の復元図





発見された「櫓門」の礎石と石段






現在




「虎口」を上がり「郭内」へ。



「厩跡」





三段石垣の上が「上段郭」。









石垣裾は、「上段郭」の裏手に通じる石段。





「大手道」から見る「上段郭」





「上段郭虎口」





「上段郭」から「下段郭」を見る


 
羽柴秀吉邸主殿
安土城が築かれた頃の武家住宅において、接客や主人のために使われていた中心的建物を主殿という。

この屋敷では主殿の手前に式台・遠侍、奥に内台所が接続して複雑な構成になっている。

主殿入口は、建物東部に設けられた玄関。

「玄関」を入ると「式台」の間があり、ここで来客は送迎の挨拶を受ける。

その背後には、武士が控える「遠侍」の間が置かれている。

式台を左に進むと主殿に出る。

畳を敷いた幅1間の廊下の西は、2間続きの座敷になっている。

西奥の部屋が床・棚を背に主人あるいは上客が着座する「上段の問」。

上段の間南には主人が執務を行う「付書院」が付属している。

南側の「広縁」は吹き放しで、その東端に「中門」が突出している。

広縁の途中にある「車寄」はもっとも大事な客(例えば秀吉邸を訪れた信長)が直接上段の間に入るための入口で上には立派な軒唐破風が架けられている。

主殿のさらに奥には、簡単な配膳を行う「内台所」や「遠侍」が接続している。









 

 
摠見寺(伝徳川家康邸跡)
かつて徳川家康の屋敷があったと伝わる場所は、 現在、江戸時代末期の安政元年(1854)に火災により焼失した摠見寺の仮本堂となっている。

この仮本堂は昭和7年(1932)に建てられた。

寺宝として、織田信長所用の永楽銭を散らした銀象眼の鉄鍔(まけずのつば)や陣羽織が伝えられている。

特別拝観日のみ見学可。






「羽柴秀吉邸跡」から見る「摠見寺」

 

 

 

伝武井夕庵邸跡
武井夕庵は織田信長の右筆として活躍した武将で、信長からの信頼も厚かったとみられ、 安土城での屋敷は森成利(森蘭丸)、津田信澄、織田信忠に次ぐ場所に建設されている。 

大手道の直線を登り切った場所にある。






「井戸跡」や「石垣」が残っている。

 

 

 

摠見寺墓地
大手道が九十九折れとなる所で伝武井夕庵邸跡の虎口向かいに歴代摠見寺住職ほか供養塔がある。

摠見寺開山の正仲剛可の墓のほか、僧侶を示す卵塔形以外の墓もあり、寺に従事していた者も含まれている可能性がある。

摠見寺第2世は信長の弟、織田上野介信包の二男である雪庭壽珪で、この雪庭が妙心寺の紫衣の長老で、龍安寺西源院の住持であったため、以後摠見寺は、臨済宗妙心寺派に属し、西源院を法類とするようになったという。

 

 

 

伝織田信忠邸跡
安土山の中腹、大手道と百々橋口道が交差する地点に、織田信忠の屋敷があった。

百々橋口から摠見寺のあたりまでは誰でも自由に往来できたと考えられているため、この信忠の屋敷があったあたりは安土城の防衛ラインとして重要な位置を占めていた。






 

 


「黒金門跡」へと続く石段

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「黒金門跡」のすぐ手前左側に2つの屋敷跡がある。

 

伝織田信澄邸跡
織田信澄は信長の弟である織田信行(信勝)の嫡男で、のちに信行は信長によって暗殺されるが、幼少の信澄は土田御前(信長と信行の生母)の助命嘆願もあって殺されることなく、柴田勝家のもとで養育された。

元服してからは一門衆として信長の側近となり、安土城の造営においては総普請奉行である丹羽長秀とともに普請奉行として工事に携わるなど、織田一門の中では叔父の織田信包と並んで信長から厚く信任されていた。


 

 

 

伝森蘭丸邸跡
森蘭丸は織田信長の家臣・森可成の三男で、信長の近習として仕え、「本能寺の変」の際に主君とふたりの弟(坊丸・力丸)とともに討死した。

信長は側近や諸大名に対し「自慢できる物」として第一に奥州から献上された白斑の鷹、第二は青の鳥、そして第三は蘭丸と述べたと伝わるほど、蘭丸は寵愛されていた。




 
黒金門跡
黒金門は安土城中枢部への主要な入り口の一つ。

周囲の石垣をこれまで見てきた石塁や郭の石垣と比べると、使われている石の大きさに驚く。

平成5年度の発掘調査では、 黒金門付近も天主とともに火災にあっていることが分かった。

多量の焼けた瓦の中には、菊紋・桐紋等の金箔瓦も含まれていた。

壮大な往時の姿が偲ばれる黒金門より先は、信長が選ばれた側近たちと日常生活を送っていた、安上城のまさに中枢部となる。  

高く聳える天主を中心に本丸・二の丸・三の丸等の主要な郭で構成されるこのー帯は、標高が180メートルを越え、 安土山では最も高いところにある。

東西180メートル、南北100メートルに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立している。

高石垣の裾を幅2~6メートルの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれている。

外周路の要所には、隅櫓・櫓門等で守られた入り口が数カ所設けられている。

黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口道・七曲口道からの入り口である。  
 
安土城中枢部の建物は本能寺の変の直後に全て焼失したため、炎の凄まじさを残す石垣と礎石によって往時の偉観を偲ぶことができるだけだ。

しかし、400年以上にわたっで崩れることなく、ほぼ原型を保ってきた石垣の構築技術の高さに驚かされる。

平成7~12年度の発掘調査から、この一帯の建物群が多層的に結合されている可能性が出てきた。





復元イメージ

















「食い違い虎口」になっている。





振り返る





「虎口」を抜けたあとは左右どちらにも進めるようになっており(右が本丸、左は伝長谷川秀一邸跡)、侵入した敵を迷わせる仕掛けになっている。





振り返る。

かつては巨大な「櫓門」と「多聞櫓」が建っていた。





ここから天主に至る通路や天主から八角平への通路の上には覆い被さるように建物が建ち並んでいた。

天主へ向かう通路は、熊本城の闇り通路のように、建物の下を通る構造になっていた可能性がある。
 

 


日本100名城 51.安土城 再訪【後編】へ続く