2013/11/2 登城BLOGはコチラ

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 目次

※過去訪問重複箇所は赤字

 

 伝江藤加賀右衛門邸跡

 

 石塁と大手三門

 

 東側石塁北上段郭と虎口

 

 西側石塁の枡形虎口と平入虎口

 

 西側上段郭と竃跡

 

 大手道

石仏

 


 


 

 

 

伝江藤加賀右衛門邸跡
青木重直、別名 加賀右衛門。

美濃国の出身。

土岐頼芸、次いで斎藤道三に仕えたが、美濃斎藤氏滅亡後は織田氏に仕え、家臣の丹羽長秀の与力。

山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いに参加した。

後に豊臣秀吉の家臣となって、御伽衆に列した。

 

 

 


横には安土城の石碑が建っている。
 

 

 

 

石塁と大手三門
安土城の南口は石塁と呼ばれる石垣を用いた防塁で遮っている。  

この石塁が設けられた部分は東西約110メートルあり、その間に4箇所の出入り口が設けられている。  

通常の城郭では大手門と呼ばれる出入口が1箇所だけ。  

織田信長は、安土城に天皇の行幸を計画していたことから、城の正面を京の内裏と同じ三門にしたのではないか、西枡形虎口以外の三門は行幸などの公の時に使用する門であったと想定される。  

東側石塁は北側に溝がなく基底幅は約4.2メートル。  

石塁は、一直線ではなく大手門の所でへの字に屈曲している。  

石塁の石は、八幡城や彦根城に再利用されたか、江戸時代以降の水田耕作などの開墾により大半が消失し築城時の高さは不明。

そのため復元にあたっては、南側から石塁北側の通路にいる見学者が見通せる高さに制限した。  

東平入り虎口は、間口約5.5メートル奥行き約4.2メートルで、柱を受ける礎石等が残っていないため門の構造は不明。 










石塁の中に詰められている栗石がない部分が約30メートル(東側石塁の西端に網を張って中の栗石が見えるようにしている部分から西)あり、この間に大手門があったと思われる。

石塁から南に2間分、2.4メートルの間隔で礎石が2基、礎石抜き取り穴が1基見つかっているが、石塁の基底石が据えられている面と同じ高さにあり、大手門の柱が石塁より前に2間分飛び出すという特異な形になり規模や構造において不明な点が多くどのような門であったか不明。

また、虎口や通路に上がる段差がある部分は、その多くが後世の開墾で当時の遺構が消滅して、石段であったか木階段であったか確定することができなかった。

そのため確実に築城時に段があったが材質が不明である部分については安土城では用いられていない花崗岩の切石で復元して築城時の遺構と区別することにしている。

門があったと見られる部分には豆砂利樹脂舗装をして表示している。

また、通路部分は針葉樹の間伐材を使ったウッドチップ樹脂舗装で表示している。

上段の郭の内、土塀があったと推定される箇所はウバメガシの生垣にしている。



「大手門跡」から見る東側





「大手門跡」から見る西側

 

 

 

東側石塁北上段郭と虎口
東側石塁東虎口の城内側は、一段段高い郭(A区)が間近に迫り、この郭の南面を画する石垣(石垣360)により遮られている。  

石塁との問は約6メートルある。

石垣に沿って側溝が設けられていることから大手道に通じる通路であったことが分かった。  

この石垣360には大手道から東へ約25メートルの地点に上段郭へ上がる虎口(A区虎口)が設けられていた。

虎口は、間口約5.0メートル、奥行き約5.5メートル以上で、石段で上がるようになっている。

石段は下4段、上段3段で、中間に奥行き2.5メートルの踊り場が造られていた。

踊り場には東西側壁寄りに門の袖柱を受ける礎石が残っていた。

門の主柱を受ける礎石が残っていないため門の規模は不明だが、残存する2基の小礎石から薬医門か唐門であったと思われる。  

上段郭の内部は江戸時代以降に水田耕作などで開墾されており、築城時の遣構は残念ながら残っていない。

しかし、虎口の門の形態や郭の広さから伝羽柴秀吉邸上段郭にあるような屋敷であったことが考えられる。  

東虎口から入った賓客をこの虎口から上段郭にある建物へ招き入れたと思われる。  

石垣には大きな石が等間隔に配置されている。

模様のように大石を配置していることから「模様積み」と仮称した。  

このような大石を等間隔に置く石垣の例は、佐賀県肥前名護屋城跡の古田織部陣跡、広島県吉川元春館跡や万徳院跡にある。  

しかし、安土城の方が古く、模様積みの初源ではないかと思われる。 














「上段郭虎口」





 

 

 

西側石塁の枡形虎口と平入虎口
大手門から西に延びる石塁には2箇所の出入り口がある。

最も西端に設けられた出入り口は二度折れして入る枡形虎口と呼ばれる構造で、その東側に造られた出入り口は、平入り虎口と呼ばれる門を入るとすぐに城内に行き着くもの。  

平入り虎口の東袖壁は石塁をL字状に屈曲させ幅を約5.0メートルに拡幅させている。

伝羽柴邸下段郭にあるような櫓門になっていた可能性がある。

西袖壁の南面側は基底石が残っていなかったため当初の石塁幅を確かめることができず、整備工事では左右対称の形に復元している。

また、登り降りする段差があるが、石段等の当時の遺構が残っていなかったため花崗岩の切石を使い築城時のものと区別している。  

枡形虎口では二つの新しい発見があった。

一つは、枡形虎口の南面石垣沿いに幅約50センチの石敷き側溝が造られていた。

このことから南面石垣沿いには通路のような陸地が百々橋口まで延びていることが明らかになった。

二つ目は、枡形虎口の西壁と南面石垣には約1.5メートル大の大石を等間隔に配置する模様積みだが、奥壁の石垣は約40~60センチ大の石を布積みにしており石の積み方が違うことが分かった。

さらに西壁の石垣は奥壁の石垣に当て付けており、奥壁の石垣は西に延びて埋め殺しになっていた。

このことから、当初安土城の南面を画する奥壁の石垣が造られていたが、天皇の行幸のため大手を三門にする設計変更をした際、南側に郭を継ぎ足して、石塁とセットになった枡形虎口が造られたと考えられる。  

また、枡形虎口の上段には安土城廃城後、畑地として利用された時に造られた石垣が残っていた。

廃城後の安土城の利用方法を知ってもらい、石積みの違いを見てもらうため解体せず残している。  










大手最西端、織田家家臣の「虎口」。





敵の侵入を阻止するために設けられた「枡形虎口」。





東側は賓客を迎え入れるための出入口。

「平入虎口」で門から入ってすぐに城内へ入る。

 

 

 

西側上段郭と竃跡
この郭は、安土城廃城後に石垣等を壊して整地し、畑地として使われていた場所。  

発掘調査をしたところ、周囲より一段低い空間があらわれ、北側は石垣、西側は屏風折れ状の石組、南側は両脇に石塁を持つ間口約6メートルの虎口で限られていることが分かった。

そして、北側の石垣沿いには、井戸と洗い場とみられる敷石が見つかった。  

また、この空間からは、北西隅の上がり框と北東隅の虎口により東西の郭へ、南側虎口は石塁沿いの武者走りの西端にある石段を経て大手石塁西虎口にそれぞれ連絡できるようになっていた。  

この一段低い空間には、建物の柱を支える礎石が4基残っていた。

残っている礎石の数が少ないため詳しくは分からないが、残された礎石や礎石を抜き取った痕などから建物の規模を図で示した。

このような虎口に接した建物の例は、他の城跡でもあまり見られない。  

また、この郭の西側から、数基の竈跡と炭や焼け土の入った皿状の凹地が見つかった。

竈は、何回も作り替えがあったとみられ、古い竈を壊して整地したのち、新たな竈を作っている。

2回目に作られたものは、竈の壁を支える馬蹄形(馬のひづめに似た形)に並べられた根石と焚き口、固く叩き締められた土間が残っていたが、ここでは、竈跡を埋め戻して保存し、改めてその位置に平面表示している。  

これらの竈は、これに伴う遺構面を壊して先の一段低い空間が造られていることから、虎口が造られる前に使われていたことは明らか。

しかし、竈を作り替えるたびに整地し直した土の中から安土城で使われていたものと同時期の土器や陶磁器が出土している。

このことから竈は、安土城の築城の時に、この付近にあった作事場などに伴う遺構と考えられ、安土城築城中の様子が分かる貴重な遺構と言える。 






















「竃跡」が発見されたエリア









「西側上段郭虎口」





「井戸」





「東側郭」への「虎口」





 

 

 

大手道
安土城の正面玄関である大手門から山頂部に築かれた天主・本丸に至る城内では最も重要な道。

大手道はその構造から、直線部分、横道・七曲がり状部分、主郭外周路部分の三つの部分によって構成されている。

 

大手門から山腹まで、約180メートルにわたって直線的に延びる部分の道幅は、約6メートルと広く、その両側に幅1~1.2メートルの石敷側溝があり、さらにその外側に高い石塁が築かれている。

道の東西には、複数の郭を雛壇状に配した伝羽柴秀吉邸跡や、伝前田利家邸跡等の屋敷があり、これらは書院造りの主殿を中心に厩や隅櫓等、多くの建物で構成されている。

山腹部分は、傾斜が最も急なところで、ジグザグに屈曲しながら延びている。

この付近は、踏石や縁石に石仏が多く使われている他、屈折部分に平坦な踊り場を造ることなく、踏石列を扇状に展開させていることが特徴。

伝武井夕庵邸跡の北東付近から大手道は東へ屈曲し、主郭部の外周を構成している高石垣の裾を巡り、本丸に直接通じる本丸裏門に至る。

屈曲部分は幅4メートル程に狭まるが、本丸裏門近くでは6メートルを超える広い道になる。





「摠見寺本堂」にてイベントが開催されるための準備中。
 




右手石垣が「摠見寺本堂」の石垣。





真っ直ぐの道から左へカーブしていく。





「横道・七曲がり」のエリアへ。

緩やかな登りになっていく。





振り返る。





左右に折れ曲がりながら登って行く。

傾斜が急。





「七曲がり」最上段のカーブ内側には大きな曲輪がある。(伝武井夕庵邸跡)

先述通り、石段のカーブ石段1つ1つを扇型にカーブさせることで緩やかな曲がりを発生させている。





「七曲がり」が終わると、道も緩やかになっていく。





振り返る。





平坦な道へ。





正面に見える郭は「伝織田信忠邸跡」。









この先に「黒金門」があり、城内へ続く。


 

石仏
この石仏は、築城の際に大手道の石材として使われたもの。  

城普請に使用する多くの石材は、近郊の山々から採取したが、石材や墓石等も含まれていた。  

出土した石仏等は、本来は信仰の対象となっていたものだが、築城の経緯を示すために発見当時の状態で保存している。