志津川湾を囲む馬蹄形分水嶺尾根の峠と山

 

 志津川湾を囲む南三陸の町境の分水嶺尾根です。分水嶺尾根は馬蹄形になっており降った雨は全部、志津川湾に注ぐそうです。また藩政時代より志津川の町から放射状に交易路が出来ていたので、この尾根には地理院地図に記入されている峠だけでも7ケ所有ります。これらの峠は小野寺寅雄さんの「みやぎの峠」に詳しく載っていたので益々興味を持ち、北の「惣内山」から南の「女・保呂羽山」まで歩き繋げながら峠探訪をしました

 

 志津川湾から眺める、志津川湾を囲む馬蹄形分水嶺尾根(志津川山脈?)の北側の山々です。

惣内山~神行堂山神行堂山~弥惣峠弥惣峠~五百峠五百峠~水界峠水界峠~羽沢峠とに分けて歩きました

 

 志津川湾から眺める、馬蹄形分水嶺尾根の西側の山々です。羽沢峠~横山峠横山峠~愛宕山とに分けて歩きました

 

 戸倉集落付近から眺める分水嶺尾根の釣瓶山~愛宕山です。なお釣瓶山(左)は平成の合併前の旧志津川町の最高峰の山でした

 

 北上川から眺める分水嶺尾根南側の山々です。谷多丸山~大盤峠大盤峠~楯火峠と分けて歩きました

 

 大盤平から眺める分水嶺尾根の楯火峠~門前沢山~女・保呂羽山方面です

 

 展望も無く単調だった分水嶺の藪尾根歩きを楽しませてくれたオオワシです。下山後に志津川湾沿いに立ち寄ると短時間で毎回観れました

 

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 惣内山(379m)山頂付近から眺める志津川湾です。南側に馬蹄形分水嶺尾根端部の女・保呂羽山が見えます

 

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 「坂の貝峠」です。ここは旧歌津町と志津川の入谷を結ぶ峠です。峠には東屋、駐車場などが有り、西側の入谷地区~童子山(正面)~神行堂山などを眺められ休憩に良い場所です

 

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 神行堂山の山頂です。山頂から惣内山へは「南三陸イヌワシ火防線プロジェクト」さんが整備した防火帯の道が有りました。※「南三陸イヌワシ火防線プロジェクト」さんは、最終的に町界尾根の全線をトレイルとして整備し、イヌワシの狩場となるような空間を作り出し、イヌワシが再び南三陸町に戻ってくることを目指しているそうです

 

 「弥惣峠」です。現在、志津川方面からの車道は、峠手前で土砂崩れが有り車はもとよりバイクの通行も出来ません。※弥惣の名は、小野寺寅雄さんの「みやぎの峠」によると登米市・米川側では切支丹の由来、志津川側では蝦夷の弥相兄弟の由来とのことです

 

 「五百峠」です。地理院地図には峠名と峠までの道が記入されていますが、記入されている道は廃道でヤブでした。なお、弥惣峠から「南三陸イヌワシ火防線プロジェクト」さんが整備した防火帯の道を辿ってくることが出来ます

 

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 「水界峠」に有る、江戸時代の文政(1818)に建立された大きな峠碑(馬頭観音と月山神社と山神)です。また、この峠の下に、フランス人技師の設計によると云われている、1886(明治19)年に竣工した近代トンネル(水界隧道)が有ります。

 ※南三陸町観光協会HPなどによると、昔から水界峠は重要な交易路だったことから、今まで新旧5本の交易路が出来たそうです。1(米谷道・最古の水界峠)2(水界隧道上の水界峠)3(水界隧道)4(新水界トンネル)5(三陸道登米志津川トンネル)です

 

 「羽沢峠」です。現在、羽沢峠は登米市と南三陸町を結ぶ県道の峠頂になっていますが、大型車の通行禁止の表示板が有りました

 

 「横山峠」です。国道45線の町境に有る峠ですが、有名すぎて?地理院地図には峠名は記入されていません。なお峠には「横山峠」と表示板が有ります。※南三陸町のHPによると、横山峠は藩政時代からの気仙道に有る峠で、峠道の両側に一里塚が築かれていたそうです

 

 分水嶺尾根の最高峰の翁倉山ですが、なぜか南三陸町の山ではないのです。町境は東側直下の沢沿いになっています

 

 谷多丸山と大森貝山との間の鞍部付近です。ここは戸倉(水戸辺)と北上町(女川)を繋ぐ尾根乗越です。旧峠かも知れませんね。

 ※小綱木山の東南に位置する大森貝山との鞍部が追波川方面へ越える古い峠道だったのではないかと想像されます(南三陸町HP)

 

 「大盤峠」です。北上町(現石巻市)と南三陸町を結ぶ町道が、大盤峠と大盤平の放牧場の中を縦断しています

 

 「楯火峠」です。地理院地図には峠名は記入されていますが道の記入は有りません。尾根沿いの防火帯も消滅しているので峠まではヤブ道歩きでした

 

 (女)保呂羽山(328m)山頂の神社です。歩き通した分水嶺尾根に唯一建立されていた神殿です。なお他の山や峠には祠、石仏、石碑などが有りました