私たちに不可能なんてないんだ。
ということを大好きな矢野監督をはじめ
大好きな鳥谷選手に教えてもらったなぁで、始まった令和元年10月神在月です。
9月27日國軸吉野、吉水神社秋の例大祭で
あわ琴の奉納演奏を終えて
日が経つにつれ自分のなかで大きく動き始めた歯車の鼓動を感じています。
「心の持ち方」や「心の在り方」という表現がわからない。
ということを聞きました。
これはあくまで私の見解で
私の例え話です。
すべてがそうなのだとは言えません
そこの点了承のうえ読んでくださいね。
心の持ち方って、
すごくすごくすごく辛いこと苦しいこと、悲しいことがあって身動き取れない自分がいて、
その状況と状態で幾日か過ごしていて
ある日突然「これじゃ自分あかんやん」
と、思ったときフッとそこから立ち上がってみよう。
足元怖かったら手すりを持ってでも立ってみようとして「立ち上がる」感覚
(実際に立つのもありですが、食事をとるのをやめてたのをお水一杯口に入れるとか、家族と食卓を囲むとか、色々な例えはあります)
その、何も考えられない
何もしたくない、辛く悲しく苦しいことを一旦リセットしようとした気持ちが「心の持ち方」なのではないかと私は捉えています。
そしてそのリセットしたあとに
あーでもない、こーでもないと
試行錯誤しながら、何度も何度も転んでは立ち上がるを繰り返しながらも
「自分は立ち上がることができた」と自分に言い聞かせながら諦めずに挑戦している自分の姿勢が「心の在り方」なのではないかと私は捉えています。
心の持ち方や在り方という言葉は
それだけ聞いてもピンとこないし
下手したら突っ込みどころ満載で
意味はわからんからそんなの言うなよ!という反感を買うことにもなるものかもしれません。
今私が書いた例え話も私の見解にしか過ぎないので
これも全く意味のないことかもしれませんが
私は私の「心の持ち方」と「心の在り方」で
私という人生を歩んでいこうと決めています
辛く悲しく苦しいときも
逆に幸せで爆笑しっぱなしのときも
私は私を謳歌していきます。
あなたも
あなたを謳歌してくださいね