秋田県横手市雄物川町薄井に天保無縁塚延命地蔵尊のお堂があります。
天保4年(1833年)の大飢饉の時に、南部領西和賀地方(今の西和賀町)の人々が食べ物を求めて峠を越え流浪したものの佐竹領秋田も大凶作で次々と餓死してしまった史実があるそうです。
当時の薄井村には113体もの死骸が横たわり、見かねた村人たちが丁重に埋葬し、お堂を建てて、のちに延命地蔵尊を安置し冥福を祈り続けてきた歴史があることを去年、柿崎教育長から聞いて、その供養祭を見たいと思っていました。
毎年7月24日が地蔵尊忌で、今年は192回目だそうです。
歴史に興味があるリョウイチさんと、車を1時間走らせて行ってみました。
幟(のぼり)が風にはためき、供養祭を知らせる花火があがりました。
幟の中には沢内村と湯田町の文字も見えました。
天保無縁塚の由来が掲げられていました。
地元の農民作家が調査取材して、ここに眠る113柱が沢内村と湯田町の出身者であることを突き止め、小説にまとめました。
これをきっかけに、天保4年から140年目の昭和47年には両町村から関係者多数が訪れて盛大な供養祭になったそうです。
10畳ほどの広さの立派なお堂には延命地蔵尊が安置されています。
薄井村の人たちは、同じ農民なのに救えなかったとの思いが強かったそうです。
祭壇にはお菓子や果物が供えられていました。
お膳のお供えが人々の思いを表しておりました。
東泉寺住職の読経で供養が進められました。
写真は、ご飯を箸で霊前に放る場面です。
西和賀町からも刈田副町長や柿崎教育長と生涯学習課の職員2人が参列しました。
延命地蔵尊やお堂の運営は地元の約300戸で講中を設立して対応しているそうですが、講中代表の中山さんは「高齢化で今後が心配」と話していました。
真昼山地を越えた窮民たちがなぜ薄井村でたくさん亡くなったのでしょうか。
餓死寸前の人たちには、かなり遠い場所のはずです。
中山さんによると、昔ここにあった丸沼という大きな沼の周辺に多数の遺体があったのだそうです。
すぐ近くには雄物川が流れています。
さまよった果てだったということでしょうか。
田園地帯の一角に丸沼の一部が残されていました(写真左奥)。
ここではお堂が建ったようですが、横手地方には何か所か天保大飢饉の時の無縁塚があるそうです。
きょうリョウイチさんが沢内村の古い本を何冊か持ってきてくれたので、理解の糧にしようと思います。 (7月27日)