Google先生にテレビジョンとは?

と聞きたくて、「テレビジョン」で検索すると、最初のページは全部「ザ・テレビジョン」と言う雑誌に関する結果。

3ページ目になって「テレビジョンとは - コトバンク」が出てくる。
人それぞれで検索結果は違うのかもしれない。

 

さて、今読んでいる「10年後の仕事図鑑」という本に次のような一節が出てくる。

 

  

 

「インターネットによって時間と距離をコンテンツが超えた」

 

 

 

なぜ「テレビジョン」という言葉をグーグル先生に尋ねたのか?

 

「時間と距離を超え・た・」のはテレビジョンではなかったの?

ずっとそう思っていたから。

 

過去のことをまるで今起きていることのように見ることができる。・・・時間を超えた。

遠い国で起きていることを間近で起きていることのように見ることができる。・・・距離を超えた。

それがテレビジョン。

だったはず。

 

「テレビジョン」という言葉は、

「tele」・・・遠く離れた

「vision」・・・視界

の合成語。

 

この遠く離れたという言葉の意味は、言うまでもなく距離的だけでなく時間的という意味も持っている。

 

ではこの本に書かれている、

「インターネットによって時間と距離をコンテンツが超えた結果」

というのは、テレビジョンのそれとはどう違うのだろうか?

 

その疑問を解決したい。

 

ということで、テレビジョンという言葉の意味を確認したかった。

 

「vision」・・・視界

というのは、見る、見えるもの。

どちらかと言えば自然に見えてくるものという捉え方でいいのかと思う。

もちろん見ようというある程度の意志は必要だけど。

 

そしてそれが視界に入ってくるという他動的なものではなく、より意図的に観るに変わってきているかもしれない。

 

それでは「tele」・・・遠く離れた、という言葉は?

 

時間的にも距離的にも遠く離れたものを見るということに変わりはない。

 

しかし、これは時間的にも距離的にもその範囲の違いということに格段の差がある。

 

とはいえ「時間と距離をコンテンツが超えた」という言葉に違いはない。

 

ということはどういうこと?

 

テレビジョンは何度も言うように簡単に言えば「遠くのものを見る」

ただし、見る時間見るコンテンツは時間割で決まっていて、それが電波で送られてきて、その範囲内から選んで見る。

 

それが、見たいものを好きなように選んで好きな時間に見ることができるのが今の時代。

 

それを、「時間と距離をコンテンツが超えた」というのだろう。

 

 

テレビジョンの技術者として一つ小言を。

 

「時間と距離を超えたコンテンツ」の中には技術の欠片も見えないコンテンツも多々見受けられる。

それを斬新と言うにはちょっと違うだろといいたい物がほとんど。

 

少なくとも旧くから受け継がれてきた技術がサラリと当たり前のように基礎として備わっていてほしい。

 

以前、専門学校の講師として教えていたクラスの子の作品をいとうせいこうさんに見てもらったことがある。

 

「出演者が笑いながらでは、いくら面白いことでも、それは違う。それがまずダメでそれ以降見る気にならない。面白いことを真顔でやって、それを見る人が笑ってはじめてお笑いだ。」

と、見事にダメ出しされた。

 

もう一つ、成功しているユーチューバーの成功の秘訣の一つに、一人でやっているからカメラを動かす人がいない。ということがある。

ブレブレのカメラだったらそう長く見ていられるものではない。

 

なかなか言うことを聞いてはくれなかったけど、大学の特任教授時代に教えていたクラスでのまず最初の僕の教えは「カメラを動かすな!」でした。

「カメラを止めるな!」ではないですよ。(笑)

止めるなに違いはないんですが、録画を止めるなではない。(笑)

 

そのような、お笑いの基本、技術の基本、があってはじめてコンテンツとして観てもらえるのであって、そのような基本はやはり伝統的な技術なんですね。

 

などと煩く言う僕は老害だと言われかねませんね。_| ̄|○

 

 

さてでは「インターネットによって時間と距離をコンテンツが超えた」今、かつて「時間と距離を超えた」テレビジョンとは何なのだということを再定義してみようじゃないですか。
そしてあらためてテレビジョンの力を見せつける時です。
オワコンだなんて言わせてちゃダメですよ。
見返そうよ。テレビのみんな!