シン・ゴジラ、観ました。
これぞゴジラ映画。平成28年9月末現在、公開2か月で興行収入53億円超の大ヒットになっています。
ここからネタバレになりますのでまだ観ていない方はご注意ください。(私としてはできるだけ予備知識のない状態の観覧をお勧めします)
まず、映画のつくり。ドキュメンタリーと言っていいタッチです。シン・ゴジラは、①登場人物の多さ、②情報量の多さ(通常の映画に比べセリフの量が1.5倍、厚い台本だった、と)というところだけみてもドキュメンタリー映画に近い、というのがご理解いただけるのでは、と思います。ゴジラ出現!(最初は「巨大不明生物」と呼ばれます)となったときに、対応する省庁、機関として、膨大な人数が必要になります。例えば閣議の様子を描こう!とした場合、総理以下の閣僚、それぞれの大臣につく補佐官、省庁の担当者、意見を求められる有識者など…大人数になるのは必然です。今回役名がついたキャストだけで300人を超えた、というのもうなずけます。筆者はシン・ゴジラを一回しか見ていませんが、特にあらすじに関係ない登場人物だな、と思ったのは、片桐はいり演じる、掃除のおばさん、くらいでした。
ゴジラクラスの未知の動物が出現!となるとどうしてもそれの対処に携わる人数が多くなります。しかもそれぞれ映画の中で黙って立っていればいいわけではなく、なぜその人物がそこにいるのか、つまりその人はゴジラに対してどうかかわっていてどんな立ち位置になるのか、その人はゴジラに対して何をしようとしているのか?をそれぞれの口から説明させなければならない。そりゃ、セリフは増える…
さらに興業的な要請が加わります。興業側の本音としては、「面白くて短い(=回転のいい)」映画が望ましい。いくらこの映画が良い出来でも3時間を超えるものだったら、興業的に成功するのは難しい。昨今のハリウッド映画は全編90分程度、15分に一度の盛り上げ、という作りになっているそうです。(岡田斗司夫「オタク学入門」…確か)
シン・ゴジラでは役者さんは早口できれいにセリフをしゃべることが要求されました。
私が映画を観終わった帰りがけ、通路の前を歩いたおばあさんが「会議ばっかで怪獣あんまりでなかったねぇ」と連れのお孫さんとおぼしき子供たちに話していたのが印象に残っています。その通り!会議シーンとセリフが多い映画なのです。
従来のゴジラ映画には、ヒーローとヒロインがいました。今回はそのような恋愛要素、ちゃらちゃら要素はなし。そんなことにセリフを割く余裕がない、というのが本当のところではないでしょうか。
ゴジラ映画ですっとばされてきた論点。「なぜゴジラが出現したのか。ゴジラはどうして生まれたのか?」
1998年のハリウッド版ゴジラでわずかに、「なぜコイツが?」という問いに、「進化した、最初の1匹なのだ。だからゴジラの前にはゴジラはいない」と説明される程度。
シン・ゴジラでは「なぜ?」よりも「どうする?」にウェイトが置かれているので出現の理由までは説明してくれません。(そこまで「セリフで説明」となるともっと台本は厚くなったでしょう)
それをシン・ゴジラではビジュアルで説明しています。第一形態を皮切りに生物として進化し、大きさも大きくなっていく。ハリウッド版ゴジラも含め、映画にでてくるときには生物として完成形だったものが、シン・ゴジラではどんどん形を変えていく。画像で見せることでゴジラは今まで地球上にいる生物とは違うもの、未知の脅威、なのだ、という説明がされていると思います。
これをゴジラ本人の立場で考えたらどうでしょう。まあ、「人」ではないですけども…
自分がどんな生物なのか。何になっていくのか。本人にも解らない。
私が感じたのは「生まれてしまった哀しみ」。
大田区の呑川を遡るシーンでのゴジラの眼は大きく見開かれています。自分でも自分が制御できない、自分でも何が起きているのかわからない、と訴えているように思います。
(ちなみに大田区呑川近辺は私の小学校の頃の生活圏で「そこにゴジラが…」と思ってみるとものすごいリアリティがありました。隅田川でも荒川でもなく、呑川…)
そして完成形となったゴジラの眼は小さく、そこに感情の動きは見えません。育ってしまった自分がこれからどうしていくのか、困惑しこれからの自分の未来から目を背けているかのようです。本人も混乱しているはずです。その混乱した頭の中で理解できるのは自分が周囲から祝福され、受け入れられる存在ではないこと。生物として成長したとたん、自衛隊の総攻撃を受けるのですから…
内から身を焼く放射能の熱。その苦しみ。そしてそれはほとばしり出るように外へ放出されます。いままでのゴジラ映画で放射能を吐くのはゴジラの怒りだったと思います。それに対してシン・ゴジラで感じるのはゴジラの「哀しみ」と「恐れ」です。
ゴジラ第一作は1954年、終戦9年目の公開でした。終戦後、復興の途についたばかりの日本が再びゴジラに蹂躙されたわけです。
警察予備隊、保安隊を経て、自衛隊法が制定され、自衛隊が発足したのも1954年でした。自衛隊発足は7月1日。ゴジラ封切りは11月3日。発足わずか4か月で自衛隊はゴジラ対策に出動したことになります。
その後、時間は下ります。冷戦が長く続き、自衛隊の存否の話、防衛能力や安全保障条約などややこしい話になると、「いやゴジラが出たときのためにも自衛隊がないと…」というジョークが語られてきました。
その後ソ連崩壊により冷戦は終了。9.11テロと3.11東日本震災により国民の自衛隊に対する目線は大きく変わりました。率直に言うとどうしても日陰の存在だった自衛隊が国を守る、国民を守る、という本来の位置についた(私の気持ち、印象の上の話です)感があります。
太平洋戦争の敗戦から復興した日本。東日本大震災のとき、ガラスが破れ停電したコンビニに列を作って買い物をする姿に日本という国の特性、日本人の民族性が凝縮していると思います。他の地域だったらすぐ略奪が始まっていたところでしょう。
先にオタクの話が少し出ましたが、その長い戦後の間にすこしずつクールジャパンとして確立したもの、それはアニメであり、怪獣でだったのではないでしょうか。(もうひとつアイドルという分野があるけれど)
そしてそのクールジャパンの一つの完成形、それがシン・ゴジラ。
映画「シン・ゴジラ」は戦後70年という時間をかけてようやくこの形に落ち着いたのだと思います。CGなど制作技術の進歩を待たなければならなかったという側面もありますが、観る側がようやくシン・ゴジラを受け入れられるようになった、という意味で。
映画の中で理不尽にもゴジラに街を破壊され、多大な被害を受ける日本。しかし、それを受け止め、飲み込み、また淡々と復興に向かうだろう日本。映画の中ではこの部分はわずか数秒の避難所のシーンで語られています。
そのときそこに自衛隊がいないと復興はできない。
日本人も、自衛隊も、シン・ゴジラを受け止めるためには戦後の長い長い時間と東日本大震災をはじめとする試練を必要としたのではないでしょうか。
今回の総監督庵野秀明氏はエヴァンゲリオンシリーズの監督としても知られています。エヴァも「理不尽な破壊」にさらされる日本が舞台です。
昔々。筆者がサラリーマンだったとき、ある理屈の通らないことがあり、怒りのままに上司に食って掛かったことがあります。
「こんなこと、理不尽です!」
そのとき上司の返答は、「ん?会社とは理不尽な存在だ」でした。頭に血が上っていた私は毒気を抜かれ、我に返りました。
会社の経営も同様です。「なぜだ?」と言いたくなる局面はいろいろあるはずです。しかし、多くの経営指南書が指摘すのは(私も同じことを言いますが)、
「ぐちっている暇に何か考えましょう」
「人のせい、と言っているうちは何も変わりません」
ということです。
シン・ゴジラにおけるゴジラの出現も理不尽そのもの。総理大臣は「なんでよりによってオレの任期の時に…」と思ったはずです。
「長年のお得意さんから取引を打ち切られた」「事故に巻き込まれ生産ができなくなった」など「なぜだ?」と言いたくなる局面は多々あるはず。しかしそれに拘泥するのではなく、「どうしていくか」にフォーカスするのが経営者の務め、と思います。
シン・ゴジラは、「新ゴジラ」とも「真ゴジラ」とも取れます。
日本映画史上に残る名作であることは間違いありません。
ドキュメンタリーであるが故に、そこから何を学ぶかは観る側に任されています。
怪獣が出現!を徹底的に被害者目線のドキュメンタリータッチで描いた映画に「クローバー・フィールド」があります。ある日突然NYに怪獣が出現。逃げまどいながらそれをビデオカメラで撮影していく、というものでした。「クローバーフィールド」の着想や音楽に「ゴジラ」が大きく影響しているそうです。
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