玉置神社 その歴史と異色の祠官「上平長矩」 | 70 racing project

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T.YOSHIKAWA Official blog

奈良県は十津川村
「神様に呼ばれないと辿り着けない」と言われるスーパーパワースポット『玉置神社』
平地は桜も散り四月もあと少し、もう春というより夏の暑さが早々とやってきた感じです
今月は十津川の少し開花の遅いとある場所の桜に合わすつもりで、4月19日に玉置山登拝に行ってきました
前日まで忙しかったせいで朝が辛くいつもより遅い出発となってしまい、玉置神社の駐車場に到着したのはもう10時前
急いで用意して快調に頂上を目指します
気候もよく最近少し体重が落ちたせいか体調も良く、今日は足取りも軽やかで気持ちの良い山歩きでした
山頂手前の石楠花のトンネルまで来ると、鐘の音と話し声が聞こえてきました
神社から登ってこられた方たちに出迎えられての山頂到着です
黄砂の予報が出ていたので期待はしていませんでしたが、海は霞に覆われて観望できませんでしたが宝冠の森ははっきりと見えました
風もなく暖かくて気持ちの良い山頂です
皆さんのお邪魔をしないよう早々に下山、玉石社から神社に降りてお参りを済ませ、御朱印を頂いて4月の玉置山登拝を無事に終えました

 

 

令和2年(2020)から始まった私の玉置山登拝も一応の節目ということで、今回はもう一度玉置神社の歴史を特に近代にスポットを当てながら、たどってみたいと思います
玉置山直下の玉石社は、初代天皇神武の東征で熊野から大和へ向かう際に立ち寄り、必勝を祈願したと伝えられています
また神武を導くためにヤタガラスが現れたとの記述があり、一行が辿ったルートや険しい山々の案内が可能であったということから、このヤタガラスが十津川の人々の先祖ではないかと言われることもあります

私が注目する点は、玉石社から山頂を抜ける道は五百瀬を経て紀の川へと続いていることです
玉置神社としての創建は第10代崇神天皇在位61年目とされています(紀元前37年)
40代目の天武天皇の吉野挙兵(672年・壬申の乱)に十津川の民が出陣し、大きな功があったということで十津川が諸税勅免地となったと伝わっています

 


 

・中世史
1691年(元禄4年):蓮華光院門跡の支配下に入る
1727年(享保12年):聖護院門跡の配下に入り、別当高牟婁院が建立された
十津川郷の総鎮守であったが、近隣村の山林を横領したので住民と疎遠となった
・近代史
1868年4月:十津川郷民惣代の願で玉置三所大神と称する 6月までに仏具を廃した
1868年7月:神祇官、玉置神社の称を許可
1868年8月:高牟婁院敬純が還俗退去
1871年  :全村あげて神葬祭に改宗
1872年2月:村内全寺院の廃止を請願
1873年4月:村内全寺院の廃止を許可
1885年   :全村あげて出雲大社教に改宗した
1889年8月:大水害
1890年9月:十津川郷民、北海道樺戸郡新十津川町に入植
1891年1月:新十津川村の入植民、玉置神社の分霊を迎えて新十津川神社とする

1894年   :社殿造営
1910年9月23日:北海道樺戸郡新十津川町に出雲大社新十津川分院を創建

 

 

・社と祭神
本社:祭神は国之常立神・伊弉諾尊・伊弉冊尊・天照大神・神日本磐余彦命
若宮社:祭神は春日大神・八幡大神・住吉大神。『玉置三所権現社両部習合之巻』に記載あり
神武社:祭神は軻遇突智神・早玉男神・高倉下神。『玉置三所権現社両部習合之巻』に「神武社」の記載があり祭神は神武天皇・早玉男神・軻遇突智神でしたが明治6年11月、神武天皇は本社に遷座合祀されています
三柱神社:摂社で祭神は倉稲魂神・天御柱神・国御柱神。三柱大明神 三柱稲荷神社と呼ばれ玉置山の地主神『玉置山権現縁起』に「三狐神」(みけつかみ)として記載
玉石社:末社で祭神は大巳貴命『玉置山権現縁起』に記載あり
白山社:祭神は菊理媛神『玉置山権現縁起』に記載あり
大日社:大日堂『玉置山権現縁起』に記載あり現在の祭神は役小角
水神社:祭神は真王水神で現在は真名井社と呼ばれています
三石神祠:祭神は磐裂神・石析根神・軻遇突智神
山ノ神:祭神は大山祇命
神輿殿:修復中
神楽殿:建在
社務所:修復中 神殿(旧護摩堂)があるらしい
出雲大社玉置教会:建在
勝手社:廃絶
子守社:廃絶『玉置山権現縁起』に記載あり
金剛童子堂:廃絶『玉置山権現縁起』に記載あり
蔵王堂:廃絶
六所社:不明
不動堂:不明
行者堂:不明
御旅所:参道沿いにあります

 


 

一般には玉置神社は古来十津川郷中の祖神を祀り、また十津川全郷の総鎮守とされ、玉置三所皇大神或は玉置三所大神と崇められています
この三所は国常立尊、伊弉諾尊、弉冊尊の三柱で各諸縁起と一致するところで、鎌倉時代末には既に称えられていたと思います
他の縁起も見ていくと『玉置山縁起』には草創由来の中に三柱の神を述べ、右三社は一殿にこれを祀ると記しています
また本社の外に、三狐神社、玉石社・若宮・六所宮が祭られていて、三狐神社は倉稲魂神・天御柱神・国御柱神を祭り、ここに風の神を見るは注意すべく稲荷の俗信仰が篤くなると本社に次いで重んぜられるとしています
玉石社は地主神で大己貴命を祀りますが、社殿が無いことも注目ですが、なぜ地主神が大己貴命なのかは不明です
白山社には菊理媛命を、若宮には大山祇命を、六所宮には子守・勝手・蔵王・伊勢・春日・住吉の諸神を祀るとされています
また六所社、不動堂、行者堂の情報をご存知の方がいらっしゃればコメントいただければ幸いです



 

異色の祠官(しかん)上平 主税(かみだいら ちから)
上平 主税(かみだいら ちから)は文政7年9月14日(1824年11月4日)、十津川村野尻に生まれました
幕末の勤皇志士で十津川郷士
諱(いみな)は長矩(ながのり)
父のすすめで若くして紀州松岡梅軒に医術を学び、また京都において国学を修めます
その後、梅田雲浜に師事し勤皇活動に奔走
文久3年(1863年)3月、十津川郷の代表として、古代より勤皇の志が篤い十津川郷士が京都御所の警衛をすることを願って久邇宮朝彦親王(中川宮)に建白書を提出
これを許されると、中井庄五郎などの郷士を率いて御所の警衛に当たりました
在京中は、薩摩藩邸に出入りし、西郷隆盛、坂本龍馬など諸国の志士と交流を持っていました
文久3年8月17日(1863年9月29日)、大和国において天誅組の変が起こり、多くの十津川郷士がこれに参加しますが、八月十八日の政変により天誅組に追討令が出されます
主税は中川宮の命を受けて急ぎ京都から十津川郷に戻り、十津川郷村の代表者を集めて、京都の情勢を説明しました
十津川郷士は天誅組からの離脱を決意し、天誅組と行動を共にしていた郷士は帰還、更に郷内での戦闘を回避するため天誅組に十津川からの退去を求めました
元治元年文武館開館に際して、師儒宮中沼了三を案内し、吉田正義と折立の開館式に参列しています

 


 

維新後の明治2年(1869年)、十津川郷士らにより横井小楠(よこい しょうなん)が暗殺されると、これに関わった罪で伊豆新島へ終身流罪となります
流刑中の新島では医業を生かし種痘をするなど、多くの島民や流人の命を救い、又手習師匠をする等新島の恩人と尊敬されました
新島には今も主税の在島記念の流人塔が、門人によって建てられています
碑面には
大君の恵みにもれぬ民なれば
  あしきをよきに かえせ罪人
と刻まれ、側面には大和十津川郷士上平主税と記されています
明治12年(1879)3月、特赦により島民に別れを惜しまれながら10年振りに故郷に帰り、医業に従い親に孝養を尽くしました
明治20年(1887)郷社玉置神社の神官となり、24年(1891)3月20日、玉置、松平にて67歳の生涯を閉じました
亡くなった当夜も折立で氏子たちと盃を交わし、機嫌よく玉置山に帰って行ったそうです
宅があった松平は玉置山頂から玉置川の方に少し下ったあたりで、今は廃村となっています

上平が宮司を務めた時期がちょうど大水害と重なっているのは、偶然と言うには短絡すぎるように思います

使命というか主税の性格を考えれば、命をすり減らして郷のために動いた姿が目に浮かびます
彼の墓所は十津川村野尻に帰葬され、玉置山の頂上近くには「上平主税碑」があります
主税は早くから勤王の志篤く、神道を敬い、王政復古を願いました
「身体は小柄なるも識見高く、機をみるに敏、策を樹つる事速、十津川の知恵袋」といわれ、常に郷士たちのリーダー的存在として活躍しました
主税亡き後、孫の上平喜晴も新島に渡り、島民の医療に尽くしたそうです
浜野卓也作「孤島に日はのぼる。」(PHP研究所)は上平主税を、赤座憲久作「医者ザムライとそのまご」(文研出版)は上平喜晴の事を書いた出版物です
ご興味のある方はぜひ読んでみてください



 

今回は玉置神社の近世における出来事の振り返りと、玉置神社の神主が西郷隆盛や坂本龍馬と並ぶバリバリの勤王の志士であったというお話でした
ちなみに天満屋事件で憤死を遂げた居合の達人、中井庄五郎も上平と同じ十津川村野尻の出身で、墓所も野尻の墓地の主税と同じ場所に眠っているそうです

また京都の勤王の志士の墓地にも、仇討ちするほどに慕った龍馬の傍らに祀られているようです

わずか21歳で死を遂げたようで、画像は探しても見つかりませんでした(なので坂本龍馬)

確か龍馬から贈られたという中井庄五郎の佩刀(はいとう)「青江吉次」とその時の龍馬からの添え書きが、十津川村歴史民俗資料館に展示されていたと思います
坂本龍馬はいつも私が、「酒を飲んでいなかったら命を落とさずにすんだろうに」と、酒飲みをたしなめる祭にいつも使わせてもらっています
龍馬は怒ってるかもしれませんが、私は本当にそう思っていて、狙った方は絶対にそれを計算に入れていたはずです
あぁ本当にもったいない、生きていればもう少し日本も変わっていて、廃仏毀釈で重要な仏像や建築物が失われることも無かったでしょう
中国やロシアにも得意の口車に乗せてうまく付き合っていたら、米英のアジア戦略も変わっていたかもしれませんよね

というか近世においても日本の節目にはやっぱり玉置山が係わっていた

あっ、冒頭の桜は見事な葉桜でした(笑)

さすがの老桜も異常気象に騙されたようです

でわでわまた