玉置神社 後白河院は34回も熊野詣に御幸されていた | 70 racing project

70 racing project

T.YOSHIKAWA Official blog

奈良県は十津川村
「神様に呼ばれないと辿り着けない」と言われるスーパーパワースポット『玉置神社』
波乱の令和6年もいよいよ春、寒の戻りもありますが春は確実に進んでいます
皆さんには言ってませんでしたが、今月は少し事情があって3月9日に玉置山登拝に行ってきました
この日はあいにく寒の戻り日に当たり、すごく寒い朝でした
山は薄っすら雪化粧、天辻峠は路肩に雪が見えますが、滑るほどでは無さそうでした
土曜日なので交通量が心配でしたが、早い時間に出発したので7時頃に玉置神社の駐車場に到着
流石に三連休の中日とあって、第一駐車場はほぼ埋まっていました
他にも予定があったので急いで用意して、霜柱で固まった登山道をギシギシ踏みしめながら頂上を目指します
葉の落ちた木々は吹きすさぶ冷たい風を凌ぐことは出来ず、みるみる体温が削がれていきます
尾根筋まで上がると風向きが変わったのかピタリと風が止んで体温を回復することが出来ました
頂上に着くと雲は多めですがわずかに見える青空から陽が差して、海は霞に覆われてますが宝冠の森はくっきり見えます
風も止んで陽の光が暖かく感じて何となくいい感じです
今朝は時間が早いせいも有り、人の気配を全く感じない静寂の世界を堪能できました
神社に下山する先も全く人とは出会わず、玉石社も独り占めでした
神社に降りてお参りを済ませ、御朱印を頂くのに社務所に行ったらまだ開いていなくて少し困りましたが、この超早朝参拝オススメです
そんなこんなで3月の玉置山登拝を、無事に終えることが出来ました

 

 

今回は前回ご紹介した和泉式部とともに参詣記念石塔が祀られる後白河院のお話です
後白河院は日本の第77代天皇(在位: 1155年8月23日〈久寿2年7月24日〉- 1158年9月5日〈保元3年8月11日〉)後白河天皇(ごしらかわてんのう)諱は雅仁(まさひと)、後に後白河上皇(1127年10月18日〈大治2年9月11日〉- 1192年4月26日〈建久3年3月13日〉として権勢を奮いました
上皇の撰述に成る『梁塵秘抄』は、歌集十巻、口伝集十巻の計二十巻であったと推定されますが、今日現存するのは、わずかに歌集巻一の断簡と巻二、口伝集巻一の断簡と巻十のみ
歌集はもちろん面白いのですが、口伝集も面白く、後白河上皇がいかに今様(宮廷で流行した歌謡)に夢中だったのかがわかります
遊女(あそび)や傀儡子(くぐつ)ら女芸人たちとの交流の様も見え、また歴代上皇最多となる33度もしくは34度に及ぶ熊野詣は熱烈な仏教信者ぶりも知ることができます
熊野御幸を行った上皇とその回数は以下のようになります

・宇多法皇…1回
・花山法皇…1回
・白河上皇…9回
・鳥羽上皇…21回
・崇徳上皇…1回
・後白河法皇…34回
・後鳥羽上皇…28回
・後嵯峨上皇…2回
・亀山上皇…1回

出家された上皇を法皇と呼び、僧侶であるため院の称号で呼ばれます

後白河院は、歴代の上皇のなかで最多の34回もの熊野詣を行うほどの熱烈な熊野信者でした
本地垂迹思想の浸透していた当時、熊野本宮は阿弥陀如来の浄土と考えられており、熊野信仰は仏教信仰の一形態でした
熊野を信仰することと仏教を信仰することになんら矛盾はなかったのです

 


口伝集には、1回目と2回目、そして12回目の熊野詣のことが記されています
1回目の熊野詣は、1160年、後白河院34歳のときのこと、前年12月には平治の乱が起こっています

私は永暦元年10月17日より精進を始めて、法印覚讃(かくさん)を先達にして、23日に出発した
25日、厩戸王子の宿で左衛門尉であった藤原為保(ためやす)は、自分が連れていた先達の夢に王子が現われ、「この度お参りになったのは嬉しいけれど、古歌を歌ってくれないのが残念だ」と、おっしゃったということを言った
「もとより道中の王子社では、歌舞の奉納などすることをするということだが、御所さまの今様などはあってしかるべきものを」などと言う近臣もあったが、
「あまり下賤の者が多いのにオープンなのも」 などと言う近臣もあってそのままになっていたが、この夢の話を聞いてあれこれ思案せずに歌うことにして、厩戸を夜遅く発って長岡王子に夜のうちに参った

そのときに、連れだっていた平清盛(のちの太政大臣。当時はまだ大弐と呼ばれていた)にこの夢のことを相談してみたところ、
「そのようなことがございますなら、それももっともなことです。とやかく申すまでもございません」というようなことを清盛は答えた
清盛は内心「雑人などがたいへん数多くいるので、どうか」 と思っているうちにふらふらと寝入ってしまったところ、夢うつつに正式の礼服をした先払いの者を連れた唐車(からぐるま。最上の牛車)が王子社の御前に止まるのを見た
(唐車には、王子が乗っているのでしょう 王子とは熊野権現の御子神。熊野権現の分身だと考えればよいと思います)
院の歌を聞いているのだろうかと思って、はっと目を覚ましたところが、今様を院が歌っている最中であった
その歌がこれ

熊野の権現は
名草の浜にこそ降りたまへ
若の浦にし ましませば
年はゆけども若王子

この話を清盛は資賢(すけかた)卿に語って、驚かれたことだった
先の先達の夢と後の清盛の夢。この二つが思いあわされて、人々は現兆だと言いあっていた
11月25日、幣を奉り、経供養・御神楽などを奉納しおわって、礼殿にて私の音頭で、古柳から始めて今様・物様まで数を尽くす間に、次々に琴・琵琶・舞・猿楽を尽くした
(古柳・今様・物様、みな今様の種類の名前らしいです)
初めての熊野詣のときのことである



2回目の熊野詣は1162年のこと

応保2年正月21日より精進を始めて、同27日に発つ
2月9日、本宮に幣を奉る。本宮・新宮・那智の三山に三日ずつ籠って、その間、千手経を千巻(1000回)転読してたてまつった
同月12日、新宮に参って、幣を奉る。その次第はいつもの通りである
夜が更けてからまた社殿の前へ上って、宮廻ののち礼殿で通夜、千手経を読んでたてまつる
しばらくは人がいたけれど、片隅で眠るなどして、前には人も見えない
通家が経を巻きもどす役をしていたのだが、居眠りしている

次々に奉幣なども終わり静まって、そろそろ夜半を過ぎただろうかと思われたころ、神殿のほうを見やると、わずかの火の光に御神体の鏡がところどころ輝いて見える
しみじみと心が澄んで、涙も止まらず、泣きながら千手経を読んでいたところ、資賢が通夜を終えて、明け方に礼殿に参りに来た
「今様が欲しいものだ。今ならきっと趣が出るよ」と、私は資賢に勧めたが畏まっているばかり
仕方なく、私みずから歌いだす

よろづのほとけの願よりも
千手の誓ひぞ頼もしき
枯れたる草木もたちまちに
花さき実なると説いたまふ

繰り返し繰り返し、何度も歌う
資賢・通家が和して歌う
心澄ましてあったせいだろうか、いつもよりもすばらしく趣深かった
覚讃法印が宮廻りを終えて、社殿の前にある松の木の下で通夜をしていたが、その松の木の上で、「心とけたる只今かな(いま、私の心はくつろいでいるよ)」と、神の歌う声がしたので、夢うつつともなく聞いて、びっくりして、慌てて礼殿に報告しに来た
 一心に心を澄ましていると、このような不思議なこともあるのだろうか。夜が開けるまで歌い明かした。これが2回目である。



次は12回目。1169年、院43歳のときのこと

仁安4年正月9日より精進を始めて、同14日に発つ。26日に幣を奉る
今度が12回目にあたり、出家の暇乞いを申しあげに参る
いつものように王子社での今様、礼殿での音楽などはたびたびあった
俗体では今回が最後の熊野詣になるだろうと思われるので、私ひとり両所権現の御前で長床に横になった
かがり火の光があって、ついたて・ふすまを少し隔てて、身分による区別もなく、かたわらに成親(なりちか)・親信(ちかのぶ)・業房(なりふさ)・能盛(よしもり)、前のほうに康頼(やすより)・親盛(ちかもり)・資行(すけゆき)、従者らが雑魚寝した

こちらは暗くて、かがり火の御神体の鏡、十二所権現おのおのが光を輝かして、神々の姿が映るかのように見える
あれこれの奉幣の物音が次々に聞こえる
神仏を供養する般若心経、もしくは千手経・法華経、各自の意向に応じて尊い
経供養のついでに、長歌から始めて古柳「下がり藤」を歌う
次に十二所の心の今様(おそらく熊野十二所権現のことを歌った今様)を、そののち、娑羅林・常の今様・片下・早歌、主だった歌はみな歌い尽くす
神歌などを歌い終えて、大曲のような歌を歌い、足柄・黒鳥子・旧川を終えて、伊地古を歌う

明け方に人がみな静かになって、人の音もしないで、心澄ましてこの伊地古を特別に歌ったところ、両所権現のうちの西の御前(結の宮)のほうで、えもいわれぬ麝香(じゃこう)の香がする
「これはどういうことだ。この香、嗅いだか」と成親は親信に言った
その座の人みなが不思議に思っていると、今度は神殿が鳴るような音響を立てた
「これはどうした」と また成親が驚いて言った
「ようにんのかりおほいしたるに、鶏の寝たるが音にこそ」と、私は言った

(意味がわかりませんでしたが、狸穴さんから「おそらく『用人の仮覆いしたるに』だと思います『使用人が、仮小屋を建てたところに、鶏が飛び乗って寝ようとした音』ではないか」とのメールをいただきました 
なるほど、そうかもしれないと思いました。ようにんは傭人かもとも思いました)」

神殿のすだれが、掲げて人が入るときのように動いて、それに懸かっていた御神体の鏡がみな鳴りあって、長いこと揺れていた
私達は驚いてその場を立ち去った。寅の時(午前3時~5時)であったであろう



後白河上皇はこの3度の熊野で起こった不思議な出来事を語っています
これを読んでわかったのは、神とは夢かうつつかの半覚醒状態の時に現われるものなのだということ
こんな今様もありますし

ほとけは常にいませども
うつつならぬぞあはれなる
人のおとせぬあかつきに
ほのかに夢にみえたまふ

(巻第二 26)

後白河上皇は、この口伝集の他にところで、今様についてこう述べています

「この今様、今日行われているのは娯楽一本というわけではない。心を尽くして神社・仏寺に参って歌うと、示現(神仏が霊験を現わすこと)を被り、望みが叶わないということがない。官職を望むことも、命を延ばすことも、病をたちどころに治すことも可能だ。」

後白河上皇の望むことは、極楽往生

「今はよろづを抛(な)げ棄てて、往生極楽を望まむと思ふ。」

そのための34回にわたる熊野詣だったのでしょうか
後白河上皇は、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代にわたって院政をとり、武家勢力に対抗しつづけたしたたかな政治家でもありました
後白河上皇は、その権謀術策により、平家や木曽義仲や源義経や奥州藤原氏を滅ぼし、源頼朝には「日本一の大天狗」と恐れられました
そのような権謀術策ぶりと、ただただ極楽往生を望むという姿は、なんだかイメージ的にそぐわないような気がしますが、かえってあくどいことをしている人間のほうが本気で極楽往生を願うものなのかもしれません
今様に夢中のうつけ者の皇子が成りゆきによって天皇となり、上皇となり、武家勢力と相対峙することになったものの、そのような政治的なことよりも、ほんとうは今様を徹夜で歌いあかしたり、今様の名手の女芸人に歌を習ったりすることのほうが性に合っていたのでしょうね
後白河上皇、最後には頼朝に地頭職を握られ、院政の財政的な基盤を切り崩されてしまいます



 

今回のお話はいかがでしたか

在位期間からすると34回は相当の数になりますね!

ちなみに後鳥羽上皇は10ヶ月に1回の計算になるそうです
私は後白河上皇といえば西田敏行さんのイメージが強かったのですが、これを書いている時にうってつけの配役であったことに気付きました
鎌倉殿の13人はストーリーが歴史にそぐわない部分が多く見受けられ、私の評価は低かったのですが、三谷幸喜さんを改めて見直す機会にはなりました

後白河法皇と後鳥羽上皇の熊野御幸回数は熊野別当(僧兵)勢力を掌握するためでも有ったようで、院政の破綻がその後の護良親王事件へと繋がってゆくのです

後白河院が34回の熊野御幸のうち玉置山まで何度来られたかは不明ですが、当時の玉置神社の状況からすると毎回訪れられた可能性が高いと思われます

別当が籠を担いだのかそれとも馬か、どうやって登って来られたかも興味があるところです
 

でわでわまた