玉置神社 「光る君へ」に和泉式部は出てこないの・・・? | 70 racing project

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T.YOSHIKAWA Official blog

奈良県は十津川村
「神様に呼ばれないと辿り着けない」と言われるスーパーパワースポット『玉置神社』
令和6年も早2ヶ月が過ぎ、寒の戻りの寒さも春は確実にそこまできているようです
先月のお話になりますが、三連休となった天皇誕生日の翌日、2月24日に玉置山登拝に行ってきました
前夜に雪が降ったようで、行路の山々も薄っすら雪化粧
天辻峠の路面は融雪剤が撒かれていて黒光りしていますが、滑るようなことは無さそうでした
交通量も多く少し時間がかかって、9時ぐらいに玉置神社の駐車場に到着
さすがに三連休の中日とあって、第一駐車場はほぼ埋まっていました
そそくさ用意して、いつも通り登山口から薄っすら雪化粧の登山道を、頂上を目指し登リます
木の葉や枝に積もった雪が、早朝の寒さで凍って樹氷となってキ、ラキラ輝いてすごく綺麗です
今日のお天気は晴れですが、雲は多めで頂上の景色は期待出来ないなって思っていましたが
頂上に着いた途端、思わず声が出てしまったぐらいに過去一最高の景色が待っていました
輝く熊野灘を一望どころか、その上に雲海が掛かり、さらに周りの樹氷が朝日に溶けはじめキラキラ輝いています
動画と画像をUPしておきますが、誠に申し訳無いですが、実際に私が見た光景の1/10ぐらいにしか写っていません
まさに天国の景色、ずっと見ていたいと思っていましたが、儚くも三連休の人の波にかき消されてしまいました
初めて来てこの景色を見れた人は、もうそれだけであなたの人生は大成功だったと言いたい
その後降りた神社も人人人の波で、御朱印頂くのに1時間近く並んで、ちょっと大げさかな(笑)
報告が遅くなりましたが、二月の玉置山登拝と玉置神社への月詣を無事に済ませてまいりました

 

 

NHKの今年の大河ドラマ「光る君へ」のキャスティングでふと思ったこと

実は私「光る君へ」を見てなくってというか、今まであまりこの時代に興味がなかったというか、源氏物語はドロドロという先入観があって回避していました

今回たまたま何で?と思って興味が湧き、自身の勉強のためにもといろいろ調べてたら、和泉式部のほうが紫式部より100倍面白いということがわかりました

紫式部と和泉式部は、中宮彰子(ちゅうぐう しょうし)の女房として、ほぼ同時期に宮仕えをしています

現代風に言えば職場の同僚のような形で、面識がないはずは無いと思われます

清少納言の方は宮廷出仕していたのがもう少し前で、和泉式部が出仕を始めた時にはすでに宮廷から去っていて、宮廷での関りは無かったと思われます

ですが、全く面識が無かったかというとそうでもなく、晩年は清少納言とも交流があったようです
和泉式部がキャスティングされていない「光る君へ」ですが

第十回終了だけど今からなら、まだ見ても間に合いそう

そしてまたまた偶然というか、知ってはいましたが今まであまり気に留めていなかったこの場所

みなさんは玉置神社に和泉式部参詣記念の石塔があるのをご存知でしょうか
玉置神社のホームページの説明書きには
「古来より熊野三山奥宮として信仰が厚く、数々の行幸があると伝えられる。両側の(下の写真)石塔は、後白河院、和泉式部参詣記念として建てられたものである。」

和泉式部も玉置神社に来てたんですよね!

堂前の左が後白河院参詣記念石碑、そして堂内には後白河法皇供養塔とされる石造宝篋印塔1基堂前の右が和泉式部参詣記念石碑、そして堂内には和泉式部供養仏とされる地蔵石仏2体が安置

もしかすると地蔵尊の1体は小式部内侍かもしれませんね



 

和泉 式部(いずみ しきぶ、天元元年〈978年〉頃 - 没年不詳)は、平安時代中期の歌人で、越前守・大江雅致の娘
百人一首の歌人で、中古三十六歌仙そして女房三十六歌仙の一人です
今回はそんな和泉式部について書いてみました
本名そして正確な生没年ともに不明です
和泉式部の「式部」は、雅致が文章生出身の式部丞だったからとする説が有力です
(和泉は和泉守・橘道貞の妻だったから)
和泉式部は越前守・大江雅致と越中守・平保衡の娘の間に生まれます
父の大江雅致は、一説では大江匡衡の兄であるとされています
鎌倉期に成立した『中古歌仙三十六人伝』では、御許丸(おもとまる)と呼ばれ太皇太后宮・昌子内親王付の女童だったらしい(母が昌子内親王付きの女房であった)としていますが、和泉式部は『和泉式部日記』の中で宮仕えについて「ならひなきありさま(経験のない様)」と述べているため、否定されています
母の父・平保衡は、『尊卑分脈』によれば平元規の子とされ、子(和泉式部のおじ)に平祐挙がいます
和泉式部には、姉妹が何人かいたことが歌集・『和泉式部正集(正集)』などから判明しています
「岩躑躅いはねばうとしかけていへばもの思ひまさる物をこそ思へ(正集・六九八)」の詞書には、人に知られず物思いをすることがあった折に「はらから」に歌を送っていることが記されており、相談内容から姉であると考えられます
姉と思しき女性は、斎院・選子内親王の許に出仕しており、『後拾遺和歌集』の歌人である中将・中務姉妹の母にあたります
また、大江匡衡と赤染衛門の間の子・大江挙周と交際していたらしい女性が『赤染衛門集』から判明しており、挙周と女性ではなく、和泉式部と赤染衛門がもっぱら贈答を交わし、恋の主導権を握っているため、こちらは和泉式部の妹であると考えられます
もう1人、藤原有家に嫁した女性もいましたが、和泉式部と年齢の開きがあるため、異腹の妹と推測されています
『正集』には春夏秋冬+恋に部立された「百首歌」が見えますが、これは橘道貞との婚姻以前の正暦4年(993年)前後に詠まれたと考えられています
長保元年(999年)頃までに和泉守・橘道貞の妻となっています
この婚姻は、父・雅致が計ったものであったとされています

 


後の女房名「和泉式部」は夫の任国・和泉国と父の官名を合わせたものです
長徳3年(997年)〜長保元年(999年)の間には娘の小式部内侍が誕生しています
『正集』によれば、この頃に「幼き稚児(小式部内侍)の病みけるを、あはれと思ふべき人」に対して歌を送っていますが、この人物は橘道貞と見られ、和泉式部と小式部内侍は同居して京都におり、道貞のみが和泉国へ下向していたと考えられます
和泉国に下向した後の橘道貞と和泉式部は、歌を送り合っており、また、長保元年(999年)には、橘道貞亭で一家をあげて太皇太后・昌子内親王の看病に当たっていたため、この時点では2人の夫婦関係は良好であったと見られます
道貞との婚姻は後に破綻しました(後述するように離婚状態にはなっていなかった)が、小式部内侍は母譲りの歌才を示しました
冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝されますが、身分違いの恋であるとして親から勘当を受けました
為尊親王の死後、今度はその同母弟・敦道親王(帥宮)の求愛を受けました
親王は和泉式部を邸に迎えようとし、正妃(藤原済時の娘)が家出する原因を作りました
また、源雅通との交流も『正集』に見え、歌の内容からして、一時恋愛関係にあったと見られ、加えて、『和泉式部日記』では「治部卿(源俊賢か)」の存在も噂されていました
為尊親王が和泉式部を伴い、藤原公任の白川にあった別業を訪ねていますが、『公任集』には和泉式部を「道貞妻」と記されており、正式には未だ橘道貞と和泉式部が結婚状態にあると認識されていたことがわかります
同じく『公任集』によれば、和泉式部は、寛弘元年(1004年)に道貞が陸奥守となり陸奥国に下向する際に歌を贈ったと記されている。
和泉式部は敦道親王の召人として一子・石蔵宮永覚を儲けますが、敦道親王は寛弘4年(1007年)に早世しました
寛弘年間の末(1008年 - 1011年頃)、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕
長和2年(1013年)頃、主人・彰子の父・藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し夫の任国・丹後に下っています
保昌は左馬頭でもあったため、上京している際は1人で丹後に滞在していました



 

和泉式部の詳しい晩年の動静は不明ですが、『誓願寺縁起』によると、万寿2年(1025年)に和泉式部は娘である小式部内侍を失っています
そして、和泉式部は娘の菩提を弔いつつ自らの往生も考えるようになり、播磨国書写山圓教寺の性空上人を訪ねることにしました
そこで女人往生のすべを乞うたといわれています
娘を亡くした愛傷歌は胸を打つものがあります
「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月」は、性空上人への結縁歌であり、式部の勅撰集(拾遺集)初出歌で、仏教への傾倒が伺われます
また歌の返しに性空から袈裟をもらっています
京都に戻った和泉式部は、性空上人の教えをもとに誓願寺に入ると、本尊の阿弥陀如来に帰依して出家し、専意法尼という戒名を授かった、といいます
次に誠心院(せいしんいん)の寺伝によると、万寿4年(1027年)に専意法尼(和泉式部)が長年仕えてきた上東門院(藤原彰子)が、父の藤原道長に専意法尼のために一宇を建立するように勧めると、道長は法成寺の塔頭・東北院の一角(現・京都御所の東、荒神口辺り)にお堂・小御堂を建立して「東北院誠心院(じょうしんいん)」と名付け、専意法尼を初代住職とさせ、これが誠心院の起こりとされています
その後、専意法尼(和泉式部)は性空から貰った袈裟を着用し、命を終えたといわれています
戒名は誠心院専意法尼
いずれの伝承においても性空は万寿以前の寛弘4年(1007年)に遷化しており、あくまで伝承である点に留意が必要です



 

『正集』に集首されている、「この世には いかがさだめん おのづから 昔をとはん 人にとへかし(正七九七)」の歌は、とある人物に「どの男の子供であったと決めましたか」と尋ねられた際の返事であるが、小式部内侍が生まれた時のものとする説が存在します
しかし、和泉式部の子として確認できるのは小式部内侍と石蔵宮の2人ですが、2人とも父親がわからないような状況で生まれた子ではないため、2人以外にも子供を産んだ機会があったと推察できます
時期は、道貞と別れ帥宮と付き合う前か、帥宮の死後、保昌との関係が安定する前であると考えられます
和泉式部の和歌には特徴があり『古今和歌集』では、「恋し」「恋す」などの恋の感情・行為の主体は男性であると決まっていて、『後撰和歌集』や『拾遺和歌集』でもそれは変わりませんでした 
しかし、以上のような平安和歌世界において、突出していたのが和泉式部でした
題詠においても、贈答歌においても、「恋し」「恋す」などの恋愛における主体的な言葉を多く用いており、男性中心の言葉を自在に詠みこなす点が、突出した女流歌人であったと言える理由の一つでした



 

和泉式部は、後に紫式部(『紫式部日記』)に「口に任せたることどもに、必ずをかしき一節の、目にとまる詠み添へ侍り」と言われているため、「天才肌の歌人」というイメージが定着しています
しかし、一方で、彼女は先行詩歌から表現や歌材、詠出手法を学んでいた痕跡も窺えます
『正集』の冒頭には春夏秋冬+恋という部立が設けられた「百首歌」が見られるように、和泉式部は「曽禰好忠や源重之、源重之女の「百首歌(いわゆる「初期百首」)」を学んでおり、彼らの歌に類似しながらも、詠まれた世界は異なるという彼女の力量を著した歌を『正集』に残しています
和泉式部は「百首歌」によって、百首歌人の「先行歌に対し、ある時は歌材やその境地を共有し、ある時は新たな要素を付加して展開させ、ある時は反発してみせる」という作歌手法や、『万葉集」以降の先行歌を徹底的に学ぶ姿勢の影響を受けていました
和泉式部は『後撰和歌集』も学んでおり、天智天皇の「秋の田のかりほのいほの苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ」の歌を基にした「秋の田の庵にふける苫をあらみもりくる露のいやは寝らるる」を詠んでいます
和泉式部の歌学びは詩歌の世界にも及んでおり、『紫式部日記』に「その方の才ある人、はかない言葉の匂ひも見え侍るめり」とあるように、和泉式部は漢詩文の教養もあり、詩的な世界を下敷きにして作歌してもいます
例えば、「岩躑躅折りもてぞ見る背子が着し紅ぞめの衣に似たれば(正集・十九)」という歌がありますが、躑躅は『白氏文集』や『千載佳句』、『和漢朗詠集』などで取り上げられており、漢詩の世界ではポピュラーな景物でした
この他にも和泉式部は、『万葉集』や『伊勢物語』も学んでいました
『和泉式部続集(続集)』には、ある人から「万葉集しばし(『万葉集』を少しの間お借りしたい)」と申し出があったことが記されています
この時、和泉式部は『万葉集』を所有していませんでしたが、返答として「かきのもととめず(書き留めていません)」と述べており、「『万葉集』を一旦は手元に置き勉強したこと」、「柿本人麻呂を連想させる返答をしていること」がわかります
『袋草子』には、『伊勢物語』の伝本の中に「泉式部本」があったことが記されています



 

また和泉式部には、若い頃から歌人達との交流が見られます
例えば大江嘉言です
嘉言の歌集である『嘉言集』の中に、「花心静かならず(嘉言集・一一四)」、「春の小松、緑をます(嘉言集・一一五)」という題を持つ歌がありますが、『正集』にも「春の時静かならず、雨の中に松緑をます(正集・四五〇)」のように、同題と思しき詠歌が見えます
これらがいつの時点の詠歌なのか、同席していたのかいないのかは明らかではないですが、嘉言と和泉式部との交流を想定するには十分でしょう
また、嘉言や和泉式部の歌と同題と思しき和歌は、嘉言と交流のあった源兼澄の『兼澄集』にも見られ、3人が同時に同題を詠みあうこともあったと考えられます
他にも、藤原長能や源道済との交流も『長能集』や『道済集』、『正集』に見られます

恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評されています
また同僚女房であった紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評されました(『紫式部日記』)。
真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多くみられます
才能は同時代の大歌人・藤原公任にも賞賛され、赤染衛門と並び称されています
敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記『和泉式部日記』がありますが、これは彼女本人の作であるかどうかは疑わしいです
ほかに家集『和泉式部正集』『和泉式部続集』や、秀歌を選りすぐった『宸翰本和泉式部集』が伝存しています
『拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に246首の和歌を採られ、死後初の勅撰集である『後拾遺和歌集』では最多入集歌人の名誉を得ました
イワシが好きだったという説話がありますが、その根拠とされる『猿源氏草紙』は室町時代後期の作品であり、すなわち後世の作話と思われます

和泉式部は、あらかじめ決められた歌題について和歌を詠む、12世紀初頭の題詠成立以前の歌人でした
和泉式部が活躍した10世紀後半から11世紀前半は、源融の旧宅であった河原院という場に、和泉式部の実家である大江氏を始めとして、清原氏、平氏などという中下級貴族が集う和歌のサロンが形成されていました
このような和歌サロンの中で、後の題詠へと繋がっていく文芸性を重んじる和歌が形作られていきます
曽根好忠は河原院の和歌サロンの代表的な歌人ですが、身分が低い曽根は上級貴族の歌会に参加することが難しく、勅撰和歌集の撰者となることもありませんでした
その一方でそのような公共性が強く、制約の多い立場から自由に歌を詠むことに繋がっていったのでしょう
和泉式部はこのような和歌サロンの流れを受けて和歌を詠むようになっていきました



 

和泉式部は同時代の紫式部から、優れた歌人として評価を受けつつも、多くの男性と浮名を流した好色な女性という風評を踏まえ、人の道を外しているところがあると批判されています
高名な紫式部による和泉式部評は、後世に和泉式部の好色な女性像を広めることに繋がりました
この好色なイメージは平安時代の後期になるとより強化されたようです
中世前期から室町時代にかけて、仏教的な説話が和泉式部像に強く反映されるようになります
中世の説話では和泉式部が遊女であると捉えられているものがあり、そのような中で、法華経の教えを踏まえながら、仏教的な救済を求める女性として和泉式部が描かれるようになります
近世に入ると、与謝野晶子が「情熱的な」歌人として和泉式部を高く評価し、その評価が定着していったとの説があります
しかし実際には、藤岡作太郎が、与謝野晶子が和泉式部に関する著作を発表する以前に情熱的な歌人として評価しており、また、与謝野晶子による評価も情熱を全面に押し立てるようなものではなく、和泉式部の作品には、多情であるばかりではなく純情、愛欲とともに哀愁、そして奔放でありながら寂寥という相反した感情が詠み込まれていることを指摘したものでした
しかしながら、与謝野晶子自身が「情熱的歌人」として捉えられるのと期を同じくするように、和泉式部も情熱に結び付けられていきます
そして情熱は「愛欲」、「爛熟した性」、「刹那的な詩人」などといった和泉式部像の形成に繋がってしまいました
この和泉式部、そして与謝野晶子と「情熱」との結び付きは、両者の人物像把握に大きな影響を与え続けています
もちろんそのような和泉式部、そして与謝野晶子と「情熱」や「愛欲」、そして「性」との安易な結びつけには批判があり、求道者として、そして近代的な自我的なものに依る解釈も見られます
しかしそのような和泉式部の受容もまた、近現代からの眼を安易に古典に敷衍するものであるとの批判もあります



 

京都誠心院は和泉式部が初代の住職とされ、通称「和泉式部寺」と呼ばれており、境内に和泉式部の墓所があり毎年3月21日に和泉式部忌の法要が営まれています
逸話や墓所と伝わるものやところは全国各地に存在しますが、いずれも伝承の域を出ないものも多いようです
柳田國男は、このような伝承が各地に存在する理由を「これは式部の伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐったからである」と述べています
さて、和泉式部が「光る君へ」でキャスティングされていないのはなぜ?
紫式部と同時期に彰子中宮に仕えていたと言われる和泉式部が「光る君へ」には、なぜか出てこないようです
和泉式部は先述の通り、情熱の歌人でたくさんの命がけの恋をした人です
どれくらい凄いかというと帝の皇子(みこ)との恋愛
その皇子が亡きあと、その弟宮とも恋に落ちるというすごい人です
「光る君へ」がスキャンダルや色恋についても描かれるという事で、そういう話なら和泉式部を出さない理由はないだろうと思うのですが、今のところキャスティングはされていないようです
「和泉式部を出して!」と言い続けていたら、大河の最中に彼女が出て来る可能性はないのでしょうかね?
どういう女優さんが和泉式部を演じるかという問題はあるかもしれませんが
コンプライアンスの問題で引っかかるんでしょうか?
源氏物語じたいがコンプラ無視のお話ですから、それはすでにないと思うのですが
(源氏物語は、不倫どころでなく、幼女誘拐あり、強姦あり、呪われるのありですから)
帝の皇子とその弟とかが最大のネックかも?
というか、和泉式部は玉置神社にダレと行ったのでしょう

ひとりじゃないよね


でわでわまた

 

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