硫黄島の最も奇妙な一日 【昭和二十年三月一日】  | 70 racing project

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硫黄島の戦いは、第二次世界大戦末期に東京都硫黄島村に属する小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦い
島は米上陸部隊を乗せた数百隻の艦隊にとりかこまれ、二月十九日には上陸、三月十七日には大本営が玉砕を発表、二十五日には栗林最高指揮官ほか残存200名余が最後の攻撃を行なった
かくして硫黄島戦は、日本側19,000名の戦死者を出して終わった



 

出撃記録のない雷撃
昭和二十年三月一日は、硫黄島における戦闘で、最も奇妙な状況が生まれた日でした
米軍側の資料、モリソン米海軍戦史から、その状況を再現してみました
米海軍駆逐艦「デリー」は、硫黄島北西海域で、日本の潜水艦をいったん捕捉したあと、それを見失った僚艦の代わりに、午前二時十五分、日本の潜水艦を必死に探し求めていました
午前2時45分、1機の雷撃機が硫黄島の最北端にある北ノ岬方向から、超低空で飛来し、駆逐艦「デリー」に向け1,000m手前から魚雷を投下します
それより少し前、この雷撃機は米側のレーダーに捕捉されていたので、警戒していたため艦長はその魚雷を確認し、何とか回避することに成功します
この雷撃機は父島から飛来したのではと言われていますが、明確な記録は残っていません
天山の雷撃をかわした駆逐艦「デリー」は午前7時20分、さらに日本潜水艦を求めて北ノ岬沖4,700mあたりを通り過ぎようとしたとき、突如として北ノ岬の砲台から一斉射撃を受けます
六インチ(150mm)砲でした
エンジン・ルーム(機関室)の前方甲板に弾が命中したために11名が戦死、19名が負傷するという事件が発生します
この日本軍の砲台は、さらに砲撃を続けましたが、戦艦「ネバダ」と巡洋艦「ペンサコラ」の反撃を受け、砲台は沈黙しました
さらに同日、衝突事故をおこして硫黄島の東北海岸近くで投錨して修理中だった駆逐艦「コルウィン」も、別の砲台から突如砲撃を受け、第二魚雷発射管に命中したため、船体に大きな被害をこうむり、戦死1名、負傷16名を出しました
「デリー」を攻撃した砲台は、第5上陸軍司令部近くの海岸沖に停泊中の、弾薬輸送船「コロンビア・ビクトリー」にも打撃を与えています
艦長の処置が迅速であったために誘爆は免れたものの、もしそれが爆発していたならば、大惨事がおきていただろうと、モリソン米海軍戦史は語っています
同日朝までに、第12海兵連隊の全砲兵隊が揚陸を完了し、海兵隊の攻撃力は大きくなるばかりでしたが、三月一日は通例となっていた艦砲射撃と空からのナパーム弾攻撃を合図に、各部隊が一斉攻撃を開始していました
それは午前八時三十分、駆逐艦の艦砲射撃の“打ち方止め”の号令がかけられた直後でした



 

硫黄島の戦いで日本軍が唯一勝利した日
三月一日の出来事は、硫黄島基地開設時に設置された海軍砲台からの砲撃と思われますが、命中精度の高さには驚きです
たぶん1年以上前から硫黄島に駐留しこの砲台に配備されていた陸戦隊の砲手たちだったと思われます
そして暁朝に単機で雷撃した、おそらく天山だと思われますが、その練度と勇気に硫黄島の海軍陸戦隊の砲手たちも、きっと鼓舞されたのではないでしょうか
この天山は中継の八丈島で着陸時に脚部故障を起こした第二御楯隊第五攻撃隊の1機が、修理して出撃可能となり3月1日未明に再度出撃したと考えるのが最も妥当ですが、その記録は残っていません

ただし正式な記録ではないにしろ、父島から飛来したと言われているのには何らかの理由があるのではと思われます
当時は父島や八丈島の基地も混乱状態だったと考えられますが、父島に不時着した第二御楯隊第三攻撃隊の2番機(飛長 河崎 亘、上飛曹 火林 善男)は修理をして出撃可能となり3月1日16時、父島より特攻出撃し敵艦船に突入したようですが、戦果は不明と記録されています

この記録があるのに対し、同じ海軍機である天山の出撃記録がないのはおかしい
防衛研究所の資料の中で、この神風特攻隊第二御楯隊の天山艦攻に魚雷装備を担当した第41魚雷調整班(隊長赤星勝中尉)の戦時日誌の1ページに次のように記録されています

2月13日 601空指令、攻251の要求により25本(天山用)雷装準備
2月14日 攻251 10本は中止、601空用15本雷装準備
2月15日 601空15本 攻251 16本雷装準備
2月16日 12.00 攻251空攻撃中止 601空15本準備待機
6月17日 班員全員進出
6月20日 601空 天山5機雷装攻撃準備 07.30完了
、 08.00発進後 09.45中止
6月21日 601空6機雷装攻撃準備 06.30完了
4機発進08.20

となっており、第五攻撃隊は20日には5機準備し出撃しましたが9時45分に悪天候のため中止して引き返し、21日には6機準備しましたが4機出撃しています
又第2御楯隊とは別の攻撃隊の出撃も計画されていたのか攻撃251飛行隊の雷装準備が目まぐるしく変っています
16日午後の敵機動部隊の基地襲撃で、無蓋掩体壕の中で炎上する数機の天山艦攻を目撃されていますが、この機体が251飛行隊の天山艦攻であったのかも知れません 

御楯の第四攻撃隊の故障で父島に不時着した天山は着陸時に大破とされていますので、おそらくこの機体は10日あまりで修復は不可能かと思われます
可能性としては、中継地点の八丈島で着陸時に脚部故障を起こした第五攻撃隊の1機が、修復を受けた後に攻撃に飛び立った可能性のほうが高いでしょう
ただし御楯隊なのに雷撃後に体当たり行動のそぶりも見せなかったのには疑問が残ります

じつは第二御楯隊の特攻があった翌暁朝にも1機の天山が硫黄島に飛来したという記録があり、奇襲雷撃後に姿を消しています

一連の行動を考えるに、機体を失った251飛行隊の代わりに、御楯隊の天山と同じ131空所属で夜間攻撃に特化し哨戒・偵察任務も受け持っていた256飛行隊が急遽呼ばれたのではないかと考えています

第41魚雷調整班の戦時日誌には2月16日の敵機動部隊の基地襲撃以降の記録が有りませんので、香取以外の基地で装備し出撃したと考えられます

他の基地から父島経由で硫黄島雷撃の別作戦が組まれていた可能性が高いと推測できます
そして攻撃256飛行隊の所属機の1機が硫黄島偵察攻撃任務途中に魚雷を投下したのではないかと思われます

9日間のインターバルがありますので、二十二日の早朝に単機で飛来した天山も同じ機ではないかと推測できます



 

攻撃251・254・256飛行隊はともに硫黄島からグアム・サイパンへの米機動部隊攻撃に参加予定で、各隊の整備員たちが設営隊として先に硫黄島に進出していました
飛行隊の隊員たちが、硫黄島に残した設営隊の皆のことを、どれほど思っていたかが良くわかるような出来事です

この日の出来事を知る日本側の生存者はたぶんいなかったのだと思いますが、米軍側の資料に残っていますので事実であることは間違いありません

モリソン戦史は勝利者側の資料で、特に硫黄島戦に関しての損害は過少に書かれていますから、この日の損害は相当なものであったと思われます

日本側の僅かな記録を繋いだ推測のストーリーですが、劣勢の状況でも何とかしようと勇敢に戦った者たちへのレクイエムになれば幸いです

また、天山の名前の由来は佐賀県にある山名ですが、硫黄島にも天山という山があり、そこには海軍の指揮所がおかれていたようです

 

でわでわまた