娘に伝承する「ルーツの物語」の整理の意味も込め、祖父母達について書いていこうと思います。私の父母や親戚が伝え聞いた話、祖父から直接聞いた話をいくつか。

まずは私の母方の祖父の話。

 

母方の祖父は1924年(大正13年)に産まれました。

高等小学校か旧制中学校を卒業した後、16歳頃には旧国鉄で働いていました。

そして保線の部署に配属されていた17歳の時、事故によって片足を失いました。

戦争が始まる数カ月前。

1941年12月8日の対米英戦争開戦のニュースは病院のベッドで聞いたそうです。

 

事故で片足を失ってから祖父は義足生活でした。

ただ、手術の措置が良かったのか、義足で歩き回る祖父の所作は健常者に近く。

母が子供の頃、普通にバトミントンで遊んでくれたり。

私が子供の頃は、広い祖父の家の庭で走り回ったり、木材を加工しておもちゃを作ってくれたり、近所のホームセンターや駄菓子屋に一緒に繰り出し、お団子やお菓子を沢山買ってくれたり。義足であることを感じさせない祖父でした。

 

■銀座の映画館での出来事 祖父の従妹から母が聞いた話

東農地方出身の祖父は、地域では比較的裕福だったようです。

また、東京にも親戚がいて歳の近い従妹がいました。

事故の傷が癒えた昭和17のある時、東京に住む従妹を訪ねたことがありました。

祖父の親戚も旧国鉄にお勤めだったようで、親戚同伴で上京。

傷病関連の手続きのため、東京駅前にあった旧国鉄本社ビルに赴いたついでに、親戚で集まったようです。

従妹のおばさんが私の母に伝えたところによると、その際祖父が得意げに義足を見せてきたとの事。「普通に歩けるんだよと」明るく微笑みながら話てきたとの事でした。

 

ただその後、従妹と一緒に行った銀座の映画館で、祖父の様相が一変します。

 

戦時中のため、映画の冒頭には、戦況を知らせるニュース映画が流れました。

アナウンサーが勇ましく戦況を知らせ、日本兵やら、航空機やら軍艦やらが映る。

そんな映像を見ていた祖父は、途中で気持ち悪くなってしまったとの事。

映画を観るのをやめて、近場の喫茶店で気を取り直したと言う出来事があったとの事でした。

 

祖父がどんな心境だったのかは分かりません。

「お国のために」が当たり前の世の中、足を失い兵隊になれない事への心理的な圧迫があったのか。

事故の心理的影響が残っていて、それがニュース映像と重なってしまったのか。

歳の近い従妹のおばさんにとって印象的な出来事として記憶に残たとの事です。

ともあれ、その後祖父は東農地方のとある駅で駅員として勤務する事となります。

 

■水筒の話(祖父から聞いたお話)

祖父は戦中から戦後定年退職するまで、同じ駅でずっと勤務しました。

戦中は、改札で切符を切っていたとの事。

 

戦争が始まったばかりの頃。

出征する兵士達は立派なお召し物に、腰にスチール製の水筒が携えられていたと言います。ただ、戦局が悪化し物資も乏しくなってくると様子が変わったとの事。

 

お召し物がヨレヨレになり、水筒は竹筒に・・・・。

そんな光景の移り変わりを、毎日改札から垣間見た祖父。

 

自分と歳が近く、出征される若者達の中には、友人や幼馴染もいたかもしれません。

祖父は「必勝祈願」「武運長久」といった言葉が飛び交う激励の場で、

内心「これじゃあとても戦争には勝てねえ」と思っていたと話していました。

 

■真っ赤に染まる南西の空の話。(祖父から聞いたお話)

祖父の家から少し歩いたところに、ホームセンターがありす。

小さな頃、祖父に連れられてそのホームセンターにある団子屋に度々行きました。

ホームセンターの脇には土岐川が、祖父の家のある小高い台地を隔て流れています。

そのため、ホームセンターに行くには一度大きな橋を渡る必要があります。

 

その橋を渡るたび、祖父は昭和20年の名古屋空襲の話をしてくれました。

空襲の折、祖父は川の土手沿いにいたと言います。

川の下流方向、南西方向に見える空が、朝から晩まで真っ赤に染まっていた様です。

祖父は、ただただ立ち尽くして、それをずうっと見ていたそうです。

日本有数の大都市、名古屋が燃えている惨状を見て「戦争に負ける」と素直に思ったそうでした。

■「〇〇君」の写真の話(私が見つけたお話)

裕福な家に育ったのか、祖父の家には写真が沢山詰まったアルバムがあります。

また、筆まめな祖父が、どういう写真なのか説明書きを残していました。

10~18歳ぐらいの祖父の写真からは、無邪気で将来に希望を抱く表情が沢山。

コメントもそんな当時を思い起こす様な言葉が記されていました。

 

ただ、1枚だけ様相の違う写真が。

「〇〇君」とだけ傍らにメモ書きされた、海軍の軍服を着た青年が映る写真。

 

「〇〇君」は他の写真で、祖父と仲睦まじく肩を組んで映る人でした。

私にとって見たら「〇〇さん」

その〇〇さんが、軍服姿の後どうなられたのかは分かりません。

ただ、〇〇さんは、戦後以降の写真には出てきません。

私の勝手な憶測ですが、

筆まめな祖父が「〇〇君」としか残せていないところを察するに、

今は靖国神社にいらっしゃるのではないかと思います。

 

軍人になる友人がいる。そんな友人が戦死されてしまう。

祖父の青春には「死」が身近にあったのではないかと垣間見えました。

 

■「4式疾風(はやて)」「2式鍾馗(しょうき)」の話(祖父から聞いた話)

祖父の話は「勝てるわけない」と思っていても、自由にそれが言えない環境にあったという内容でした。

祖父も映る国鉄職員の集合写真の最前列の真ん中には、立派な軍服に軍刀を抱える陸軍将校が映っています。

その様な職場で「アメリカには勝てないでしょ」なんて発言できるとは思えません。

今の世の中、ダメ会社あるある事例が、当時は社会全体で起きていた気がします。

そんな祖父の話で、毛色の違うお話。

 

私が小学校三年生の時、昭和が終わり平成になりました。

当時、本屋に昭和の出来事を紹介する図鑑本が山積みで売られていました。

年次毎の出来事の他、時々の流行や文化を特集するページがあり。

その中に戦時中の日本軍の戦闘機や戦車を紹介するページが見開きでありました。

「ゼロ戦」しか知らなかった私ですが、歴史やミリタリーには嗜好があり、父にせがみ買ってもらいました。

 

嬉しそうにその本、と言うより戦闘機を紹介するページを読む私。

すると、私の背後から覗き込むように祖父がとある戦闘機の写真を指差し、

 

「わしが乗ったのは、この四式だったかや、二式だったかやあ」

私は祖父が何を言っているのかさっぱりわからず。

「ヨンシキ、ニシキって何??日本軍の戦闘機はゼロ戦じゃないの」

「いんや、四式、二式、他にも一式や三式もあったんよお。」

「すごいじゃん。じいちゃん戦闘機のパイロットだったんだ。」

「いんや、義足でも飛行機は動かせるゆうて、名古屋まで行って操縦席に乗せられたんやあ。疾風だったか、鍾馗だったか。」

「ハヤテ?ショウ・・キ?」

「四式戦闘機『疾風』、二式戦闘機『鍾馗』と言うんわ。他にも『隼(はやぶさ)』『飛燕(ひえん)』ちゅう飛行機もあったんよお。」

「へえ~。爺ちゃん、疾風(のプラモデル)ほしい。」

 

 ・・・・

 

その時から、日本には様々な戦闘機があったことを知り、今ではその筋に詳しいおっさんになりました。

ただ、祖父が何のために戦闘機の操縦席に乗ったのか詳しい話を聞けずじまい。

いったい、名古屋で何をしていたのか。自ら操縦して空を飛んだのか。

 

祖父は、昭和20年7月末に召集令状が届き、義足の自分も出征かと準備していたら敗戦となりました。

すると操縦席に乗った話はそれより前、国鉄職員として何らかの事由で起きた出来事だと考えます。

当時も名古屋は日本の航空機産業の一大拠点。

ジブリ映画「風立ちぬ」の舞台は名古屋界隈でした。

同作は海軍の戦闘機の話ですが、陸軍の航空関連施設も多くありました。

 

2式戦闘機「鍾馗」は開戦当初から陸軍が配備していた戦闘機ですが、数が少なく大戦終盤は生産もされていない。

そう考えると零戦や一式戦闘機「隼」に次ぎ生産機数の多い四式戦闘機「疾風」の方が出くわす可能性が高いと考えます。

 

仮に四式戦闘機に祖父が乗ったとすると、同機が報道陣に公開されたのが1944年(昭和19年)10月。

その後公募で「疾風」の名称が付けられます。

軍人ではない人間を操縦席に乗せて何かさせるタイミング。

と考えると、祖父が戦闘機に乗ったのは昭和19年末~20年の召集令状が届く前までではないかと。

 

以下憶測ですが・・・。

 

「義足でも飛行機は動かせるゆうて」

 

と祖父が言うように、戦局悪化でパイロットが激減する中、義足の方が集められ何か施策が行われたのではないかと。

事実、戦時中陸軍には義足のパイロットとして有名な方がいらっしゃいます。

  • 檜 與平 陸軍少佐 
    • 奇遇な話ですが、この方の終戦時の最終所属部隊は、名古屋に近い小牧飛行場の飛行第111戦隊です。

陸軍の関与が強い国鉄に、義足でも動ける職員選抜の依頼が来て、日常義足であることを感じさせず、背が高く体格の良い祖父が選抜されたのでは・・・。

万が一祖父がその流れで、義足のパイロットになっていたら・・・。

長男ではない祖父。

時期的に考えれば、特攻隊員になること必至だったかもしれません。

本当にそうなっていたら、今私はここにいない可能性が高い事になります・・・。

 

小さな頃は

「お爺ちゃんパイロットだったかもしれない。なんだかかっこいい。」

でした。

が、今は

「パイロットにならなくて本当に良かった。田舎の駅員さんとして定年退職して人生を全うして本当に良かった」です。

 

以上、つらつらと書きながら、知らない事も多々あると痛感しています。

戦時中の事をよく話してくれた祖父にもっと話を聞くべきでした。

2010年に永眠してしまい、ただただ後悔。

 

■まとめ

子を育てる身となり、知る限りでもこういった話を受け継いでいこうと思います。

今自分がいるのは、

祖父母やご先祖様達の辛い時代を経て、

戦後祖父母達が一生懸命働いて築いた平和を父母が受け取ったから。

そして、自分たちもバトンを受け継ぎ次世代に渡せるように日々努力している。

 

娘達には、平和な世で自分の歩みたい人生を全うできるように進んでほしいと切に願います。

祖父の話に共通するのは、内心は「勝てない」と実感していても、自由に発言できない社会だったという事。

もしそういう社会になってしまったら、子供に願っている事は実現できない。

 

自分はどちらかと言うと右寄りの考え方。

ただ、色々な考えがあり当たり前、対義意見も尊重する前提の教育で育っています。

ゆえに自由に発言できる今の日本の世の中って素晴らしいと思う。

 

勿論自由には責任が伴い、その責任を果たさない愚か者が時々問題を起こしている不完全さもあります。

でも、祖父母達が生きた当時の日本に比べたらだいぶマシな社会。

 

社会というと大げさですが、職場や自分が管轄する組織でも、責任を持ちつつ自由に発言できる環境づくりに努めること。

それが結果的に社会風土にも繋がっていくし、様々なバトンを未来に繋いでいくことだと考えます。

日本全国モノの言い辛い企業や組織、コミュニティだらけだったら、、、

多分社会や国もそんな風潮になると思いますし、祖父母達が歩んだ辛い時代の二の舞にもなりかねない。と思うのでした。

 

今日はここまで。

次回はそんな国鉄職員と結婚した私の祖母の話しを書きたいと思います。