コロナ禍による分断を超えて〜高橋源一郎とセカオワ「Dragon Night」〜 | とかげ日記

とかげ日記

【日記+音楽レビューブログ】音楽と静寂、日常と非日常、ロックとロール。王道とオルタナティブを結ぶ線を模索する音楽紀行。

コロナ禍による意見の対立がメディア上やSNS上で可視化され、社会の分断が加速している。ここに、よーよーからの緊急提言を掲載したい。 

 

今こそ、セカオワの「Dragon Night」の精神が必要になってくると思うのだ。

 

 

 

 

歌詞を引用してみる。

 

 ---引用始め--- 

人はそれぞれ「正義」があって、

争い合うのは仕方ないのかも知れない 

だけど僕の嫌いな「彼」も彼なりの理由があるとおもうんだ 

ドラゴンナイト 今宵、僕たちは友達のように歌うだろう

ムーンライト、スターリースカイ、ファイアーバード 

今宵、僕たちは友達のように踊るんだ 

 

(中略) 

 

人はそれぞれ「正義」があって、

争い合うのは仕方ないのかも知れない

だけど僕の「正義」がきっと彼を傷付けていたんだね 

---引用終わり--- 

 

一番大きな対立は、右派と左派の対立だと思う。どちらの側も自分が正義だと思って譲らない。 僕は簡単に右や左に流されるよりも、なるべくその間から物事を見ていたい。なぜなら、感情のおもむくままに右や左に流されるのは危険だからだ。

 

人は惰性でどこまでも流される。 それでも僕が左右に寄っていることは分かっているんだ。だけど、感情の流れに抵抗していたい。中庸の立場から止揚したい。 

 

一面的になるな。多面的になれ。世界と人生の複雑さを引き受けるには、多面的であるべきだ。常に思想的には孤独であれ。何らかの人間や思想を盲信的に信用するな。これは、信頼できる複数の思想を止揚した多面体の思想だ。

 

ザ・スミスのモリッシーが左翼から右翼に転向したのを見ていると、個人の思想の上でカギとなるのは、寛容性という気がする。左翼も右翼も他の思想に寛容ではないという点で共通しているから、簡単に転向できる。 そして、この世界は徐々に寛容でなくなってきている。中道は危機に瀕している。 

 

左右の対立以外にも、コロナ禍の社会では、自粛派と反自粛派、マイノリティと反マイノリティ、家事や育児をめぐっての男女間など様々な対立がある。 

 

セカオワの「Dragon Night」は対立のどちらの側にも正義を認め、一夜だけ友達になれると歌う。そして、「コングラッチュレーション」と歌い、その一夜を祝福するのだ。 

 

自分と違う立場の人を最初から拒絶せずに、その正義を理解しようとしてほしい。完全に理解することなんて無理だけど、理解があれば共感も生まれるから。

 

こういうふうに考えているのだなと分かれば、もう怖くないよ。 分断をなくすために、言葉や理性や共感があるんだよ。それに、一人一人は違う人間だけど、同じところも多いんだよ。

 

人の思想には立場があり、どの立場にも正義がある。立場間で争いあって社会は作られていく。 

 

立場間の争いはより良い社会を目指す上で必要だが、その争いによる分断の溝を埋めていきたい。現在、人々は両極によって引き裂かれている。

 

セカオワの「Dragon Night」が流行った2015年、人々の間で半ばふざけながら「ドラゲナイ」と言うのが流行った。正義の対立による憎しみという障害を打ち砕いたからこそ、あそこまで幅広く認知される歌になったのだと僕は考えている。 

 

2015年に僕らは「Dragon Night」の夢見がちなEDMサウンドを聴きながら、社会の分断の溝がなくなる夢を見ていたんだ。 

 

 

 

ここに一冊、オススメしたい本がある。

 

高橋源一郎が政治と民主主義について書いた本『丘の上のバカ ぼくらの民主主義なんだぜ2』だ。

 

 

本書で扱われているテーマは多岐に渡るが、どの問題についても「断定をしないこと」を貫いているように感じた。

 

「断定をしないこと」とは、「あなたも正しいかもしれないし、私も正しいかもしれない」「あなたも間違っているかもしれないし、私も間違っているかもしれない」の世界だ。たとえば、高橋さんは政治的には左派だが、安倍首相や百田尚樹さんのことを完全には否定しない。

 

「そして、予想したように、わたしは、安倍さん(とお友だち)のことばにムカついたりはしなかった。「いい人」たちだと思った。責めてはいけないと思った。強いていうなら、あまりにも単純すぎるんじゃないかと思ったけれど、それは悪いことじゃない。わたしだって、時々、複雑なものに疲れるのだ。」

(p.112より引用)

 

上記は、安倍首相と安倍首相に近い人たちの著書を通読した高橋さんの感想である。

 

政治は、「あなたは正しい」「あなたは間違っている」と言い合う世界だ。高橋さんは「あなたは間違っている」という言葉を使わないで、政治的な言葉を紡いでいる。それは、少数者や「境界を生きる者」に寄り添う姿勢で可能になっている。

 

「境界を生きる者」とは、たとえば難民や移民のことだ。文字通りの難民や移民の場合もあるが、「LIVE! LOVE! SING!」という映画に出てくる福島で被災して神戸の女子高に通う女の子のことも「難民」と言ってよいのではないかと高橋さんは言う。

 

「故郷を失い、さまよい続ける彼女もまた、「難民」のひとりと呼んでいいだろう。世界にはいま「難民」が溢れ、彼らの受け入れをめぐって世界は厳しい分裂に直面している。そして、わたしたちの国は「難民」に冷たいという。だが、「外」だけでなく、わたしたちの中にも「難民」はいる、とこの映画は教えてくれるのである。」

(pp.62-63.から引用)

 

文学とは「最初から最後まで、その対象と共感しようとする試み」(p.110.)であるという高橋さんの話も本書にはあった。文学者的なアプローチで少数者に寄り添う文章に感動する。

 

僕も実は、高橋さんと近い立場だ。政治的にはリベラルでありたいが、右派のことを否定しきることはできないし、左派にも悪い所があると思っている。そして、少数者や「境界を生きる者」に寄り添いたいのだ。なぜなら、自分も少数者であり、「境界を生きる者」であるからだ。

 

統合失調症による精神障害を抱え、Xジェンダーのため精神的に男性にも女性にもなりきれない。正気と狂気の狭間、男性と女性の狭間にいる僕は、少数者であり、「境界を生きる者」だ。僕みたいな少数者が安心して暮らせる平和な世界を僕は望んでいる。

 

あなたも今は多数者かもしれないが、なんらかの側面から見たら少数者だし、将来、ケガや病気で少数者になるかもしれない。医療、介護、学童保育、運送、ゴミ収集、清掃、スーパー、コンビニなど、コロナに罹患しやすい仕事に従事する方への心ない言葉も増えている。しかし、そんな言葉を吐く人も、明日にはコロナにかかっているかもしれないのだ。

 

誰だって「弱者」になりうるんだ。過度の自己責任論はやがて自分の首を絞めることになりかねないと思う。それに、少数者が暮らしやすい世界は、多数者にとっても暮らしやすいはずだ。

 

コロナ禍による分断を乗り換えるために、あるいは、少数者にも多数者にも優しい社会にするために、言葉をかける相手の正義がどんなものであっても、一度は共感してみようとする姿勢が必要だと思うのだ。豊かな議論も「あなたも正しいが私も正しい」の姿勢によって成り立つはずだ。そんな姿勢にあふれた社会にするために、わずかながらでも僕も助力したい。

 

 

💫この記事は、以下の二つの記事を編集して繋ぎ合わせたものです。ロングバージョンは以下のリンクからご覧ください。💫

セカオワ「Dragon Night」と分断の溝を埋めるもの

高橋源一郎『丘の上のバカ』書評 ~僕も本気出して政治と民主主義について考えてみた~