高橋源一郎『丘の上のバカ』書評 ~僕も本気出して政治と民主主義について考えてみた~ | とかげ日記

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高橋源一郎が政治と民主主義について書いた本『丘の上のバカ ぼくらの民主主義なんだぜ2』について感想を述べます。

本書で扱われているテーマは多岐に渡るが、どの問題についても「断定をしないこと」を貫いているように感じた。

「断定をしないこと」とは、「あなたも正しいかもしれないし、私も正しいかもしれない」「あなたも間違っているかもしれないし、私も間違っているかもしれない」の世界だ。たとえば、高橋さんは政治的には左派だが、安倍首相や百田尚樹さんのことを完全には否定しない。

「そして、予想したように、わたしは、安倍さん(とお友だち)のことばにムカついたりはしなかった。「いい人」たちだと思った。責めてはいけないと思った。強いていうなら、あまりにも単純すぎるんじゃないかと思ったけれど、それは悪いことじゃない。わたしだって、時々、複雑なものに疲れるのだ。」
(p.112より引用)

上記は、安倍首相と安倍首相に近い人たちの著書を通読した高橋さんの感想である。

政治は、「あなたは正しい」「あなたは間違っている」と言い合う世界だ。高橋さんは「あなたは間違っている」という言葉を使わないで、政治的な言葉を紡いでいる。それは、少数者や「境界を生きる者」に寄り添う姿勢で可能になっている。

「境界を生きる者」とは、たとえば難民や移民のことだ。文字通りの難民や移民の場合もあるが、「LIVE! LOVE! SING!」という映画に出てくる福島で被災して神戸の女子高に通う女の子のことも「難民」と言ってよいのではないかと高橋さんは言う。

「故郷を失い、さまよい続ける彼女もまた、「難民」のひとりと呼んでいいだろう。世界にはいま「難民」が溢れ、彼らの受け入れをめぐって世界は厳しい分裂に直面している。そして、わたしたちの国は「難民」に冷たいという。だが、「外」だけでなく、わたしたちの中にも「難民」はいる、とこの映画は教えてくれるのである。」
(pp.62-63.から引用)

文学とは「最初から最後まで、その対象と共感しようとする試み」(p.110.)であるという高橋さんの話も本書にはあった。文学者的なアプローチで少数者に寄り添う文章に感動する。

僕も実は、高橋さんと近い立場だ。政治的にはリベラルでありたいが、右派のことを否定しきることはできないし、左派にも悪い所があると思っている。そして、少数者や「境界を生きる者」に寄り添いたいのだ。なぜなら、自分も少数者であり、「境界を生きる者」であるからだ。

統合失調症による精神障害を抱え、Xジェンダーのため精神的に男性にも女性にもなりきれない。正気と狂気の狭間、男性と女性の狭間にいる僕は、少数者であり、「境界を生きる者」だ。僕みたいな少数者が安心して暮らせる平和な世界を僕は望んでいる。

あなたも今は多数者かもしれないが、なんらかの側面から見たら少数者だし、将来、ケガや病気で少数者になるかもしれない。誰だって「弱者」になりうるんだ。過度の自己責任論はやがて自分の首を絞めることになりかねないと思う。それに、少数者が暮らしやすい世界は、多数者にとっても暮らしやすいはずだ。

多数決だけではなく、少数者の意見も取り入れるのが、あるべき民主主義だと僕は思う。

本書に書かれていたことだが、民主主義が始まったのは、今から約2500年前の古代ギリシアのアテナイだった。その時は男子市民のみ政治に参加していた。奴隷がいなく、女性が参加できる分、今日の民主主義のシステムは優れていると僕は信じたい。

しかし、民主主義のシステムに魂を吹き込むことができるのは、一人一人の民衆だ。一人一人が政治と社会に向き合うべきだと思う。それこそ、男子市民が全員参加で物事を決めていたアテナイの民主主義のように。

議論する時も「あなたは間違っている」と断定しきらないことが大事だと思う。「あなたも正しいが私も正しい」の姿勢によって、豊かな議論が成り立つはずだ。そうして、お互いの正しさを持ち寄って政治を行う時に、少数者の意見を取り込んだ民主主義は成り立つのだと思う。

あるいは、「私はバカだから、あなたに教えてほしい」と相手に懇願することによって豊かな議論は可能になるのかもしれない。本書のタイトル「丘の上のバカ」とは、プニュクスの丘の上に集まったアテナイ市民のことを指す。専門的な知識もない、政治的にアマチュアの彼らには、可能性の灯が灯っていた。

高橋さんの政治について語る言葉の手つきに感動できる良書です。様々なことを考えるきっかけを得ることができました。