鈴木実貴子ズ『現実みてうたえよばか』感想&レビュー | とかげ日記

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【日記+音楽レビューブログ】音楽と静寂、日常と非日常、ロックとロール。王道とオルタナティブを結ぶ線を模索する音楽紀行。



●主張のある音楽

鈴木実貴子ズの1stアルバム。

その音楽には、2010年代前半に一部で流行した東京インディーの手作り感があると思うのだ(活動拠点は名古屋だが)。特に、僕のイチオシのうみのての手作り感と相通じるものを感じる。

オルタナティブでフォークな音楽性は完成されていてバリエーションも限られているため、メロディ・歌詞・演奏にどこまで力があるかが勝負になる。そして、彼女らには力がある。

大森靖子やきのこ帝国初期のように、声自体に主張がある。ガーリーではない、女性だけど漢気を感じるボーカルには、強固な意思が込められている。そこに、他の凡百のバンドにはない魅力を感じる。

凶悪なナイフのような本音を歌い連ねる歌詞も良い。「横断歩道 人の多さ/半分くらい死ねばいい/思ったのは本当」(#6「新宿駅」)。本音というのは、こんなふうに他人に向かって吐露するのがためらわれるものが多いはずなのだ。それを鈴木実貴子はリスナーに真正面からぶつける。そうした辛辣な本音を歌った後に、「死ぬまで生きてやる」と歌われると、リスナーの僕もそうだよな、そうだよなとなって、ホロっとくるのだ。

歌詞が聞き取りやすいのも魅力だ。彼女らの音楽は言葉ありきの音楽だから、この点は重要だ。歌詞の聞き取りがいつもは上手くいかない僕が聞き取れなかった歌詞が一つもないというのも凄い。一つ一つの言葉は聞き取りやすく、心のATフィールドを突き破るように伝わってくる。

白眉は#1「音楽やめたい」、#2「アホはくりかえす」、#5「アンダーグラウンドでまってる」だろう。

#1「音楽やめたい」はインディーズでバンドマンをやっている人たち皆が胸に抱えている本音だろう。その本音を分かりやすく伝わりやすいように歌うという点で鈴木実貴子ズの音楽は優れている。売れているのが勝ちなのか? 売れていないのが負けなのか? 鈴木実貴子ズは勝ち負けのない音楽を探していると歌う。それでも、そんなの音楽ではないという気持ちがあるとも歌う。あらゆる芸術作品に売れるか否かは関わっている。ある芸術作品が歴史に名を残すのは売れたからだ。でも、僕は自分自身に何事かを絶えず問いかけることこそが芸術の作用であり、その作用があるのならば、芸術だと思っている。たとえ、鈴木実貴子ズの作品が売れなくても、彼女たちの作品は芸術として価値があると僕は確信している。

#2「アホはくりかえす」。なんと挑発的なタイトルだろう。アクトよりも物販が盛り上がったり(「ライブハウスがキャバクラに変わった時、ロックスターは姿をくらまし」)、見た目だけのロックが持てはやされたりするなど、音楽が音楽として伝わっていないライブハウスの現状を突く。それらを彼女は悪いことだと言っている訳ではなく、あるべき場所にあることが素晴らしいはずと歌っている。つまり、ライブハウスでは愚直にロックをやるロックスターがギターを弾き、歌うべきなのだということだと思う。ライブハウスはキャバクラではないのだ。男も女もライブハウスでは音楽で勝負すべきなのだ。そして、鈴木実貴子ズは愚直に音楽で勝負している。そのことが分かる一曲だ。

#5「アンダーグラウンドでまってる」も名曲。イントロから匂い立つギターとドラムの響きは、まさに場末のライブハウスの音といった風情。終盤の「君のことを」のリフレインが泣ける。「君たち」ではなく「君」をアンダーグラウンドで待っているのだ。一人を宛先にした言葉や歌は確かさを持って胸に響く。みんなではなく、みんなの中にいる一人一人に向かって鈴木実貴子ズは歌を歌っているのだ。僕もライブハウスで彼女らを観たくなった。

『現実みてうたえよばか』というアルバムタイトルも挑発的だ。彼女たちの音楽は現実を捉えている。ブルーシートに包まれるホームレスのような、ドブ川の現実を鋭く切り取る。その上で希望を歌うからこそ、彼女たちの音楽はこれほど胸を打つのだ。地に足の着いていない、浮ついた理想ばかりを歌うミュージシャンとは違う。僕が理想とする音楽は鈴木実貴子ズのように、現実の混沌をそのままの状態でさらけ出し、その上で理想を歌う音楽だ。そういった音楽は僕の心を強くする。クソでもミソでも生きていいんだ、そう思える。

「100人のうち5人に届けばいい」とかつてのインタビューで語っていた鈴木実貴子ズ。その鋭さは万人に好まれる類のものではないが、僕の心臓の琴線に触れる。その5人には何よりも突き刺さる音楽だろう。

Score 8.2/10.0