【燃えすぎて炎上するエッセイ】中村一義『ERA』は僕の哲学だ | とかげ日記

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【日記+音楽レビューブログ】音楽と静寂、日常と非日常、ロックとロール。王道とオルタナティブを結ぶ線を模索する音楽紀行。



この話はフィクションです。ただ、僕が好きな音楽に関する描写は、トンカツというよりは真実です。

職場で氷点下よりも冷たい心を持ったAさん。Aさんと毎日顔を突き合わせているうちに、精神力を削り取られる僕。怒りのベギラゴンを放ってやりたいが、もう僕は大人なのでそんな子供じみたことはできない。では、怒りのメラゾーマなら良いのか。良くない。僕にできることは、Aさんからマヒャドを喰らっても耐えることだけ。

あまりに辛くなった僕はトイレで中村一義の『ERA』というアルバムを聴いた。長時間もトイレ休憩する訳には行かないので、出だしの「1.2.3.」だけ。ちゃんこ鍋よりもめちゃんこ良い。いや、良い悪いという評価は何か違うな。『ERA』は僕の哲学だ。手のひらを太陽にかざして見れた真っ赤に燃える僕の血潮の何分の一かは『ERA』でできている。

イーラ、イーラ、イーラ…。僕は悩みの闇の奥底にいる時には、口癖のようにイーラ、イーラ、イーラと唱えてきた。イーラは闇を振り払う呪文であり、若かった中村一義が全力の鋭さを持って伝えたかったこと。僕がリアルタイムで聴いていた高校生の時から、このアルバムは僕の生き方の何よりも頼れる指針なのだ。

世界に対峙する時の姿勢というのはやや大げさな言い方だが、物事に対峙する時の姿勢を僕はこのアルバムから教わってきたのだ。

「1 両目で全て、
 1 2 見てゆくんだ。
 1 2 3 最初と最後を、
 1 2 3 4 感情を抱いて、笑い、涙流して…。
 青クサイ?って、そりゃ、いいね、いこう。」

僕の心はメラゾーマよりも燃えたぎる。光景を刻む心がここにはまだあるのだ。僕は行く。犬や猫のようにね。そんなことよりも、トンカツが食べたい。下赤塚駅前のなみまのとんかつは美味しすぎる。あんな美味しいトンカツは食べたことがない。チェーン店の和幸のとんかつの一億二千三十倍は美味い。

なみまのとんかつを僕に山盛り食べさせてくれ。他者の冷淡より、料理の愛情を僕は選ぶ。感情を失い、ロボットのように生きていくことは楽だろう。それでも、僕は感情を抱いて、笑い、涙して僕は行く。傷つくのは真剣に生きているから。「グレゴリオ」の歌詞のように、この目にその手に全てはある。感情はこの手にその目に宿っている。

「メロウ」で描かれる目をそらしたくなる人間関係、世間、社会。「ロザリオ」という曲で、中村一義は目を開けと歌い続ける。

最近のニュースは京アニへの放火といい、吉本興業やジャニーズの圧力やしがらみといい、見てたくもない事ばっかが度重なって、視界、ずっと、ずっと、歪ませてさ。

「あとさきも考えなかった僕等に、
 願いを、たった、たった、1個鳴らせるなら...。」

歪んだ社会の中で、これぞという核心を全て知っておきたいんだ。パルプンテの世界の中で、真実色に染まった的を射抜くだけの技量とタフさが僕にも欲しい。僕のメラゾーマよりも燃える静脈の血液管は沸騰し、Aさんの冷たさにも、世間の人の冷淡さにもクリティカルヒットする。みんな、燃えろ、燃え上がれ! 炎上したライブハウスの中、パンクロックの直線的熱情で、今、ブルーハーツのマーシーがギターを弾く! 『ERA』に収録されている「ロックンロール」という曲では実際にマーシーがギターを弾いている。

『ERA』には、哲学も熱情も愛も全てある。僕の結婚パーティでは、『ERA』の曲から「君ノ声」が流れた。すさんだ奴がはびこる、この街で、君の声が聞こえてくる。それはとても尊いこと。なみまのとんかつほどじゃないけど。それでも君を愛してる。祝え、ジュビリー!

冷たいAさんも仲間なのだと思う。社会をより良くしていく上での仲間。中村一義流に言えば、僕もAさんも「虹の戦士」なんだよ! 同じ職場で同じ目標に向かっている以上、僕等は願いを持った戦士なんだ。

僕にできることは、凍ったAさんの心を溶かすように働きかけ続けていくことと、無視されてもヘコたれないバイキルトなメンタルタフネスを身につけること。「ピーナッツ」のように種を撒き続けて、「ショートホープ」のように飛び込んで行こう! 真っ白と黒のゲルニカにたくさん色を塗る。モノクロの権力よりもカラフルな笑いを。

Aさんがいるから傷ついて何もできないなんて、僕自身の能力を見誤っている。Aさんがいるから僕は強くなれた。明日からも辛辣な態度でマヒャドを喰らい続けても、僕の心の中にはロトのつるぎのように威風堂々と光り輝く『ERA』があるから大丈夫さ。明日からもきっとハレルヤ、舞い上がるように素晴らしき世界だね。