人生の矛盾や複雑さとうみのての音楽について | とかげ日記

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【日記+音楽レビューブログ】音楽と静寂、日常と非日常、ロックとロール。王道とオルタナティブを結ぶ線を模索する音楽紀行。
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尖った音楽を「オナニー音楽」と称している方がいた。

尖った音楽を「オナニー音楽」と言うなら、僕には売れ線のポップスがこれが気持ちいいんだろ?と「セックスを強要する音楽」にしか思えないんだ。売れ線のポップスはリスナーの最大公約数を曲にしたマーケティング手法の音楽であり、その曲に自身の表現したいことがあるとは思えない。下ネタごめんね!

尖った音楽にも流行ポップスにも、それぞれの良さと正義があることを尊重し合えたら良いですね。

見知らぬ音楽を偏見を持たずにまず聴いてみることこそ、優先される正義だと僕は思います。

「易しく深いこと」にも「難しく深いこと」にも、双方に価値があると僕は考えています。逆に言えば、「易しく浅いこと」にも「難しく浅いこと」にも僕は用はない。問題はその深度です。

流行歌のJ-POPにも、「深いこと」があることを僕は認めています。ゆずの一部の曲は僕の大のお気に入りです。

なぜ、僕は深さにこだわるのか。それは、深い音楽が「より良い音楽」だと思うからです。

僕の考えでは、音楽の優劣は個人の好き嫌いと同じで完全な主観です。自分の中に価値の序列があり、優れたものも劣ったものもあります。売れないけれども優れた作品も、売れているけれども劣った作品もあります。

音楽には、演奏技術、メロディ、リズム、ハーモニー、革新性、文学性、肉体性、芸術性、大衆性、音質、訴求性など無限の優劣の基準があって、さらにその無限の基準の中でも無限の基準があって、作品の優劣を一概に語ることはできません。自分がどの基準を優先するかで、自分の中の価値の序列が決まります。

人生や物事の解釈には、絶対的な正義や真理はありません。より良い解釈とより悪い解釈があるだけ。より良い解釈とは、生きる活力を与えてくれる解釈のことです。そして、自分が最も優先する価値基準とは、生きる活力を与えてくれるか否かということです。

深い音楽は、世の中や人生に矛盾があることを認めつつも、それでも生きよ!と言ってくれます。

社会には様々な矛盾があります。なぜ、人は平等だと言いつつも、貧富の差があるのか。なぜ、同じ人間であるのにも関わらず、差別する人と差別される人がいるのか。なぜ、世界で戦争が起こっているのに素知らぬ顔をすることができるのか。なぜ、生きる理由もないのに人生を生き続けなければいけないのか。

問題は、その矛盾や苦悩を認めない音楽や、矛盾や苦悩は認めるけれども生きよ!と言わない音楽です。矛盾や苦悩を認めない明るいだけの音楽や、人生辛いよねと言うだけの音楽には、僕は深さは感じません。世の中や人生は複雑です。その複雑性が反映されていない音楽は浅いと思います。

そこで、うみのてです! うみのての音楽は、人生の複雑さや矛盾を認めつつも、生きろ!と言ってくれる音楽です。僕も病気を抱えているので、彼らの音楽がそばにいてくれることは、生きる上での励みになっています。

僕が例を取り上げるのは、うみのての「東京駅」という曲。



 「俺の家は東京駅なんだぜ そっからどこえだって行けるし なんだって手に入る」

この曲の主人公は気が触れているとしか思えない。だけど、誰よりも"生きて"います。うみのての笹口さんは、どのような状況でも、このように自由に生きられて、生きることを謳歌できることを伝えたかったのではないか。

うみのての音楽には、世間で言う"アウトサイダー"がよく登場します。「正常異常」のAV女優だったり、「言葉狩りの詩」の障害者だったり…(ちなみに、僕も精神障害者です)。うみのては世の中の混沌を描きつつも、彼らの生を肯定します。その肯定の仕方も安直な「頑張れ」という応援ではありません。彼らも「フツウ」の人と同じように"生きて"いるとだけ、伝えています。そして、どんな人でも音楽でそばにいるよ、と。

笹口さんは「最高」という言葉を使わずに、素晴らしさを表現してほしいと言います。笹口さんが嫌うのは思考停止。リスナーに考えさせる音楽を作り続けています。

笹口さんの音楽には、分かりやすさも分かりにくさも、尖ったロックも愛嬌あるポップも、オナニーもセックスもあります。しかし、浅さはありません。あるのは、深度だけです。そんな笹口さんの作る音楽を僕はこれからも支持し続けます。