「私(俺)、この病気だから結婚も就職もできない」と周囲で同年代の複数の人が話しているのを聞き、なぜ最初から諦めるのか不思議でならない。
僕は高校3年生の時にこの病気を発症し、約1年半入院した。その結果、高校をドロップアウトして二浪。だが、死ぬ気で勉強して早稲田大学法学部に入学した。
そして、大学院への推薦資格を得られる、平均して優の成績で卒業。大学入試よりも死ぬ気で勉強して最難関とされる国家資格試験を突破して今の職に就いている(現在休職中)。
2011年に病気が深刻化して再度入院。僕は通常の思考ができなくなって深夜の高速道路に飛び出し、車にはねられた所を救急車によって保護された。この時の生命の危機も、生きることへの闘志を燃やして乗り越えた。
そして、現在も入院中な訳だが、この危機も乗り越えられると思っている。
自殺のためのナイフを買いたいという話を患者友達から聞いた。なぜ、死のうと思うのか。生きているだけで丸儲けなのに。
僕はこの病気にもかかったし、中高ではいじめられたし、赤色人種と自分で揶揄する程のひどいアトピーにもなった。しかし、全て乗り越えてきたという自負がある。
僕が生きる闘志を燃やす理由。それは、全ての争いを乗り越えたいからだ。僕の病気との闘い。政治思想の右と左の争い。善と悪の争い。現実と理想の争い。多数と少数の争い。
今、炎上中の「2010年代の音楽はクソだっ」というツイートのまとめの炎上も乗り越えられるはずだ。クソだと言うリスト係さんの意見も、大好きだと言う僕らの意見も、双方を尊重した上で新しい光景を描けるはず。
「2010年代の音楽はクソだっ」という意見のまとめ
水色の祈り
対立するように見える二項は、実は補完しあうもの。
感情だけでは、生きられない。
論理だけでも、生きられない。
僕らは、感情と論理があって初めて生きていける。
物質と精神。公と私。エゴと自己犠牲。
右と左。歴史と現在。文系と理系。
自分と他人。テキトーと懸命。優しさと厳しさ。
多数と少数。仮想世界と現実世界。肯定説と反対説。
僕らは、二つのそれぞれがあってこそ生きていける。
白黒はっきりつけるのでは、真実に届かない。
今、使われる「美しい」という言葉が、
白黒の境界をはっきりさせることだとしたら、
それは、白の側の、あるいは黒の側の傲慢だ。
僕が苦しくなったら、君に励ましてもらいたいんだ。
君が苦しくなったら、僕が絶対にアゲてやる。
僕が、夢や理想を追い求めすぎるのなら、
君が、現実や実感を僕にくれればいい。
その逆もね。
お願い。
見たくない過去があるなら、
待ち望んだ未来を見せて。
お願い。
触れたくない絶望があるなら、
触れていたい希望を持たせて。
純白の白に、確信の青を混ぜて、
実感の陽と、狂気の月に祈り続ける。
今、僕の色は水色。