少数と多数の間に架橋する | とかげ日記

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【日記+音楽レビューブログ】音楽と静寂、日常と非日常、ロックとロール。王道とオルタナティブを結ぶ線を模索する音楽紀行。

このツイート、ゲイへの差別発言だと思います。まず、「ホモ」というのはゲイの方にとって差別用語なので、「ゲイ」と置き換えなければいけない。それに、この場面でゲイからのリプライを例に出すのは、ゲイの方を傷つけることになりかねません。

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ある方のツイート
男性の方はツイッターで女性にリプライを送る時は「自分に好意を寄せている屈強なホモから同じリプライをされても不快だと思わないリプライ」を意識してツイートするようにしましょう

屈強なホモ「おはよう」
屈強なホモ「今日なに食べたの?」
屈強なホモ「住所教えてくれたら看病しにいくのに」
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迷惑している女性がいるのも分かるけど、だからといってゲイの方を傷つけていいんですか? 20人に1人以上はゲイなどのセクシャルマイノリティがいるという事実を知っていますか? ゲイであることは趣味の話ではなく、産まれた時の脳によることを知っていますか? 無知が人を傷つけて追い込む。

とんねるずの“ほもだほもお”のコントは最悪。ゲイへの理解がなさすぎる。このコントは批判されるのは当然として、“デブ”とか“ハゲ”とかを馬鹿にするコントはやっていいのかという疑問も浮かんでくる。デブコントやハゲコントは演者自身の属性をネタにしているから許容の余地があるんだろうな。

トランスジェンダーへの差別も依然としてある。普通のトランスジェンダー(男性→女性)はオカマともオネエとも言われたくなく、放っておいてほしいもの。あるいは、トランスジェンダーとも呼ばれたくないものなのだ。自分は男性ではなく女性だと思っているのだから。

でも、オカマやオネエであることを恥じらいもなく主張する、恥ずかしいけど面白くて勇敢な人たちもいる。テレビでオカマであることを売りにしてお金をもらっている人たちがそうだ。そして、同じトランスジェンダーであっても、女性→男性のトランスジェンダーは、テレビに出られない状況にある。

アメリカの民主党がセクシャルマイノリティを含めたマイノリティ(少数派)に寄り添った政策を発表して、マジョリティ(多数派)の支持が離れていくという話を聞いて残念に思う。アメリカではヒスパニック系の移民が増えて民主党の支持が伸びるかと思いきや、多数派である白人の支持を失っているために支持率は横ばいになっている。

多数と少数の話でいえば、コアな音楽ファンが大衆的な音楽を好まないとか、コアなゲーマーがライトゲーマー向けのゲームを好まないとかあるよね。逆に、大衆的な音楽のファンがコアな音楽を好まなく、ライトゲーマーがコアなゲームを好まないということも。多数と少数の間に架橋することが僕の課題。

このような問題意識を持っている中、以下に書くある方のツイートを見かけた。
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一人、また一人、音楽を愛している人が今の音楽を「あきらめ」ていく。
その結果が今の狭くて閉鎖的な村みたいなシーンだろうが。
私は嫌だね。
あきらめたくない。
いつかまた90s、00sのようなシーンが戻ってくることを信じているから、声を上げ続ける。
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「狭くて閉鎖的な村みたいなシーン」とは、日本国内のインディ的なシーンも指しているんだろうなあ。大文字のポップやロックのシーンとインディ的なシーン、この二つのシーンのどちらを支持するかという争いでもある訳だ。

大文字のシーンとインディ的なシーンの二つのシーンの橋渡しができるスピッツのようなバンドが増えたら、もっと音楽シーンは面白くなると思います。こういうバンドを仮に「橋渡しバンド」と呼ぶとしたら、僕は橋渡しバンドを支持するし、大文字とインディの両方のシーンの活性化を望みます。

スピッツも初期の頃はコアな音楽性のバンドと言われていたよね。よくフィッシュマンズと比較されるバンドだったんですよ、スピッツは!

草野マサムネさんが書く歌詞や曲とメンバーの演奏は、インディ・ロック的でも大文字のポップやロック的でもあります。スピッツは多数派からも少数派からも支持を得られる稀有なバンドです。



ふくろうずが面白いと思うのは、大文字のポップを目指しているのに、インディ的な音を脱し切れてないというところです。



間口の広い叙情的なギターロックを奏でていたRadioheadが実験的な音楽性になっていくのも面白いよね。



多数と少数の間に橋を架けることが僕のライフワークです。多数派の人たちに少数派の人たちの意見や考えや世界観を届けたり、その逆もね。

僕が笹口騒音さんをこのブログで何回も取り上げるのも、あくまで少数派であるインディの側に立ち、小さな声も大きな声も声にならない声も歌にする笹口騒音さんの音楽を多数派の人たちに聴いてほしいと願っているからです。



人と人が分かり合うためには、意見をぶつけ合うことが必要です。自分と違ったり、関係ないと思えたりする意見でも、その意見に触れることで起こる化学反応があるはずです。

自分と考えの違う人がいるのが自然な状態です。でも、文章や表現は、自分と考えの違う人にどうやって自分の考えを届けるのかということに醍醐味があるのではないでしょうか? その結果、受け手が自分と同じ意見にならなくても無論良いのです。

僕は音楽批評や音楽や小説という武器を使って、このライフワークにこれからも取り組んでいきたいと思っています。