神聖かまってちゃん『楽しいね』感想&レビュー(2012年アルバム) | とかげ日記

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(以下の文章は2012年の発売当時に書いたものです。)

『楽しいね』は、2012年11月14日に発売された神聖かまってちゃんの5thアルバム。

MUSICAの有泉智子は、ロック史に残る傑作だと絶賛していた。僕も同意する。音楽誌の美辞麗句だとは思わない。

有泉さんは、「Oasis的なアンセム性と共に、クレイジーでアヴァンギャルドなセンスを磨き上げながら神秘とイマジネーションに溢れた独自のポップを爆発させ、世界に君臨した黄金期のFlaming Lipsを彷彿とする」と評している。なるほど、このアルバムのエキセントリックで陽性なヴァイヴはフレーミングリップスに通じるものがあるだろう。


『楽しいね』から聞こえてくる音は、『友達を殺してまで。』のようなごった煮のインディジャンクサウンドとは違い、ボトムが整然とし、整理されたハイファイな音だ。

メジャーで流通しているアーティストと比べたら、汚いローファイな音だけど、『友達を殺してまで。』などのアルバムと比べると随分ハイファイな印象の音になった。

前作『8月32日へ』が発売された時は、音がそれまけでのかまってちゃんの持ち味だったローファイな音からハイファイな音になり、少々面食らったが、ハイファイなモードはまだ続いているようだ。

僕はどちらかというと、ローファイなかまってちゃんに魅力を感じていた。「映画」という曲も『8月32日へ』の音源よりも、『つまんね』『みんな死ね』の同時購入特典でもらえるCDのローファイな音源の方が好きだった。なんというか、ナマで身体に迫ってくるような気がした。

しかし、この『楽しいね』から聞こえてくるハイファイな音は最高だ。

『楽しいね』は死の匂いも忍ばせるが、生の匂いが充満している。『友達を殺してまで。』や『つまんね』『みんな死ね』は、生と死が等価で存在していた。『楽しいね』は全力のハイファイの音で生を謳歌している。

そして、同じハイファイの音でも『8月32日へ』と『楽しいね』では生の密度が違う。『楽しいね』は圧倒的に濃い。

1曲目の「知恵ちゃんの聖書」からテンションはMAX。そのまま最後の「花ちゃんはリスかっ!」までポップにロックに駆けあがっていく。11曲目のシークレットトラックは運動の後のクールダウンのようだ。

人の声を模したようなシンセサイザーの音色が飛び交い、カオティックなまでのエネルギーを感じさせる。全体の多幸感あふれるサウンドの中で、ボーカルにも歌詞にもこれまでにない、生への欲求とパッションを感じる。

サポートメンバーの柴由佳子によるバイオリンも美しい。「コンクリートの向こう側へ」は、の子がアップしていたデモの曲の良さを超えていないと途中まで聴いて思っていたが、バイオリンが入るところから、これはすごいと思い始めた。デモはダウナーな感じで本当に夕陽の向こうへ沈んでいくような気持ちがしたが、CDのバージョンは生きる上で自分が嫌に感じることが全て洗い流されていくような気持ちになった。

サウンドの質も『8月32日へ』より向上している。よりシャープで音の粒立ちが良いサウンドになっている。エンジニアのはぎやまきおとバイオリンの柴由佳子がサポートに加わり、そのためにサウンドが向上したことをの子もナタリーのインタビューで答えている。


神聖かまってちゃんは、音源の多くがネットにアップされ、CDとして出す意味が薄れるのではないかという意見がある。この意見への反論を述べてみたい。

ネットのデモはの子の宅録だが、CDはかまってちゃんのメンバー全員で演奏している。今はの子以外のメンバーのファンも多く、メンバーが直に演奏している音源を聴けて喜んでいるファンがたくさんいるだろう。

CDアートワークも、募集されたテーマに沿ってファンが応募したイラストの一つ一つにの子が目を通して歌詞カードに載せるイラストを決めている。かなりの数のイラストがの子のもとに届いているようだが、一つ一つに目を通してくれているのはファンにとっても嬉しいことだ。完成したアートワークも曲やアルバムの世界観を豊かに表現していて、の子のセンスはここにも生かされている。

一枚のアルバムとして通して聴いた時の完成度も、これまで発表した5枚のアルバムはみな高い。最大74分の音空間の中でどのように世界を表現し、構築するのか。CDアルバムという録音物の作品性に挑戦している。『つまんね』、『みんな死ね』を通して聴いた時は、このアルバムの音世界の中で革命が起きていると思った。このアルバムの中の世界はまったく新しいと思ったのだ。『楽しいね』を聴いても革命は続いていると感じる。

そして、『楽しいね』の楽曲は、その多くがネットにアップされたデモを超えた質のものだ。心に迫ってくるかといえばPVの映像も含めたデモに軍配が上がる曲もあるが、アレンジの巧みさ、アンサンブルの豊さ、録音技術の点ではデモ超えしている。

以上の点を考えると、神聖かまってちゃんがCDを発表する意義は依然大きいといえるのではないか。


神聖かまってちゃんには売れてほしい。CDから配信の時代になったとはいえ、ネットでの再生回数よりも売上枚数でリスナーの多さや影響力を判断する人が多いだろう。神聖かまってちゃんはさらなるテレビ進出を狙っているが、売上枚数が少なかったらオファーもかかりにくいだろう。

神聖かまってちゃんには売上の面でも天下を取ってほしい。

そして、かつてのニルヴァーナのように、オーバーグラウンドとアンダーグラウンドをひっくり返してほしい。80年代はウェルメイドでハイファイな音が好まれていた時代だった。それをニルヴァーナによるグランジブームがひっくり返し、汚い音がかっこいいと思われる時代を作った。そうして、ローファイな音が好まれるようになり、ベックなどのアーティストが出てきたのだ。ニルヴァーナの怒りと叫びはロックを含めた商業音楽の世界を変えた。

神聖かまってちゃんは今の日本のニルヴァーナになってほしい。常套句やクリシェの使い回しだけで何も訴えない曲が多いJ-POPの世界を変えてほしい。そして、カートのように自殺せず、全ての生をかけて日本ひいては世界の熱源になってほしい。

でも、の子は自分はカートではなくフレディ・マーキュリー(クイーン)だと言う。そのエンターテインメント性も神聖かまってちゃんの魅力だ。


「今日この矛盾を極めた世界の現実に誠実な魂こそ、たしかに強烈に引き裂かれているのである。アヴァンギャルド芸術は、その引き裂かれた魂の生々しい傷口である。」
(『画文集・アヴァンギャルド』1948年,月曜書房)

かつて岡本太郎はそう書いた。の子はこの言葉を知らないだろうが、知らないうちに実践している。つまんね、楽しいね。男らしく、女らしく。大人にはなりたくないが、ガキだとも言われたくない。消えたい願いと生きたい思いをぶつけて解き放たれるの子は、引き裂かれた魂の生々しい傷口を露出させる。

神聖かまってちゃんは、「傷つきやすさ」の音楽だ。の子は痛々しいぐらいに傷口を見せつける。

「知恵ちゃんの聖書」で「当たり前だのクラッカー」と歌うところを前田製菓からNGを出され、「クラッカー」の部分の音声が消去されてしまった。MUSICAのインタビューを読むと、の子はこの件でだいぶ落ち込んでいたようだ。

この箇所は「傷つきやすさ」の象徴のように聞こえる。

僕も神聖かまってちゃんが作った完成度の高いこの作品に傷がついてしまい、とても残念だった。の子は自分の分身を傷付けられたようで苦しかっただろう。


の子は鬱から繰になる時に一番芸術性に富んだ曲ができるといっている。傷ついた心が解放される時、まさに芸術は爆発する。

僕らが何かに傷つく時、そのそばで願いのように神聖かまってちゃんの音楽は鳴っている。
文化や芸術の歴史は人間の願いと想いの連なりだ。神聖かまってちゃんの願いが多くの人に届いてほしい。


ちなみに、僕が好きな曲は「仲間を探したい」「コンクリートの向こう側へ」「雨宮せつな」「花ちゃんはリスかっ!」です。
あなたの心に響いた曲は何ですか?


仲間を探したい