音楽に客観的な良し悪しはあるの? | とかげ日記

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【日記+音楽レビューブログ】音楽と静寂、日常と非日常、ロックとロール。王道とオルタナティブを結ぶ線を模索する音楽紀行。
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先日、オーディオに詳しい友人にアドバイスしてもらいながら、ヤマダ電機でヘッドホンを購入しました。友人によると、音質は価格に比例し、同じ価格帯なら個人の好みで購入を決めたらよいようだ。一万円台のものを買おうかと思いましたが、家計に打撃だし、6000円で良いヘッドホンがあったのでそれを購入しました。

買ったのはaudio-technicaの型番ATH-EP700の6000円台のヘッドホン。今まで1000円程度の安っちいイヤホンで音楽を聴いていたので、だいぶ音の質感が違う。聴いていると気持ちいい。スティーリー・ダンなど、音質にこだわっているアーティストは、良い音質のヘッドホンで聴かないとその価値は分からないのかもしれない。

ヘッドホンを買った後、居酒屋で話していた時、話は音楽の良し悪しのくだりになり、友人は「●●君(僕の名前)には音楽の客観的な良し悪しがあるんだろうね。でも、僕には音楽に優劣はなく、好き嫌いしかないように思うよ。好き嫌いだけじゃいけないの?」と話していました。

今回のテーマは「音楽に客観的な良し悪しはあるの?」です。

今回の記事は雑感カテゴリの記事です。
雑感カテゴリはめんどくさいことには定評のあるよーよーが更にめんどくさいことを考えることで定評のあるカテゴリです。

友人とその話をしてから、僕はずっとこのことについて考えてきました。
確かに、音楽に良し悪しはなく、好き嫌いだけかもしれない。でも、好き嫌いで人それぞれだとしたら、悪しき相対主義におちいらないか? 議論も何も始まらないし、ミュージシャンは何を目標に音楽を創るのか?

最近、ゲスの極み乙女。の川谷さんの言葉が書かれたタワレコのポスターも好き嫌いだけでいいじゃないかと謳ったものであると思う。

「価値観の違いが良い意味ではなく悪い方に作用している気がする昨今/音楽にも色々な価値観があって、色々な楽しみ方がある。/それぞれが好きなように音楽を聴き、楽しむ。/もうそれだけでいいじゃない。」
(タワレコポスター)

価値観の押しつけはよくないという話なら僕も同意だ。音楽の良し悪しは音質のように客観的に決まるものではないので、音楽の良し悪しを押し付けるのもよくないのかもしれない。僕も『とかげ日記』で特定の価値観や音楽を押し付けている訳ではない。あくまで、こういう価値観や音楽もあるよという紹介だ。そして、押し付け合いだけから議論が生まれる訳でもない。

音楽の話じゃないけど、レビューサイトで酷評されている『第3次スーパーロボット大戦Z 天獄篇』、プレイし終わっての感想は僕にとって最高のゲームだったというものだ。

スパロボの「鋼の魂」というテーマは、「天国への階段」の歌詞に通じると思った。

Led Zeppelinは「天国への階段」で、「すべてが一つになり、一つがすべてになるその時、揺るがない岩(ロック)のような存在になる」と歌った。自分たちもそんな歌を作ることを目指していたのだろう。

60年代末にラブ&ピースの狂騒が終わり、人々があれは妄想だったとして、ラブ&ピースが敗れ去った後に出てきた70年代のツェッペリン。ツェッペリンはその状況の中でもロックの理想を信じていた。それは、「天国への階段」に登場する、天国へ行く階段は買えると信じる少女の妄想にも似ていた。「天国への階段」は、理想を鳴らしたロックのレコードは妄想を現実にするのだという一種の妄想讃美歌だ。

「天獄篇」は「すべてが一つになり、一つがすべてになる」揺るがない岩のような理想を掲げたゲームだった。岩どころではない、「鋼」までその志は硬かった。一人の人間の中で、あるいは、多文化主義的に違う方向を向いている人間同士が違う方向を向きつつも、「すべてが一つになり、一つがすべてになる」理想を掲げていた。そうすることによって、どんな邪悪にも打ち勝つことができるのだと。今の多くのロックが失ってしまった理想がそこにはあった。

レビューサイトでは劣っているゲームとされているけれども、僕にとっては素晴らしいゲームだったのだ。このように、多くの人が劣っているとする作品でも、個々人が素晴らしいと思う作品は世の中に無数にある。

2chのこのスレも考えさせるスレだった。

「音楽のジャンルに優劣はあるか?」見る前に飛べ踊れ, 2016.2.4.
http://safarina.blog.fc2.com/blog-entry-4192.html
(2017年10月現在、このサイトは閉鎖されています。)

このスレの中で腑に落ちた意見があって、
「言い換えると、優劣は「無い」んじゃない
 優劣は「無限にある」ってことかな」
というコメントがそれ。
演奏技術、メロディ、リズム、ハーモニー、革新性、文学性、肉体性、芸術性、大衆性、音質、訴求性など無限の優劣の基準があって、さらにその無限の基準の中でも無限の基準があって、作品の優劣を一概に語ることはできないのだ。

SMAPの「世界に一つだけの花」の歌詞もね、ここまで考えてようやく納得した。
「No.1にならなくてもいい」と歌って、オンリーワンでいいんだとする歌詞には、もともとのオンリーワンで留まり続けて努力もせずにどこへも行けないんじゃないかと思って最初は反発していた。だけど、オンリーワンの花を咲かせることに一生懸命になればいいとも歌っている歌なんだよね。

一方でこんな意見もある。

「芸術的価値の評価には序列がなければならない。「序列が生じるもの」こそが「芸術的価値」なのだ、と言い換えてもいい。
 すべての芸術には等しく価値がある、というのは真実かもしれないが、だからといってこれを「すべての芸術には『等しい』価値がある」と誤読するのは悪質な欺瞞だ。三歳児が初めて描いたクレヨンの絵とダ・ヴィンチの諸作が「等価」のわけはない。
(中略)
 ヒエラルキーがあってこその「価値」なのだ。それがあればこそ、「本流とは違うオルタナティヴなもの」も、存在できるだけの余地が生じてくる。
(中略)
 英語圏には、ロックも厳然たる「ランキング」がある。ロックが生まれた国であるアメリカがとくに積極的で、ありとあらゆるランキングが、つねに、いたるところで発表されている」
川﨑大助『日本のロック名盤ベスト100』講談社, 2015, pp.10-12.

個人やメディアが各々の基準で発表する価値のランキングはあるべきだと思う。だが、そういった主観的な作品の良し悪しはあっても、客観的な良し悪しはないはずだ。良し悪しは押しつけるべきものではない。押しつけるから問題になる。

作品はスポーツのように優劣が決まるものじゃない。ミュージシャンはオンリーワンを磨き続けて作品にし、その作品を好きな人と嫌いな人がいる。ただ、複雑になり目を背けたくなるような辛い現実の中でも、綺麗ごとではなくて人生や社会や音楽の理想を濃密に歌うような音楽や作品が僕は好きだし、そのような作品を押しつけではなく紹介し、応援したい。僕の考えた結論は以上です。