彼と彼女のBGM (フジファブリック) | とかげ日記

とかげ日記

【日記+音楽レビューブログ】音楽と静寂、日常と非日常、ロックとロール。王道とオルタナティブを結ぶ線を模索する音楽紀行。

「こんにちは」
少女が言う。
どもりながら、
「こ、こんにちは」と僕は返す。
二人でエレベーターに乗った。
彼女は5階で降りた。
僕は6階で降りる。

消火器の赤の隣を歩き、壁のベージュの世界が終わる。
鍵がかかったドアを開け、玄関で古くなった靴を脱ぐ。

絵を描いている。油の絵の具をキャンバスに塗りたくる。焦げ茶のテーブルの上に、ひとつだけ置かれている真っ赤なりんご。僕はりんごの絵を描いている。

僕は人とうまく話をすることができない。頭の中で話したい言葉のアイデアが浮かんでも、そのアイデアは頭の中で空を切る。やっとのことで言葉が口から出ても、舌が回らず、言葉は言葉にならずに音として空を切る。僕みたいな人のことを吃音というらしい。

僕が僕のことを覚えている時から、僕はずっとそうだった。でも、少ない友達と一緒に、楽しく毎日を過ごしてきた。周りの人から馬鹿にされることに、少しだけ怯えていたけれども。実際、馬鹿にされたこともあった。そんな時も僕は力なく笑うだけ。だけど、毎日は楽しかったんだ。

ペーパーの試験はなぜだか自分でも不思議な程によくできる。そのおかげで、僕は世間では一流と呼ばれている大学に入学することができた。母は亡くなってもういないけれど、父はとても喜んでくれた。会社を休んで入学式に一緒に大学に行ったくらいだ。

だけど、僕は絵のことが忘れられなかった。大学を卒業した後は、バイトでお金を稼ぎながら、いつか個展を開くことを夢見て、こうして絵を描いている。あ、少し訂正する。大学を卒業して3年経った今、バイトが見つからなくて困っている。だから、昼はバイトの面接と面接のアポ取り、夜は絵の勉強というのが今の僕の生活だ。いつまでも親元でパラサイトしている訳にはいかないしなあ、どうしたものか。

普通の親なら定職に就けと言うだろう。その方が子どもも親も幸せなはずだから。だけど、僕の父親は「自分の好きなことをやれ」と言って僕の夢を見守ってくれている。母親が死んでから、厳しかった父親は急に優しくなった。就職ではなく絵の道を志したいと僕が言った時も、険しい道だろうけれどやれるところまでやってみなさいと言ってくれた。

小さい頃から絵は得意だった。美術の成績は5段階評価でいつも5。賞を獲ったこともあった。先生にも褒められて嬉しかった。絵を描いている時はモチーフとモチーフの周りの景色のことを考えているだけでいい。後は自分が抱えているモヤモヤを吐き出すように描くだけ。それで美しい絵が描けたら、とびっきり嬉しい。

僕が何か物事に没頭できるのは、絵を描いている間だけだ。絵を描いている時は他のことを考えないで済むむ。世の中のこと、自分の将来のこと、本当は何も考えたくない。本音はずっと逃げていたいのだ。

言葉ではいつも伝えられないし、伝わらない。言葉で伝えようとすることには、勇気がいる。その勇気は僕にはない。それに、言葉で伝えられることなんて、限られているだろう。だから、僕は絵を描いている。

否定されることが怖い。他人から「それは違う、間違っている」と言われるのが怖い。だから、僕はキャンバスの上、油の絵の具を何重にも塗り重ねる。

中学の時から背景は茶色が多かった。茶色を重ねて、それはまるで僕の心みたいだった。

僕の心は臆病だな。僕の心は臆病だな。誰か、僕の心を見て。見て。僕の心を、見て。

(BGM) バウムクーヘン / フジファブリック



ある晩のこと、唐突に、僕の父親が「あのさ」と言って、テレビに向いていた僕の視線を父親に向けさせた。僕の父親は、「今日、マンションの管理組合の会議が終わった後、聞いた話なんだけどさ」と前置きをした上で、僕が驚くことを話し始めた。

「5階の○○○号室に住んでいる女子高生、5階から飛び降りたらしいよ。幸い、木に引っかかって軽い骨折だけで済んだみたいだけど。事情に詳しい人によると、自殺を図ったんじゃないかって」

いつもよりも少しだけ神妙なトーンで父親は言う。ちょっとの間、僕とその話をして、また父親はテレビのバラエティ番組を見て笑っている。

5階に住むその子とは、エレベーターで何度か会釈を交わしたことがある。彼女はそこまで追い詰められていたのか。いつも自分から挨拶をする、その様子からはそんな風に見えなかった。

彼女が飛び降りるまでに、何か僕にできたことはなかったのだろうか。

しばらく考えたけれども、僕にできたことは何もなかった。考えること自体が馬鹿なことなのかもしれない。おこがましいことなのかもしれない。他の人は軽く受け流して終わりだろう。でも、なんだか僕は悲しかった。骨折で済んで良かった。そう思った。そう思ったら、涙が出てきたんだ。本当に。

昨日。気持ち良く晴れた日曜日。僕は公園で、持ってきた折りたたみの椅子に座り、公園の景色をスケッチしていた。時間はゆっくりと過ぎ去り、いつのまにか日が沈み始めた。スケッチが完成しかけた頃、夕方5時のチャイムが鳴った。

ふいに後方から声がした。

「素敵なスケッチですね」

僕が後ろを振り向くと小柄で初老の女性が立っていた。かわいらしい日傘をさして、すくっとその女性は立っていた。

「この木の様子、そのすべり台の感じ、私、好きです」

突然こんなことを言うなんて、ずいぶん変わった人だなと思った。そんなことを言われて、少し恥ずかしくなった。

でも、嬉しかった。他人に自分の絵を褒めてもらうのは、学校の先生と友人を除いて初めてかもしれない。

「あ、あ、あ、あり、がとう、ご、ござい、ます」

嬉しさのせいで、余計にどもってしまった。その後も少しだけその女性と話をした。凛としたたたずまいのチャーミングな女性だった。旦那さんを亡くし、今は一人暮らしらしい。

画材をしまい、公園から家に帰るまでの間、僕の頭の中は嬉しさと恥ずかしさが終わらないいたちごっこを繰り広げていた。

後で思った。僕の絵を見て何かを感じてくれる人がいる。褒められたことよりも、その事実が嬉しかったんだ。

(BGM) 若者のすべて / フジファブリック



今日。今日も気持ち良く晴れている。

昼に電話があった。清掃の仕事が決まった。これでしばらくはお金を稼げるぞ。喜ぶ、というよりも、まず先に僕は安心した。

安心して、僕は昨日とは別の絵の続きを描き始めた。

夕方5時のチャイムが鳴る。

絵を描き始める前、外に出た時、5階のあの子が友達らしき子たちに笑顔で手を振っているのを見かけた。明るいその笑顔を見て、僕もなんだか救われた気がしたんだ。彼女はきっと、もう大丈夫だろう。根拠はないけど、こないだエレベーターで挨拶した時と違い、笑顔に光があった。

その子のことをちょっと考えた後、魔法がかかったように夢中になって絵を描いた。いつの間にか、5階の子のことを忘れ、世界はキャンバスとモチーフだけになった。

僕は絵を描いている。油の絵の具をキャンバスに塗りたくる。僕はりんごの絵を描いている。真っ赤な、真っ赤なりんごの絵を描いている。生きている。生きているんだ。生きているんだ。生きているんだ。生きているんだ。僕は生きているんだ。

この絵を描き終わったら、新しい生活を始めよう。一人暮らしを始めよう。個展の準備も進めよう。りんごの色は塗り終わった。背景は透きとおった水色でいこう。

(BGM) 茜色の夕日 / フジファブリック