プッツン、キレタこと | 頭痛 あれこれ

頭痛 あれこれ

 「慢性頭痛」は私達の日常生活を送る際の問題点に対する”危険信号”です。
 このなかで「片頭痛」は、どのようにして引き起こされるのでしょうか。
 慢性頭痛改善は、「姿勢」と「食生活」の改善がすべてであり、「健康と美容」のための第一歩です。

 平成31年4月19日に、広島大学医学部卒業後、50周年のクラス会が開かれました。
 それまでは10年毎に開かれていましたが、その都度何らかの理由で出席出来ませんでした。

 このため、卒業後はじめて同級生との再会でした。思えば、昭和63年8月に広島・呉を離れて以来の30年ぶりの帰郷でした。ですから、広島駅の変容ぶりは、まさしく浦島太郎の心境で、駅構内で迷子になり、さらに階段の昇降により、COPDで苦しむ羽目になりました。
 私達は、昭和43年3月25日に広島大学医学部を卒業して50年になっていました。
 入学時には、同級生は40名でしたが、途中の脱落者がいたため卒業時には35名でした。
 さらに、卒業後、7名が既に亡くなられ、平成31年4月19日には28名になっていました。このうち出席者は21名でした。


 思い起こせば、この医学部在学中が、私にとっては人生で最も希望に満ち溢れた頃で、当時の記憶が走馬燈のように駆け巡ってきます。
 大学卒業後から現在まで、何ひとつとして楽しい思いはなかったからです。


 入学した際には、クラス担任のチュウターに引率され、安芸の宮島の紅葉谷公園で、今後6年間の予定が説明されました。この時の話の内容よりは、4月の新緑のカエデがいまだに脳裏に焼き付いています。
 秋の紅葉したモミジもきれいですが、これ以上に新緑のカエデは、いろいろなモミジの名所(京都の東福寺等々)がありますが、これとは比べものにならない美しさ・神秘的な荘厳さがまざまざと想い出されます。


 学生時代の最も記憶に残っているのは、硬式庭球部に入部し、日夜、練習に励んだことです。

 私にとっては、中学・高校時代を含めて運動部に所属することはなく、初めての運動部でした。テニスに魅入られたのは、ボールがラケットの真ん中に当たった時の澄んだ金属音でした。この音に取り憑かれたといっても過言ではありません。
 庭球というスポーツは年季のスポーツとされ、経験の差によって力量は歴然としており、並大抵な練習では勝てないため、こうした方々に追いつくために、それこそ日夜鍛錬を積み重ねない限りは試合では勝つことは到底不可能でした。
 このため、学部3年を終えて(第一線を退いて)、卒業間近になってやっと、サマ(様)になるテニスができるようになったような状態でした。
 こうしたことから、現役中は練習台としてカベのような存在でしかありませんでしたが・・夕焼けのタクとのアダナで呼ばれていたことが懐かしく想い出されます。
 医進課程の頃は、午後の授業を受講するため大学のキャンパスをウロウロしている時に庭球部員の同級生と顔を合わせようものなら、授業そっちのけで、示し合わせたように、そのまま医学部のある霞町のテニス・コートに移動し、日が暮れるまで、ボールを打っていた記憶があります。
 また、夏の合宿で水を飲みすぎて急性胃炎を起こし、余りにも激しい腹痛であった(胃痙攣)ことからオピアトという麻薬の注射をしてもらった経験もあります。そして、この効き方は頭痛の際に服用していたセデスGの効き方と極めて酷似していたことでした。それは、あたかも、雲がスーと消えていき晴天のごとく晴れ渡っていくような心境でした。
 この爽快感が、病みつきとなって麻薬中毒やセデス中毒の原因となることが実感されました。


         私も”セデスG”のお世話になっていました
          
https://ameblo.jp/yoyamono/entry-11950063704.html


 それにしても、学生時代にテニスに魅入られることなく、この時間を学業に励んでおれば、もっと優秀な医師になれたのではないかと、反省しています。


 そして、学生時代の忘れられない思い出は、夏休みの期間を利用した自転車旅行です。
 現在のような、スポーツ用のサイクリング車ではなく、自転車店で中古の実用車を手に入れて、いつでも壊れてもよいような代物(自転車)での旅行でした。
 これで、九州一周、四国一周旅行をしました。とくに四国一周旅行は、八十八カ所のお遍路参りを兼ねて行いました。自転車を担いで山越えをしたこともあり、こうしないとお遍路廻りはできませんでした。
 当時は、現在のように道路も大半は舗装されていなく、ガタガタの舗装のされていない道路をこうした自転車で走破したことになります。
 当時は、家はそんなに裕福な家庭ではなかったため、旅行前にはアルバイトで資金をつくり、泊まるところはすべて”野宿”で押し通しました。
 九州一周旅行では、小学校の宿直室でもお世話になりました。当時は、このようにおおらかな時代で、初めて飲む芋焼酎にツブレテしまったこともありました。
 このような、九州一周、四国一周旅行でしたが、いずれも2週間ばかりで一周したことになります。
 その後、紀伊半島を一周する計画もたてましたが、都合により実現できませんでしたが、皮肉なことに、現在、この紀伊半島に住むことになろうとは夢にも思いませんでした。
 こうした自転車旅行では飽きたらず、最後は、松江市を出発の起点として、広島までの中国山脈縦断を徒歩で、どのくらいで完結できるかをチャレンジしました。
  このときは3日間で歩くことができましたが・・。


 このように、体力だけは誰にも負けないとの自負心がありました。
 ところが、このように体力だけには自信を持っていた屈強な私が、大学を卒業後、国家公務員等共済組合連合会 呉共済病院内科に勤務することによって、片頭痛を発症することになろうとは、信じられない思いしかありませんでした。
 その詳細については、これまでも以下で述べてきたことです。


    実は、私も片頭痛持ちでした
     
https://ameblo.jp/yoyamono/entry-11949839076.html

 
 こうして見れば研修医時代の生活が如何に過酷なものであったかは想像を絶するものでした。当時の笑い話に、朝家を出る時に娘に「オジチャンまた来てね」といって送り出されていたことは未だに忘れることができません。それだけ、家には帰れませんでした。


 私が、昭和37年に広島大学医学部に入学した時は、現役合格者は私を含めて4名だけで、これ以外は一浪、二浪、三浪の年上の同級生ばかりでした。
 当時では、クラスのまとめ役としての”総代”という役割がありました。
 このまとめ役に、年下の現役合格者が押しつけられていました。
 要は、使い走り(俗に言うパシリ)のようなものでした。
 大学卒業当時は、インターン闘争の終結年度にあたっていました。
 この際には、この時のまとめ役として、私が押しつけられることになりました。
 と言いますのは、これまでの諸先輩が永年積み重ねてきたインターン闘争の最終段階にあり、運動部の諸先輩の先生方の運動を完結させることが私達の学年の責任とされていました。運動部の諸先輩の命ずることは絶対であり、逆らえない風潮がありました。これ程、上下関係は厳しい世界でした。断ろうとすれば医学部を中退するしかありませんでしたから・・


 さらに、インターンが廃止になった時点では、臨床研修をどうするかということから、1年間に限定して、43青医連・広島支部を結成することによって、その役を引き継がされるといった苦い経験があります。
 スローガンは「医局講座制の打破」でした。これが無給医局員の解消に繋がっていくはずになっていたからです。
 このように、私には思想的な背景があった訳では決してありません。
 要するに、全共闘でも全学連でもなく、ノンセクト・ラジカルでしかありませんでした。
 その過程では、医学部封鎖・国家試験ボイコットといった手段も行ってきたことも事実です。
 当時、下村秀雄、長谷憲、安東千代らとともに活動を行っていましたが、この3人は生粋の全学連であり、民医連系の思想の持ち主であり、私とは全く別格の存在でした。


 こうしたことから、留置場生活も経験し、また機動隊と正面からぶつかりあう恐怖感は未だに忘れられない記憶として残されています。


 この当時は、医師国家試験は年2回行われていました。
 初回の国家試験はボイコットしましたが、次の国家試験の前には、厚生省の役人に、「なんとか受験する」ように説得された記憶があります。
 そして、いざ受験になれば、余程のことがない限りは不合格にならないような”形式的な”試験でしかありませんでした。
 それ程までに、若手の安上がりでこき使える医師が全国的に必要とされていたということです。
 このような医療制度でしかありませんでした。
 このように、インターン制度なき後の、若いインターン生に匹敵するような無給の労働力が、どこの医療機関でも必要とされていたことが如実に示されていました。
 このことは、1年間の臨床研修を終えて、国家公務員等共済組合連合会 呉共済病院内科に勤務することによって、思い知らされることになりました。
  その後のことは、これまでも当ブログで明らかにしてきたことです。


    引っ越しを終えて その7
     
https://ameblo.jp/yoyamono/entry-11947167073.html


 元、43青医連・広島支部長といった形式的な肩書きで勤務したにも関わらず、国家公務員等共済組合連合会からの指示により、病院長と内科医長に徹底的にマークされ、こうした青医連運動を今後一切させないというタテマエ・目的から、昼夜を問わず時間的に拘束され、ほとんど寝かしてもらえないような生活を強いられることになりました。
 端的に申し上げるならば、その後の国家公務員等共済組合連合会 呉共済病院内科での5年間の内科研修は、まさに人間の生活とは程遠い世界であり、動物以下の生活であったように思っております。
 先述のように、体力だけには自信を持っていた私にとって、こうした過酷極まりない5年間の生活環境が、「なぜ片頭痛が発症するのか」ということを考える際の、重要なヒントになっています。
 このように、専門家の頭痛診療および頭痛研究の絶対的な基準とされる「国際頭痛分類 第3版β版」に基づく論理がいかに”まやかし”なものなのかを痛感しています。
  

 慢性頭痛とは”未病”の段階にあり、「健康的な生活」を送ることを阻害する生活習慣に根本的な原因があるということです。
 そして、「ホメオスターシスの乱れ(自然治癒力の低下)」によって慢性頭痛という「症状」が出現し、さらに様々な生活習慣の問題点が加わることによって、難治性の頭痛という「病気」にまで進展していくことになります。
 すなわち、日常的に感じる極く軽度の頭痛・緊張型頭痛、片頭痛では、未だ自然治癒力の低下状態(ホメオスターシス三角の歪み)の段階・すなわち”未病”の段階にあり、単なる「症状」でしかなく、「病気」に至る途中の段階にあり、ここに諸々の生活習慣の問題が加わることによって、初めて「病気」としての「慢性緊張型頭痛」・「慢性片頭痛」へと進展していくものであるということを身をもって経験しました。


  こうした経験が現在の考え方の”礎(いしづえ)”ともなっています。


  以上のように取り留めもなく、医学部時代が走馬燈のように思い出されます。
  このように医学部時代は、青春まっただ中にあり、私には貴重な記憶の一駒になっています。
 ただ、残念なことは、学生時代に、運動部や自転車旅行に没頭させないような、私を学業の世界に没頭させるような恩師に巡り会えなかったことです。
 しかし、卒業後、国家公務員等共済組合連合会 呉共済病院内科に勤務する機会を与えられ、ここで、内科医長の岡田 啓成先生からは臨床医としての真髄を叩き込まれ、秋田脳血管研究所の沓沢 敬之先生には急性期脳卒中学の何たるかを教わり、広島市民病院・脳神経外科の三宅 新太郎先生には脳血管撮影の真髄を伝授して頂き、田川 皓一先生には神経学的検査法の手ほどきをお受けしました。
 そして、忘れてはならないのは、私の「臨床頭痛学」の師匠は、自分の頭痛の実体験をもとにしたものです。

 こうした多くの指導者に恵まれたことが、今日の私があるものと思っております。
 私は、大学の教室に入局するだけが、医師としての道筋ではないと思っています。
 ということは、青医連運動の本来の趣旨である「医局講座制の打破」であり、これを生涯にわたって貫き通すことが可能になったように思っております。結果論ですが、私自身「医局講座制」を認めることなく、自分自身で「医師」としての道を切り開いてきたように思っています。
 仮に、大学の教室に入局しておれば、医局に埋没してしまい、現在の私はなかったように思っております。こうしたことが私の考え方の”礎”になっています。


 これが、現在の私の「新しい臨床頭痛学」を構築するための源になっています。


 平成31年4月19日に、広島大学医学部卒業後、50周年のクラス会に出席し、最も、ガッカリさせられました。
  インターン闘争、インターン制度廃止後、卒後研修の改善を求め、43青医連・広島支部を結成し、医局講座制廃止運動を中核として行ってきたはずの下村秀雄、長谷憲、安東千代のその結末でした。長谷憲は顔を見せず、下村秀雄、安東千代に至っては完全に日和ってしまい、以前の闘士の姿は微塵もみられず、まさに凡人以下でした。

  卒業当時、口角に泡を飛ばして、議論したきたことが、アレは何だったのかと信じられない思いでした。


 私は、43青医連・広島支部の解散宣言を提言しようかとも思いましたが、余りにも馬鹿らしく、自然消滅し、さらに後退している状況では、このような宣言をするまでもないと判断し、クラス会が終わってから、和歌山の田辺に帰ってから改めて、「私の卒業後50年の足跡」と題して、43青医連・広島支部長としての末路を50頁に渡って書き記し、今後、私達がどう医療改革を進めていくべきかを提言し、クラス会に出席された方々全員に送付しました。これに対する回答にもガッカリさせられ、一時は再起不能になるまで落ち込んでしまいました。


 いずれにしても、運動の核ともなるべき下村秀雄、長谷憲、安東千代らが、このテイタラクでは、後はなるようにしかならなかったということでした。
 大半の同級生は教室に入局し、6名は教授まで登り詰め、巨万の富を築く輩もおり、「広島大学医学部卒業後、50周年のクラス会」は、こうした輩の自慢話に花が咲き、どこの世界でも見られる”同窓会”でしかなくなってしまったということです。


 このような現実を直視することにより、私の心のなかで何かプッツンと、キレテしまったことも事実でした。
 こうしたことが重なって、医院が潰れていく大きな要因にもなっています。


 このような事実を踏まえて、私の考え方を汲み取って頂ければと思っております。

 

 

 

 

 ここでコマーシャルです。


  頭痛が気になったら・・
   
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